第一章 沈黙の芽生え
ガラスドームに覆われた「追憶の森」は、常に穏やかな黄昏に満たされていた。ここでは死は終わりではない。故人の魂は「エコープラント」と呼ばれる小さな植物に姿を変え、生前の最も幸福だった記憶を養分として成長する。愛する人を失った者たちは、この森を訪れ、かつて共に過ごした温かな時間の具現である植物の成長を見守ることで、悲しみを癒していくのだ。
植物学者の僕、桐島リクにとって、この森は専門分野であると同時に、逃れようのない苦しみの場所だった。一年前、恋人のミオが突発的な時空震災害に巻き込まれて命を落としてから、僕は週に一度、彼女のプラントに会いに来ている。
ミオのプラントは、小さな銀葉の双葉だった。問題は、一年という時間が経過したにもかかわらず、その双葉が土から顔を出した時の姿から、一ミリたりとも成長していないことだった。周囲のプラントが、あるものは光る花を咲かせ、あるものは歌うように葉を揺らすまでに育っているのとは対照的に、ミオの双葉は時が止まったかのように沈黙を続けていた。
「最も幸福だった記憶」が成長の糧。それがこのシステムの根幹だ。ならば、ミオのプラントが育たない理由は一つしかない。僕と過ごした五年間に、彼女は成長の糧となるほどの幸福な記憶を持てなかったのだ。その結論が、鉛のように僕の心に沈殿していた。友人たちの慰めの言葉も、同僚たちの「システムには個体差がある」という専門的な見解も、僕の罪悪感を軽くすることはできなかった。
「ミオ、君は幸せじゃなかったのか……? 僕との時間は、君にとって空っぽだったのか?」
問いかけは、湿った土と苔の匂いに吸い込まれて消える。僕はそっと指を伸ばし、銀色に鈍く光る小さな葉に触れた。その瞬間だった。
——閃光。
脳裏に、全く見覚えのない光景が焼き付いた。螺旋を描く二重星雲。ガラス張りの回廊から見える、異星の赤錆びた大地。そして、僕の隣で微笑む、少しだけ髪の長いミオの横顔。彼女の瞳は、僕が知らない未来の光を宿してきらめいていた。
「すごいね、リク。ついに来たんだね、約束の星に」
彼女の声が、頭の中で直接響いた。
幻覚は一秒にも満たなかった。僕は驚いて指を離す。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が首筋を伝った。今のは何だ? 僕が見たことのない風景。僕が聞いたことのないミオの言葉。それは悲しみに暮れる僕の脳が見せた、都合のいい幻なのだろうか。だが、あまりにも鮮明なその感覚は、ただの幻だとは到底思えなかった。僕は混乱しながら、沈黙を続ける小さな双葉を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
第二章 偽りの記憶、真実の星図
あの日以来、ミオのプラントに触れるたびに、僕は断片的なヴィジョンを見るようになった。それは常に僕とミオが共にいる未来の光景だった。巨大な軌道エレベーターを昇っていく窓の外の景色。未知の言語で書かれた石碑を二人で解読しようとしている場面。どれもが幸福に満ち溢れ、そして僕の記憶には存在しない瞬間だった。
僕はミオの遺品が収められた箱を、屋根裏部屋から引っ張り出した。彼女は快活で、よく笑う女性だったが、時折、遠い星空を見つめては、僕には理解できない数式を口ずさむような、どこか不思議な一面も持っていた。僕はその一面を、彼女のユニークな魅力として愛していた。
箱の中には、彼女が愛用していた天体望遠鏡や、古いSF小説、そして一冊の分厚いノートがあった。パラパラとめくると、そこには美しい星図と共に、僕の専門外である量子物理学や相対性理論に関する、びっしりとした書き込みが残されていた。それは趣味の範疇を遥かに超えていた。まるで、何か壮大な研究プロジェクトの記録のようだった。
「植物はね、ただ過去の記憶を吸い上げるだけじゃないのかもしれないよ」
先日、森の老管理人であるエマさんに、ミオのプラントのことを相談した時に言われた言葉が蘇る。彼女は、皺の刻まれた優しい瞳で僕を見つめ、こう続けた。「もしかしたら、未来の水を待っている、乾いた種子のような子もいるのかもしれないね」
その時は意味が分からなかった言葉が、ノートの記述と奇妙に結びつく。ノートの最終ページに、一つの数式と短いメモが記されていた。
『クロノス・パラドックス回避のための記憶シード理論。未来の情報を過去に伝送する際、最も安全な媒体は生命体のゲノム情報、特に死後の情報転写システムであるエコープラント。ただし、未来の記憶を内包したシードは、その事象が現実となるまで発芽しない』
全身の血が逆流するような感覚に襲われた。まさか。そんなことがあり得るのか。僕は震える手で自分の端末にノートのデータをスキャンし、研究所のメインフレームを使って解析を始めた。数時間後、画面に表示された結論は、僕の常識、僕たちが生きるこの世界の理を根底から覆すものだった。
ミオは、僕が知っているミオではなかった。
彼女は、約百年先の未来から来た時間航行者だったのだ。
彼女の本来の目的は、時空震災害のメカニズムを過去から調査すること。しかし、彼女はこの時代で僕と出会い、恋に落ちた。そして、本来帰るはずだった未来を捨て、僕と生きることを選んだ。だが、皮肉にも彼女は、自らが調査対象としていた時空震災害に巻き込まれて命を落とした。
エコープラントが成長しないのは、幸福な記憶が「なかった」からではない。
逆だ。
彼女の最も幸福な記憶——それは、僕と過ごした過去の五年間の日々ではなく、これから僕と共に過ごすはずだった「未来の日々」だったのだ。僕が見ていたヴィジョンは幻覚などではない。それは、彼女のプラントに「種子」として内包された、まだ訪れていない未来の記憶の断片だった。
彼女のプラントは、死んでいるのではない。過去の記憶を養分にできないから成長できないのでもない。
ただ、ひたすらに。
僕と共に「約束の星」へ行く、その未来が訪れるのを、時間の檻の中でじっと待っているのだ。
僕は椅子に崩れ落ちた。涙が溢れて止まらなかった。ミオ、君は僕を不幸だなんて思っていなかった。それどころか、僕との未来こそが、君のすべてだったというのか。僕の胸を苛んでいた罪悪感は氷解し、その場所には、想像を絶するほどの巨大な愛と、どうしようもない切なさが流れ込んできた。
第三章 約束の地平線
真実を知った僕が次にしたことは、研究所への辞表の提出だった。同僚たちは引き留めたが、僕の決意は固かった。僕の研究テーマは、もはや地球の植物生態系ではない。ミオが遺した、時間航行理論の完成だ。
追憶の森を訪れる僕の足取りは、以前とは全く違っていた。罪悪感に引きずられるような重いものではなく、確かな目的を持った、軽やかで力強いものに変わっていた。ミオのプラントの前にひざまずき、僕は再びその銀色の双葉にそっと触れる。
今度は、より鮮明で長いヴィジョンが流れ込んできた。
——僕たちは、老朽化した宇宙船のコックピットにいる。無数の計器が光を放ち、窓の外には巨大なガス惑星が渦を巻いている。ミオが僕の肩に頭を預けている。
「怖くないの? この航海が終われば、僕たちはもう二度と地球には戻れないかもしれない」
僕の問いに、彼女は穏やかに微笑んで首を振る。
「リクがいる場所が、私の還る場所だよ。それに、見て。あの星、私たちが名前をつける最初の星になるんだよ」
彼女が指差す先で、名もなき恒星が、生まれたての光を放っていた。
僕は目を開ける。頬を伝う涙は、もはや悲しみのものではなかった。それは、まだ見ぬ未来への愛おしさと、必ずそこへたどり着くという誓いの証だった。
「そうか……君は、僕に会いに来てくれたんだな。過去の僕に、未来のすべてを託すために」
ミオがなぜ未来から来たのか、なぜ僕を選んだのか、その全てはまだ分からない。だが、一つだけ確かなことがある。彼女は僕を信じ、未来を僕に委ねたのだ。ならば、僕がすべきことも一つしかない。
僕は立ち上がり、ガラスドームの向こうに広がる本物の空を見上げた。かつてミオがいつも見上げていた、無数の星が輝く夜空。あの星々のどこかに、僕たちが共に行くはずだった場所がある。僕が彼女の記憶を現実にするべき場所が。
「待っていて、ミオ」
僕は小さな双葉に語りかける。それは祈りであり、契約だった。
「君が見たかった未来を、君が夢見た約束の星を、今度は僕が君に見せに行くよ。だから、もう少しだけ、そこで待っていて」
僕がそう言うと、奇跡が起きた。一年間、固く閉ざされていた銀色の双葉が、ほんのわずかに、本当にミクロの世界でだけれど、ふわりと開いたような気がしたのだ。そして、その葉の先端に、まるで遠い星の光を反射したかのように、儚く、しかし確かな光が一瞬だけ灯った。
僕は追憶の森を後にする。背後には、まだ小さなままの、しかし無限の未来をその内に秘めたミオのプラントが静かに佇んでいる。僕の旅は、今日、ここから始まる。それは孤独な旅になるだろう。だが、僕は一人ではない。胸の中には彼女の記憶が、そして行く先には彼女の待つ未来があるのだから。
夜空を見上げると、星々はまるで道標のように、僕に向かって強く、強く輝いていた。