追憶のプレリュード

追憶のプレリュード

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第一章 静寂の在り処

神保町の古書店「時の葉書房」の二階、埃とインクの匂いが染みついた部屋が、相沢湊の全世界だった。かつてピアニストを夢見た指は、今では古びた本のページをめくるためだけにある。最後のコンクールで犯した致命的なミスが、彼の心の中で今も不協和音を奏でていた。音楽は、もう聴くことさえ苦痛だった。

湊の静寂な日常が破られたのは、梅雨の晴れ間の蒸し暑い午後だった。半年前に亡くなった祖父・壮一の部屋を整理していた時のことだ。洋箪笥の奥から出てきたのは、飴色に変色した木製のオルゴールと、藍色のリボンで結ばれた手紙の束だった。

オルゴールの蓋を開けると、錆びついた金属の歯が、途切れ途切れに懐かしいメロディを奏で始めた。それは、湊が幼い頃、祖父がよく口ずさんでいた名も知らぬ旋律。だが、音は数小節で止まり、後は沈黙が支配した。

興味を惹かれたのは、手紙の束の方だった。数十通はあろうかという封筒の宛名は、すべて「相沢壮一様」。しかし、差出人の名前はどれも同じだった。「藤宮千代」――湊の知らない名前だ。消印は、五十年前の日付で止まっている。

一通の封を開けると、万年筆で書かれた流麗な文字が目に飛び込んできた。

『壮一さん、お元気ですか。あなたのピアノが聴けなくなって、もう三度目の秋です。あの日の旋律が、今も耳から離れません。どうか、もう一度だけ、あなたの音を聴かせてください』

そこには、湊の知らない祖父の姿があった。物静かで、ただ優しいだけだと思っていた祖父。彼が奏でるピアノを、かくも切実に求める女性がいた。

湊はすべての手紙に目を通した。どの手紙にも、祖父のピアノへの渇望と、会えない寂しさが切々と綴られていた。しかし、祖父からの返信らしきものは、どこにも見当たらない。なぜ祖父は、この手紙に返事をしなかったのか。そして、なぜピアノを弾かなくなったのか。

止まってしまったオルゴールと、返信されることのなかった手紙の束。それは、湊が知る祖父の人生という名の楽譜から、ごっそりと抜け落ちたミッシング・リンクだった。湊は、その失われた楽章を追わずにはいられなくなった。それは、自分自身の止まってしまった時間を取り戻すための、微かな序曲のように思えた。

第二章 忘れられた旋律

手がかりは、手紙に繰り返し登場する地名と、一軒の喫茶店の名前だけだった。「喫茶 銀時計」。湊はインターネットでその名を検索し、都心から電車で一時間ほどの、海に近い古い港町に、今も同じ名前の店が現存することを知った。

週末、湊は錆びついた電車に揺られてその町を訪れた。潮の香りが微かに鼻をくすぐる。古びた商店街の一角に、「喫茶 銀時計」は、まるで時が止まったかのように佇んでいた。ドアベルが澄んだ音を立てると、カウンターの奥から白髪のマスターが顔を上げた。

「いらっしゃい」

湊はカウンター席に腰掛け、コーヒーを注文した。そして、意を決して切り出した。

「あの、昔、この辺りに住んでいた相沢壮一という人間をご存知ないでしょうか」

マスターは、磨いていたグラスを持つ手を止め、目を細めた。「壮一さん……ああ、あのピアノ弾きの」。その言葉に、湊の心臓が小さく跳ねた。

マスターの話によれば、壮一は町の小さなホールのピアノを借りては、毎日のように練習に打ち込む青年だったという。その才能は誰もが認めるところで、彼の奏でる音は、聴く者の心を震わせる力があったらしい。そして、彼の傍らにはいつも、花のように笑う千代という女性がいた。

「二人は、それは仲睦まじかった。千代さんは、壮一さんのピアノが世界で一番好きだと言っていたよ」

マスターは遠い目をして語った。「だが、ある日突然、壮一さんは町から姿を消した。千代さんに何も告げずにね。千代さんは来る日も来る日も、この店で彼を待っていた。彼が戻ってきた時に渡すんだと、手紙を書き続けていたよ」

その手紙が、今、湊の手元にあるものなのだろう。なぜ祖父は、深く愛し合っていたはずの恋人を捨てて、姿を消したのか。謎は深まるばかりだった。

マスターは、店の奥から一枚のセピア色の写真を持ち出してきた。そこには、一台のアップライトピアノの前に座る若き日の祖父と、その隣で幸せそうに微笑む千代の姿があった。写真の中の祖父は、湊が知らない、自信に満ちた音楽家の顔をしていた。その指は、まるで鍵盤の上で踊るために生まれてきたかのように、しなやかで力強い。

写真の中の祖父と、物静かな老人としての祖父の姿が、湊の中で結びつかない。その大きな隔たりに、彼はめまいのような感覚を覚えた。祖父の人生に隠された旋律は、湊が想像するよりも、ずっと悲しく、複雑なものなのかもしれない。

第三章 残響の真実

マスターから聞いた千代の旧姓と住所を頼りに、湊は古い住宅街の一角にある「藤宮」と表札のかかった家を訪ねた。胸の鼓動が、嫌な予感と微かな期待で早鐘を打っていた。

インターホンを押すと、中から「はい」という若い女性の声がした。出てきたのは、湊と同年代くらいの、快活な印象の女性だった。

「あの、藤宮千代さんはいらっしゃいますでしょうか。相沢壮一の孫の者です」

湊が名乗ると、女性は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかい表情になって言った。

「私が孫の小春です。どうぞ、お上がりください。祖母は……五年前に亡くなりました」

その言葉は、湊の胸にずしりと重く響いた。結局、祖父と千代は再会することなく、それぞれの人生を終えたのだ。

小春に案内された客間で、湊は手紙の束を見せ、祖父の過去を探していることを話した。小春は静かに頷きながら話を聞いていたが、やがて、ぽつりぽつりと祖母の思い出を語り始めた。千代は亡くなるまで、壮一のことを「私のたった一人のピアニスト」と呼び、彼の帰りを待ち続けていたという。

「祖母は、祖父がなぜいなくなったのか、理由を知っていました」

小春の言葉に、湊は息を飲んだ。

「戦争や親の反対なんかじゃありません。もっと……もっと、残酷な理由です」

小春は立ち上がると、桐の箱を大切そうに抱えて戻ってきた。中に入っていたのは、千代の日記だった。小春は、あるページを開いて湊に差し出した。そこには、震えるような文字で、衝撃の事実が記されていた。

『壮一さんの指が、動かなくなった。練習中の事故だった。懸命なリハビリも虚しく、彼の指は二度と以前のように滑らかには動かないと、お医者様は言った。彼は私の前で一度だけ泣いた。『君に、こんな醜い音は聴かせられない』と。そして次の日、彼は私の前から消えた』

湊は愕然とした。祖父がピアノを辞め、千代の前から姿を消した理由。それは、ピアニストとしての生命線である指の怪我。そして、愛する人に完璧ではない自分の演奏を聴かせたくないという、あまりにも痛々しく、誇り高い音楽家としてのプライドだったのだ。

「祖父は、聴力を失いかけていた、とも聞いています」

小春が付け加えた。事故の後遺症で、繊細な音の判別が難しくなっていったのだという。

「だから、祖母は手紙を書き続けたんです。いつか彼の耳が完全に聞こえなくなっても、私の想いが文字で伝わるように、と。届かないと分かっていても、書き続けることが、祖母にとっての愛だったんです」

湊が持ってきた手紙は、千代から祖父への一方的なラブレターではなかった。それは、音を失った恋人へ向けた、必死の魂の交信だったのだ。祖父は、その手紙を読むことが、あまりにも辛かったのかもしれない。だから、封も開けずに、しかし捨てることもできずに、大切にしまっていたのだ。

すべてのピースがはまった時、湊の胸を突き刺したのは、激しい痛みと、どうしようもないほどの愛情だった。コンクールでの失敗で音楽から逃げた自分と、すべてを失ってもなお、愛する人のために完璧であろうとした祖父。その魂の在り方の違いに、湊は打ちのめされた。箪笥の奥のオルゴールと手紙は、祖父の愛と苦悩の、声なき絶叫だったのだ。

第四章 君のためのソナタ

湊は、神保町の自室に戻った。部屋の隅で、白い布をかぶったままのアップライトピアノが、まるで墓標のように静かに佇んでいる。彼はゆっくりと布を剥がした。象牙色の鍵盤が、埃の中で鈍く光っている。

祖父の苦悩を知った今、自分の挫折がひどく矮小なものに思えた。湊は、震える指で鍵盤に触れた。冷たく、滑らかな感触。何年も忘れていたはずの感覚が、指先から蘇ってくる。

小春から、もう一つ託されたものがあった。それは、祖父が事故の直前まで書いていたという、未完の楽譜の写しだった。「千代に捧ぐ」と記されたその楽譜は、情熱的な第一楽章の後、ぷっつりと途切れている。湊は、その楽譜をピアノの譜面台に置いた。

途切れた小節の先を、埋めなければならない。湊を駆り立てたのは、義務感ではなかった。祖父が遺した愛と後悔の旋律を、このまま終わらせてはいけないという、強い衝動だった。届かなかった想いを、自分が音にして届けなければならない。それは、祖父と千代のためであり、音楽から逃げ続けた自分自身との、決着でもあった。

湊は弾き始めた。最初はぎこちなく、何度も指がもつれた。しかし、弾き続けるうちに、指が、心が、音楽を思い出していく。空白の小節に、どんなメロディを紡ぐべきか。彼は目を閉じ、祖父の心を想像した。千代への愛、失われた指への絶望、そして、それでも捨てきれなかった音楽への情熱。

何日も、何夜も、湊はピアノに向かった。紡ぎ出されたメロディは、切なく、しかしどこまでも優しく、温かかった。それは、別離の悲しみを超え、永遠の愛を誓うような、祈りにも似た旋律だった。

数週間後、湊は完成した楽譜を手に、再び小春を訪ねた。そして二人で、千代が眠る墓地へと向かった。海を見下ろす丘の上、湊は小さな携帯プレイヤーで、完成した曲を流した。

スピーカーから流れ出したのは、壮一の情熱と、湊の優しさが溶け合った、一つのソナタだった。それは、五十年の時を超えて、ようやく千代の元へと届けられた、壮一からの返信だった。風が、まるで千代の微笑みのように、二人の頬を撫でていく。小春の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。湊の心にも、温かいものが静かに満ちていくのを感じた。

あの日以来、湊は再びピアノを弾き始めた。古書店の仕事の合間に、彼は自分のための音楽を奏でる。もうコンクールのためのピアノではない。誰かに評価されるためでもない。ただ、心にある想いを音にするためのピアノだ。

届かなかった想いも、決して消え去るわけではない。それは時を超え、誰かの心に受け継がれ、新たな音色を奏で始める。湊は今、そのことを知っている。彼の指が鍵盤の上を滑るたび、部屋には追憶のプレリュードが満ちていく。それは、過去と未来をつなぐ、ささやかで、しかし確かな希望の調べだった。

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