第一章 純粋な味の女
水島蓮の世界は、味でできていた。それは美食家のそれとは全く異なり、むしろ呪いに近い。彼は他人の口から紡がれる嘘を、明確な「味」として舌の上に感じ取ってしまうのだ。その味は決まって、鈍い硫黄の匂いを伴う腐った卵の味だった。
この共感覚にも似た奇妙な能力のせいで、蓮は三十を過ぎても尚、他人と深い関係を築けずにいた。愛の告白は蜜のようでいて後味は腐臭を放ち、友情の誓いは爽やかな果実のようでいて芯はどろりと腐っていた。世界は嘘で満ちており、その腐敗した味に吐き気を催しながら生きるのは苦行以外の何物でもなかった。
だから彼は、神保町の路地裏に古書店『時雨堂』を開いた。古びた紙とインクの匂いだけが満ちるその空間は、蓮にとって唯一の聖域だった。言葉を交わさずとも、本の背表紙は雄弁に真実を語る。少なくとも、紙は嘘をつかない。客のまばらな店内で、蓮は静寂という名の真実に浸っていた。
その日、店のドアベルが、いつもより軽やかな音を立てた。入ってきたのは、一人の女性だった。陽の光を吸い込んだような、柔らかい栗色の髪。服装は質素だが、凛とした佇まいが彼女の存在を際立たせていた。
「あの、すみません。本を買い取っていただきたくて」
澄んだ声が店内に響く。蓮は無愛想に頷きながら、カウンターの内側から彼女を見据えた。どうせこの女も、本の価値を偽り、少しでも高く売りつけようと、舌の上に腐った卵を乗せてくるのだろう。そう警戒した。
「どのようなご本を?」
「『夜間飛行』の、初版限定本です。アントワーヌ・サン=テグジュペリの」
蓮は息を呑んだ。それは彼が長年探し求めてきた稀覯本だった。喉から手が出るほど欲しい。だが、だからこそ警戒を強めた。希少性を盾に、贋作を掴ませようという魂胆かもしれない。
「拝見しても?」
彼女は頷き、持っていた桐の箱をそっとカウンターに置いた。古びてはいるが、丁寧に手入れされた箱だ。蓋を開けると、深い藍色の装丁が姿を現した。指先が微かに震えるのを抑えながら、蓮は本を手に取る。紙の質感、活字の滲み、そして巻末の署名。紛れもなく本物だ。
「これは……素晴らしい」思わず声が漏れた。
「父が大切にしていたものなんです。でも、どうしてもお金が必要になってしまって」
彼女は俯きながら言った。その言葉に、蓮は舌の神経を集中させた。来る。いつもの、あの不快な味が。
しかし、何も感じなかった。
口の中に広がったのは、まるで雨上がりの森に湧き出た清水のような、清冽で純粋な味だけだった。腐敗の気配は微塵もない。
「……お名前は?」
「葉山詩織、と申します」
詩織。その響きすら、蓮の口内を浄化していくようだった。
蓮は、生まれて初めて出会った。嘘の味を一切させない人間に。彼の灰色だった世界に、一筋の透明な光が差し込んだ瞬間だった。
第二章 甘美な真実の日々
詩織との出会いは、蓮の人生を根底から変えた。彼女が語る言葉は、どれもが純粋な水の味がした。近所の花屋で働いていること。幼い頃に母を亡くし、父親と二人で暮らしてきたこと。その父親が最近病に倒れ、高額な治療費が必要になったこと。彼女の語る一つ一つの事実は、蓮の乾いた心に染み渡るようだった。
蓮は彼女が持ち込んだ『夜間飛行』を、相場の倍以上の価格で買い取った。それは古書店の主としては失格の行為だったが、人間・水島蓮としては、そうせずにはいられなかった。
「こんなに……本当に、ありがとうございます」
涙ぐむ詩織の言葉もまた、一点の曇りもない真実の味がした。蓮は、この味を永遠に味わっていたいと、柄にもなく思った。
それから、二人は頻繁に会うようになった。蓮は営業を早めに切り上げ、彼女が働く花屋を訪れた。店内に満ちた瑞々しい花の香りと、詩織の奏でる真実の言葉の味は、蓮にとって最高の癒しだった。彼女は花の知識が豊富で、それぞれの花が持つ物語を、楽しそうに蓮に語って聞かせた。その横顔を見つめながら、蓮は自分が生まれて初めて、人を信じるという感覚を味わっていることに気づいていた。
「蓮さんのいるお店、落ち着きますね。時間が止まっているみたいで」
ある日、詩織が時雨堂を訪れ、そう言って微笑んだ。
「君がいると、止まっていた時間が動き出す気がする」
口から出た言葉に、蓮自身が驚いた。だが、それは紛れもない本心だった。詩織は頬を染め、嬉しそうに笑った。その笑顔を見るたび、蓮の世界から腐敗の匂いが消えていく。彼女という存在が、世界そのものを浄化してくれるかのようだった。
やがて二人の関係が恋人へと変わるのに、時間はかからなかった。初めて彼女の手に触れた時、初めて唇を重ねた時、蓮は嘘の味に怯える必要のない安らぎに満たされていた。詩織の「好きです」という言葉は、極上の蜜のように甘く、蓮の全身を駆け巡った。
彼は自分の能力のことを、詩織には話さなかった。この呪われた力が、彼女との聖域を汚してしまうことを恐れたのだ。彼女の前では、自分はただの不器用な古書店の主人でいたかった。
季節が巡り、二人の関係は穏やかに深まっていった。蓮は、詩織とならば、この先ずっと生きていけるだろうと確信していた。腐った卵の味に苛まれ続けた半生は、この幸福な日々のための序章に過ぎなかったのだとさえ思えた。世界は美しい。人は信じるに値する。詩織が、そう教えてくれたのだ。
第三章 腐敗の源泉
幸福の絶頂は、常に崩壊の予兆を孕んでいる。その日、蓮は詩織の部屋に招かれていた。病気の父親を見舞いに行った彼女の帰りを待つ間、本棚に並んだアルバムを眺めていた。その時、一冊の古い日記が、本棚の隙間から滑り落ちた。
『詩織の日記』と、少女らしい丸い文字で書かれている。見てはいけない。そう理性が告げていた。だが、彼女の過去をもっと知りたいという抗いがたい欲求が、蓮の指を動かした。ページをめくると、そこには蓮の知らない詩織の顔があった。そして、あるページで蓮の目は釘付けになった。
『父さんが詐欺に遭った。全財産を失った。父さんを騙した男の名前は、水島宗介。神保町で古書店を営んでいた男。その息子が、今も同じ場所で店をやっているらしい。水島蓮。許さない。絶対に、父さんの無念を晴らしてやる。私からすべてを奪ったように、彼からもすべてを奪ってやる。彼に最も大切なものを与え、そしてそれを粉々に打ち砕くことで』
頭を鈍器で殴られたような衝撃。水島宗介は、蓮の父親の名前だった。父親は蓮が幼い頃に亡くなったが、生前は金銭トラブルが絶えなかったと聞いている。
全身の血が逆流するような感覚に襲われた。詩織が自分に近づいたのは、復讐のためだった? あの純粋な言葉も、笑顔も、すべてが計算された嘘だったというのか?
だが、おかしい。それならばなぜ、彼女の言葉から一度も「腐った卵の味」がしなかった?
混乱する蓮の背後で、玄関のドアが開く音がした。
「蓮さん、ただいま。ごめんなさい、遅くなっ……」
床に散らばった日記を見て、詩織の顔から血の気が引いた。
「どういうことだ、詩織さん」蓮の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。「これは、全部嘘だったのか」
「違う……違うの、蓮さん!」
詩織は泣きながら首を振った。その言葉からも、やはり嘘の味はしない。純粋な悲鳴のような、真実の味がした。
「最初は、そうだった……最初は、復讐するつもりだった。あなたを憎んでいた。でも……」
彼女は嗚咽を漏らしながら、言葉を続けた。
「あなたと過ごすうちに、あなたの優しさに触れるうちに、本当に、本当にあなたを愛してしまったの! あなたに話す言葉は、いつからか全部、私の本当の気持ちになっていた。だから、嘘じゃない! 今の私は、嘘なんてついてない!」
「愛している」。その言葉は、今までで最も甘美で、純粋な味がした。
蓮は絶叫したかった。何が真実で、何が嘘なのか。彼の舌は、彼女が「愛している」と語る今この瞬間が真実だと告げている。しかし、その真実が、巨大な嘘の上に成り立っていることもまた事実なのだ。
その時、蓮は雷に打たれたように、自らの能力の本当の意味を悟った。
彼は「嘘」を味わっていたのではない。彼が味わっていたのは、**「話している本人が、自らの言葉を嘘だと認識しているかどうか」**という、極めて主観的な真偽だったのだ。
復讐を計画していた時の詩織は、「私は父のために正しいことをしている」と、自分自身を完全に信じ込ませていた。だから、彼女の言葉は嘘の味をさせなかった。そして今、蓮を愛しているという気持ちも、彼女の中では紛れもない真実なのだ。
蓮は愕然とした。彼の信じてきた絶対的な真実の尺度は、人の自己欺瞞や、揺れ動く感情の前では、あまりにも無力だった。世界は単純な真実と嘘で二分されているわけではなかった。真実から嘘が生まれ、嘘から真実が育つこともある。その混沌とした現実を前に、蓮は立ち尽くすしかなかった。彼が拠り所にしてきた世界の基盤が、音を立てて崩れ落ちていった。
第四章 苦くて甘い味
あの日以来、蓮は時雨堂に引きこもった。詩織からの連絡を一切絶ち、店の扉にも「臨時休業」の札をかけた。インクと古紙の匂いに満ちた静寂の中で、彼は自問自答を繰り返した。
真実とは何だ? 嘘とは何だ?
自分の能力は、ただ相手の自己申告を鵜呑みにするだけの、欠陥品だったのか。詩織がもたらした安らぎも、彼女の復讐心という嘘から生まれた、偽りの産物だったのか。腐った卵の味だけを信じ、それ以外の味を無邪気に受け入れていた自分は、愚かだったのか。
答えの出ない問いが、鉛のように心を重くする。だが、思考の深淵を彷徨ううちに、蓮は一つの可能性に行き着いた。
もしかしたら、人間とは、そういうものなのではないか。
誰もが、多かれ少なかれ自分に嘘をつき、自分を正当化し、矛盾を抱えながら生きている。完全な真実も、完全な嘘も、この世界には存在しないのかもしれない。あるのはただ、無数の主観的な「本当」だけだ。
だとすれば、人を信じるということは、その人の言葉の真偽を判定することではない。その人の内にある矛盾も、弱さも、過去の過ちも、そのすべてをひっくるめて受け入れる覚悟を持つことなのではないか。
数週間が過ぎたある晴れた午後、蓮は店の扉を開け、眩しい光の中に足を踏み出した。そして、迷うことなく詩織が働く花屋へと向かった。
ガラス張りの店の中で、彼女は黙々と花の世話をしていた。以前よりも少し痩せ、その横顔には悲しみの色が滲んでいたが、花に触れる指先は優しかった。蓮の姿に気づくと、彼女はびくりと肩を震わせ、俯いてしまった。
蓮は店に入り、一本の白いチューリップを手に取った。
「これをください」
詩織は無言で花を受け取り、震える手でそれを包もうとする。
「詩織さん」蓮は静かに言った。「君が僕についた最初の嘘も、君が今感じている本当の気持ちも、全部引き受けることにした」
詩織の顔が上がる。その瞳は驚きと涙で潤んでいた。
「僕も、完璧な人間じゃない。ずっと自分の能力を盾にして、人と向き合うことから逃げてきた。でも、もうやめる。僕は、君を信じたいと願う、僕自身のこの心を信じてみることにする」
蓮は包まれたチューリップを受け取り、それをそっと彼女に差し出した。白いチューリップの花言葉は、「失われた愛」、そして「新しい愛」。
詩織の目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。
「……ありがとう」
か細く、それでいて心の底から絞り出したようなその言葉が、蓮の舌の上に、一つの味を広げた。
それは、今までに一度も味わったことのない、複雑な味だった。ほんのりと甘く、後から微かな苦みが追いかけてくる。そしてその奥に、雨上がりの土のような、生命力に満ちた香りが確かに感じられた。
それは、嘘も真実も、後悔も希望も、すべてが溶け合った、人間の心の「本当の味」だった。
蓮は、その複雑な味わいを、ゆっくりと、深く、噛みしめた。彼の能力が消えたわけではない。だが、もうその味に怯えることはないだろう。世界が単純な白と黒でできていないことを知った今、この苦くて甘い味わいこそが、何よりも愛おしく思えた。
二人の失われた時間が戻るわけではない。未来が約束されたわけでもない。だが、蓮は確信していた。この味わいを知った今、自分はもう一度、誰かと向き合い、世界と繋がることができるのだと。蓮は、そっと詩織の涙を拭うと、柔らかく微笑んだ。