砕けた瑠璃色のレクイエム

砕けた瑠璃色のレクイエム

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第一章 色のない証言

俺、音葉朔太郎(おとはさくたろう)の世界は、いつからか色を失っていた。元刑事、今しがない私立探偵。コンクリートの灰色、アスファルトの黒、そしてインクの染みのような絶望。それが俺の日常のパレットだ。論理と事実だけが、かろうじて輪郭を保ってくれる唯一の縁だった。だから、彼女の言葉は、俺の世界に対する冒涜に他ならなかった。

「犯人の足音は……冷たいガラスを引っ掻くような、薄紫色の線でした」

目の前の女性、凪(なぎ)ひかりは、窓から差し込む柔らかな光をその白い肌に浴びながら、静かにそう言った。彼女は盲目のピアニスト。長い睫毛に縁取られた瞳は、どこか遠くの景色を見つめているかのように、俺の顔の少し横を捉えている。

事件は三日前に起きた。日本を代表する現代音楽の作曲家、月島響(つきしまきょう)が、内側から鍵とチェーンロックが掛かった自室で胸を刺されて死んでいた。完璧な密室殺人。警察は早々に音を上げ、藁にもすがる思いで旧知の刑事が俺に話を回してきたのだ。そして、唯一の「耳撃者」が、事件当時、隣のレッスン室でピアノを弾いていたという彼女、凪ひかりだった。

「薄紫、ですか」俺は無感動にメモを取るふりをしながら、内心の苛立ちを押し殺した。「もう少し具体的に。靴の種類とか、歩き方の癖とか」

「いいえ、そういう形ではなく……もっと、鋭くて、神経質な色。まるで、張り詰めた絹糸が不意に切れるような……」

「……」

詩だ。比喩だ。捜査において最も無価値な言葉の羅列。俺はため息を隠さなかった。

「ひかりさん。人が死んでいるんです。あなたの恩師が殺された。詩的な表現は結構ですから、聞こえた事実だけを教えてください」

俺の言葉に、彼女の肩が微かに震えた。だが、その表情は変わらない。

「事実を、ありのままに話しています。私には、世界はそのように聞こえるのです」

彼女は続けた。「先生の悲鳴は、もっと酷かった。錆びた鉄の匂いがする、濁った深紅の色でした。口いっぱいに血を含んだような、絶望の色……」

もうたくさんだった。俺は手帳を乱暴に閉じた。

「ありがとう。何か思い出したら連絡をください」

席を立ち、事務所のドアに向かう俺の背中に、彼女の澄んだ声が突き刺さる。

「音葉さんの声は、雨上がりの森の土の匂いがする、深い緑色をしています。とても、お優しい色なのに……どうしてそんなに哀しい匂いがするのですか?」

俺は振り返らずにドアを開けた。外の冷たい空気が、火照った思考を少しだけ冷ましてくれた。共感覚。音に色や匂いを感じる特殊な知覚。知識としては知っていたが、これほど厄介なものだとは思わなかった。哀しい匂いだと?ふざけるな。俺はただ、事実だけを追い求めている。感情という名のノイズが、どれだけ真実を歪めるか、骨身に染みて知っている。そう、あの雨の日、相棒が俺の目の前で命を落とした、あの忌まわしい事件以来ずっと。

第二章 共感覚の旋律

捜査は完全に行き詰まっていた。現場には犯人のものと思われる指紋も髪の毛一本なく、凶器も見つからない。月島響の交友関係を洗っても、彼を殺すほどの動機を持つ人物は浮かんでこなかった。彼は人望の厚い人格者として知られていたからだ。

結局、俺は再び凪ひかりの元を訪れるしかなかった。他に手掛かりが、ない。

彼女の住むマンションの一室は、グランドピアノがその中心を占め、壁一面の楽譜と、午後の陽光にきらめく埃が静かに舞う、穏やかな空間だった。

「また、来てくださったのですね」

彼女は俺の足音だけでわかったようだった。ハーブティーの柔らかな香りが鼻をくすぐる。

「あんたの証言以外に、何もないんでね」

俺はソファに腰掛けながら、ぶっきらぼうに言った。だが、前回のような刺々しさは、自分でもわかるほど薄れていた。あの「哀しい匂い」という言葉が、心のどこかに引っかかっていた。

「音葉さん。もし、信じられないのなら、私の世界を少しだけ体験してみませんか?」

彼女はそう言うと、ピアノの前に座り、鍵盤に指を置いた。

「これは、月島先生が私のために書いてくださった曲です」

紡ぎ出された旋律は、静かで、どこか内省的だった。だが、聴き進めるうちに、俺の中の風景が変わっていくのを感じた。初めはモノクロームだった景色に、淡い光が差し込み、徐々に色彩が生まれていくような感覚。水彩絵の具が水に溶けて広がるように、音が感情の輪郭を描き出していく。

演奏が終わった時、部屋には心地よい沈黙が満ちていた。

「……どう、でしたか?」

「……悪くない」俺は正直に答えていた。「情景が浮かぶような曲だ」

「先生は仰っていました。『音楽とは、耳で見る絵画であり、心で味わう香りなのだ』と。だから、先生は私の感覚を誰よりも理解してくれていました」

その言葉に、俺はひとつの可能性を見出した。もし、ひかりの証言が、彼女と月島の間だけで通じる「暗号」のようなものだとしたら?

「ひかりさん、もう一度教えてほしい。事件の夜に聞こえた音の『色』と『匂い』を、全部」

そこから、俺たちの奇妙な共同作業が始まった。俺は色彩心理学や調香、果ては物理学の波動に関する本まで読み漁り、彼女の詩的な表現を一つ一つ、現実の事象に翻訳しようと試みた。

「犯人の足音、『薄紫色の線』……それは、もしかしたら特定の素材の靴底が、床材と擦れる時に出す高周波の音じゃないか?」

「悲鳴の『錆びた鉄の匂い』……それは、絶望や恐怖よりも、裏切られた時の、鋭い心の痛み……」

パズルのピースが、少しずつ、だが確実にはまっていく手応えがあった。ひかりと過ごす時間が増えるにつれ、俺の世界もまた、無意識のうちに色彩を取り戻し始めていた。彼女が淹れるハーブティーの琥珀色。窓の外で鳴く鳥の声が運んでくる若葉の匂い。そして、彼女の純粋な探究心に触れるたび、俺の心の深い緑色が、少しだけ明るくなるのを感じていた。

やがて、容疑者が一人、捜査線上に浮かび上がった。月島の弟子の一人で、最近、彼の作風を盗用したとして破門された若手作曲家、神崎だ。彼が履いている特注の革靴の靴底は、鑑識の結果、特殊な金属繊維が織り込まれており、ひかりの言う「ガラスを引っ掻く音」と酷似した高周波音を出すことが判明した。動機も、痕跡も、全てが彼を指し示していた。

第三章 砕け散った瑠璃色の真実

俺は神崎を問い詰めた。最初は頑なに否定していた彼も、俺が突きつけた靴の証拠と、ひかりから翻訳した彼の「嫉妬のどす黒い赤色の感情」を突きつけると、顔面を蒼白にさせ、ついに崩れ落ちた。

「そうだ……俺がやった。あの人は、俺の才能を認めてくれなかった……!」

自白。これで事件は解決だ。俺は安堵と、かすかな達成感に包まれた。論理は、やはり正しかったのだ。

意気揚々とひかりに報告すると、彼女は静かに首を横に振った。

「違います」

その声は、確信に満ちていた。

「え?」

「神崎さんの感情は、たしかに『どす黒い赤色』です。でも、あの夜の犯人の感情は……もっと哀しくて、美しい色でした。まるで、夜空で砕け散った瑠璃のような……透明で、無数の光を放つ色でした」

俺は混乱した。犯人は自白している。物証もある。それなのに、なぜ彼女は否定する?彼女の感覚は、やはり当てにならないのか?俺が掴みかけた色彩は、また幻のように消えていくのか?

「ひかりさん、あんたの感覚は……」

「信じてください」彼女は俺の言葉を遮った。「そして、最後に聞こえたんです。先生の悲鳴の、あとに。ほんの僅かな間でしたが……」

彼女は息を呑み、言葉を続けた。

「それは……音ではありませんでした。無数の色が爆発して、混ざり合い、至高の光になるような……そんな匂いがしたんです。それは、先生がずっと追い求めていた『完璧な和音』の色でした」

完璧な、和音。

その言葉が、雷のように俺の脳天を貫いた。

俺は思考を反転させた。殺されたのではないとしたら?月島の死が、彼自身の意志によるものだとしたら?

俺は警察の資料を洗い直し、月島の主治医を突き止めた。月島響は、末期の癌に侵され、余命幾ばくもなかった。そして、彼の書斎の隠し金庫から、奇妙な設計図が見つかった。それは、人体の生体電流を音響信号に、そしてさらに光のスペクトルに変換するという、常軌を逸した装置の設計図だった。

事件の夜、彼はその装置を完成させ、自らの胸に電極を突き立てた。それが刺し傷の正体だ。彼は、自らの命が尽きるその瞬間を、最後の作品として昇華させようとしたのだ。密室は、そのための一世一代の舞台。そして、彼はその究極の作品を、たった一人の聴衆に捧げた。自分の芸術の、唯一の真の理解者である、凪ひかりに。

神崎の自白は、破門された腹いせと自己顕示欲から出た、虚偽のものだった。彼はただ、師の死に便乗したかっただけなのだ。

第四章 きみが奏でる世界の色

俺は真実を、ありのままひかりに伝えた。彼女は、ただ静かに聞いていた。その頬を、一筋の涙が伝っていくのが、夕陽に照らされてきらりと光った。

「そうだったんですね……」

彼女の声は、震えていた。

「先生の最後の音……あんなに美しくて、あんなに哀しい色は、初めてでした。あれは、先生の魂そのものだったんですね」

彼女は師の死を悼むと同時に、その芸術家としての魂が到達した高みに、深い畏敬の念を抱いていた。その涙は、悲しみだけでなく、至上の感動の色をしていた。

事件は「自殺」として処理され、世間からはすぐに忘れ去られていった。だが、俺とひかりの中では、あの「砕けた瑠璃色のレクイエム」が永遠に鳴り響いていた。

数週間後、ひかりはリサイタルを開いた。プログラムの最後の一曲は、『作曲者不詳・ある魂のためのソナタ』。それは、あの日彼女が聴いた月島響の最後の作品を、彼女の記憶と感性で再現したものだった。

ピアノから溢れ出す音は、時に嵐のように激しく、時に夜の湖面のように静かだった。俺は客席で目を閉じる。すると、不思議なことに、音が様々な色となって心に流れ込んできた。深い森の緑、燃えるような夕焼けの赤、そして夜空に砕け散る瑠璃の色。それは、ひかりが見ている世界、月島が目指した世界だった。

俺の世界は、もう灰色ではなかった。論理と事実だけが支配する無機質な世界ではない。そこには、人の感情が織りなす無限の色彩と、言葉にならない想いの香りが満ちていた。真実とは、ひとつの事実だけを指すのではない。それは、人の心の数だけ存在する、多面的な光なのかもしれない。

演奏が終わり、割れんばかりの拍手の中、ステージ上のひかりが優しく微笑んだ。その笑顔は、まるで新しい世界の色を俺に教えてくれているかのようだった。俺は、いつか自分の声から「哀しい匂い」が消える日が来るかもしれない、と、柄にもなくそう思った。

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