クロノスタシスの残響

クロノスタシスの残響

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第一章 忘却の海への潜航士

ネオンの光が霧雨に滲む夜だった。俺の事務所は、再開発から取り残された旧市街の雑居ビルの最上階にある。看板も出していないその部屋のドアを叩く音は、いつも唐突に響く。

「カイさん、いらっしゃいますか」

ドアの向こうから聞こえたのは、鈴を転がすような、しかしどこか芯の温度を失った声だった。俺は読みかけの電子ペーパーをサイドテーブルに置くと、重い腰を上げた。ドアを開けると、そこに立っていたのはエルナと名乗る女性だった。長く艶やかな黒髪と、雨に濡れたトレンチコートが、彼女の儚げな印象を際立たせている。だが、その瞳は凪いだ湖面のように、何の感情も映していなかった。この街の多くの住人と同じように。

「記憶潜航士(メモリーダイバー)は、あなただと伺いました」

「非合法の商売だ。聞き間違いじゃないか」

俺はわざとぶっきらぼうに言った。彼女の瞳がわずかに揺れる。その微細な変化に、俺は彼女がまだ完全に「乾ききって」はいないことを察した。

現代社会は「忘却処置」によって、あらゆる精神的苦痛から解放された。戦争、災害、死別、失恋。人々は辛い記憶を専門のクリニックで綺麗に消し去り、穏やかな日常を手に入れる。だが、その代償は小さくない。脳は精巧すぎた。悲しみを消せば、その周辺にある喜びの輪郭もぼやける。怒りを消せば、情熱の在り処も分からなくなる。感情のグラデーションを失い、人々は平坦で無機質な平穏を享受していた。

俺の仕事は、そんな忘却の海に潜り、依頼人が失った記憶の断片を拾い集めること。法が許さぬ、過去への密航だ。

エルナは震える手で一枚の写真を差し出した。色褪せた写真には、屈託なく笑う一人の男性と、その隣で幸せそうに微笑む、今よりもずっと生き生きとした表情の彼女が写っていた。

「夫です。リアムと……言いました。三年前、事故で亡くなって……私はその悲しみに耐えきれず、処置を受けました」

彼女の声は、まるで他人事を語るように淡々としていた。

「処置は成功し、悲しみは消えました。でも、気づいたんです。彼を愛していたという確かな感覚も、共に過ごした日々の温もりも、何もかもが薄い膜の向こう側へ行ってしまった。思い出したいんです。彼と過ごした、最後の幸せな一日を。どんな些細なことでもいい。もう一度、あの温もりに触れたい」

その瞳の奥に、消えかけた熾火のようなものを見た気がした。俺もまた、忘却処置を受けた人間だった。何を忘れたのかは、思い出せない。ただ、胸にぽっかりと空いた空洞が、何か大切なものを失ったことだけを告げていた。だから、彼女の渇望が、痛いほどに分かった。

「……分かった。引き受けよう。だが、潜航にはリスクが伴う。脳が拒絶反応を示せば、二度と戻れないかもしれない。それでもいいか?」

エルナは、迷いなく頷いた。その決意は、彼女が失ったはずの感情の残響のように、俺の心に微かな波紋を広げた。

第二章 陽光とノイズのアンダンテ

潜航装置のヘッドギアが、エルナの繊細なこめかみに冷たい感触を伝える。俺は隣のコンソールで、彼女の脳波とシナプスの活動パターンをモニターしていた。

「準備はいいか。今から君の記憶の海に潜る。見えるもの、聞こえるもの、感じるもの、すべてを俺に伝えてくれ」

「はい」

短い返事と共に、彼女はゆっくりと目を閉じた。モニターに表示される波形が穏やかな曲線を描き始める。潜航開始。俺の意識もまた、データ化された奔流に乗り、彼女の精神世界へと引きずり込まれていった。

目を開けると、そこは陽光に満ちた海辺の街だった。潮風が頬を撫で、カモメの鳴き声が遠くで響く。目の前には、エルナが立っていた。三年前の、感情豊かな表情をしたエルナが。

「リアム、早く!」

彼女が手を振る先には、写真で見た男性、リアムがいた。彼は人懐っこい笑顔で応え、二人は手を取り合って坂道を駆け下りていく。

俺は透明な観測者として、彼らの「最後の一日」を追体験した。

朝、焼きたてのパンが並ぶベーカリー。バターの溶ける甘い香りと、リアムがこぼしたコーヒーの苦い匂い。公園のベンチで交わす、未来についての他愛ない会話。彼の低い声と、エルナの軽やかな笑い声が、木漏れ日の中で溶け合っていく。午後は、古びた映画館でモノクロの恋愛映画を観た。ポップコーンの塩辛い味と、暗闇の中でそっと重ねられた指先の温もり。

全てが完璧な幸福の断片だった。エルナが取り戻したがっていた、かけがえのない記憶。だが、俺は奇妙な違和感を覚えていた。完璧すぎるのだ。幸福という感情で塗り固められた世界には、生活感が欠けているように思えた。

その違和感の正体に気づいたのは、夕暮れの浜辺でのことだった。水平線に沈む太陽が、世界を燃えるようなオレンジ色に染めている。リアムがエルナの肩を抱き、愛を囁く。感動的なシーンのはずなのに、俺の目には空の隅に走る、一瞬のデジタルノイズが見えた。テレビの砂嵐のような、ほんの一瞬の乱れ。

注意深く周囲を観察すると、他にもおかしな点があった。遠くで遊んでいたはずの子供たちの姿が、ふっと掻き消える。波の音が、時折不自然に途切れる。まるで、精巧に作られた舞台セットの綻びのようだ。

そして、最も奇妙だったのは、街の人々の視線だった。彼らは時折、何かに怯えるように空を見上げては、すぐに顔を伏せてしまう。その表情には、この幸福な街にはそぐわない、深い不安の色が刻まれていた。

エルナとリアムは、その異変に全く気づいていない。彼らの世界は、二人だけの幸福なアンダンテを奏で続けている。

この穏やかな旋律の下に、耳を塞ぎたくなるような不協和音が隠されている。俺は確信した。エルナが本当に忘れたかったものは、単なる夫の死の悲しみだけではない。この幸福な一日の記憶そのものに、巨大な絶望が塗り込められているのだ。

第三章 グレートフォールの真実

「エルナ、聞こえるか。記憶の表層が不安定だ。何かを隠している」

俺は観測者としての立場から、彼女の意識に語りかけた。記憶の中のエルナが、一瞬だけ不安そうに眉をひそめる。

「……やめて。このままでいたいの。この幸せな時間だけが、私のすべてだから」

彼女の潜在意識が、深層へのアクセスを拒んでいる。空のノイズは激しくなり、穏やかだった海が荒れ狂い始めた。このままでは、彼女の精神が崩壊しかねない。だが、ここで引き返すわけにはいかなかった。真実から目を背ければ、彼女は永遠に偽りの幸福に囚われたままだ。

「リアムとの本当の記憶を取り戻したいんだろう。たとえ、そこに痛みがあったとしても」

俺の言葉が届いたのか、抵抗がわずかに弱まる。その隙を突き、俺は意識をさらに深く、記憶の最深層へと潜らせた。幸福な浜辺の光景がガラスのように砕け散り、俺は漆黒の闇へと落下していく。

そして、辿り着いた。

そこは、同じ海辺の街だった。だが、時間は夕暮れから少し進み、空には一番星が瞬き始めていた。エルナとリアムが、家路につこうと浜辺を歩いている。幸福な一日の、完璧なエピローグ。

その瞬間、世界が揺れた。

耳を劈くような金属の軋む音と共に、夜空を縦に貫く巨大な光の柱――軌道エレベーター『バベルの塔』が、赤く染まっていく。人々が空を見上げ、絶叫する。

「まさか……」

俺は息を呑んだ。それは、歴史の教科書からさえ削除された、禁断の記憶。

次の瞬間、空が裂けた。巨大な塔の残骸が、無数の流星となって地上に降り注ぐ。街は一瞬で炎と黒煙に包まれた。轟音、衝撃、悲鳴。幸福なアンダンテは、地獄の交響曲へと変貌した。

リアムはエルナを庇うように抱きしめ、崩れ落ちてくる建物の下敷きになった。

「逃げろ……エルナ……愛して……」

それが彼の最期の言葉だった。瓦礫の隙間から伸ばされた彼の手を、エルナはただ握りしめることしかできなかった。

これだ。これがエルナが消した記憶の正体。夫の死ではない。人類史に刻まれた未曾有の大災害、『グレートフォール』の記憶そのものだった。

政府は国民の巨大なトラウマを回避するため、事件の生存者全員に忘却処置を施し、歴史そのものを隠蔽したのだ。人々が失ったのは、個人の悲しみではなかった。共に悼み、共に乗り越えるべき、共通の歴史だった。

その地獄絵図の中で、俺は見た。燃え盛る瓦礫の山の中に、呆然と立ち尽くす幼い少年を。その顔は、他ならぬ俺自身のものだった。忘れていたパズルのピースが、脳内で激しい音を立ててはまっていく。そうだ、俺もこの場所にいた。そして、誰かを――おそらく家族を――失ったのだ。

第四章 悲しみという名の愛

意識が現実世界へと引き戻される。潜航装置のヘッドギアを外すと、目の前でエルナが静かに涙を流していた。感情を失ったはずのその瞳から、大粒の雫が次々とこぼれ落ち、彼女の頬を濡らしていく。それは、この乾いた世界ではあまりにも久しぶりに見る、生々しい人間の感情の発露だった。

彼女は、すべてを思い出したのだ。リアムと過ごした幸福な一日の輝きと、彼を失った夜の絶望的な闇を。その両方を、その細い体で受け止めていた。

「すまない……。俺は君に、忘れたはずの地獄を思い出させてしまった」

俺の声は、自分でも驚くほどにかすれていた。

しかし、エルナはゆっくりと首を横に振った。彼女は濡れた瞳で俺を真っ直ぐに見つめ、微かに微笑んだ。

「いいえ。あなたは、私が彼をどれほど愛していたのかを、思い出させてくれたんです」

その声は震えていたが、揺るぎない響きを持っていた。

「この悲しみは……この胸が張り裂けそうな痛みは、私が彼を愛していた証なんです。悲しみも、苦しみも、すべてが愛の一部だった。それを忘れて、空っぽのまま生きていくなんて、もうできない」

エルナの言葉が、俺の胸に空いていた空洞に突き刺さった。そうだ。俺はずっと、何かから逃げていた。悲しみを恐れ、痛みを拒絶し、その結果、愛や喜びを感じる能力さえも摩耗させていた。平穏という名の虚無の中で、ただ溺れるだけだった。

エルナは、絶望の記憶と共に、愛する心を取り戻した。痛みを受け入れる強さこそが、人間を人間たらしめるのだ。

彼女が事務所を出て行った後、俺は一人、自分の記憶潜航装置の前に立った。パネルに反射する自分の顔は、ひどく疲れているようで、それでいてどこか吹っ切れたような表情をしていた。

俺が向き合うべき過去は、もうエルナの記憶の中にはない。俺自身の、忘却の海の底に沈んでいる。あの日、グレートフォールの下で、俺は何を失い、何を忘れることを選んだのか。それを知るのは怖い。きっと、立っていられないほどの痛みが待っているだろう。

だが、もう逃げないと決めた。

悲しみを恐れていては、本当に大切なものまで見失ってしまう。エルナが教えてくれたように。

俺はヘッドギアを手に取り、自分のこめかみに装着した。コンソールのディスプレイに行き先を入力する。

――『カイ・ミシマ 深層記憶領域』

冷たい起動音が、静まり返った部屋に響き渡る。これから始まるのは、失われた自分自身を取り戻すための、孤独で、おそらくはあまりにも痛みを伴う旅だ。それでも、俺は行く。忘却の海の底に沈んだ、愛と悲しみの残響を拾い集めるために。

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