忘却の蝶と創世の石
第一章 刻まれる痛み
空はいつも、磨かれたガラスのように澄み渡っていた。人々が手放した記憶の澱みが、どこにもないからだ。僕、アッシュの腕に、またひとつ、透明な蝶の紋様が浮かび上がった。ひやりとした痛みが皮膚を走り、まるで薄氷が張り詰めるような感覚だった。
「ごめん、リナ。君の笑い声を、もう思い出せない」
心の中で呟いた言葉は、誰にも届かない。昨日まで確かに胸にあったはずの幼馴染との温かい記憶は、今やこの冷たい紋様に姿を変えてしまった。僕が彼女を「本心から忘れた」証。それが、この蝶だった。
街を行き交う人々は皆、胸元に小さな『心の石』を下げている。生涯でただひとつ選んだ、最も大切な記憶を封じ込めた輝きの結晶。それは彼らの存在の核であり、精神の純粋さの象徴だ。石の光が淡く漏れ、彼らの輪郭を柔らかく縁取っている。
僕には、その石がない。代わりに、肌には無数の蝶が舞っていた。忘れるたびに増えていく、美しくも忌まわしい刻印。人々は僕を憐れみ、あるいは恐れて遠巻きにする。石を持たぬ者は、やがて存在そのものが薄れていくのだと、誰もが信じていたから。僕は、この世界にとって不完全な染みのような存在だった。
第二章 石守の囁き
広場の隅で、ひとりの老人の姿が陽炎のように揺らめいていた。彼の胸には石がなく、その指先からゆっくりと世界が透けていく。忘却の果てにある、静かな消滅。その光景から目を逸らせずにいると、不意に背後から声をかけられた。
「あなたのその紋様……」
振り返ると、そこにいたのは一人の女性だった。月光を思わせる銀色の髪を持ち、古文書を抱えた彼女は、僕の腕に刻まれた蝶を真剣な眼差しで見つめていた。彼女はルナと名乗り、『心の石』を祀る大書庫の司書、石守なのだと静かに告げた。
「恐れることはありません。ただ、見せていただけますか」
ルナの指先が、ためらいがちに僕の腕の蝶に触れる。その瞬間、彼女の瞳が驚きに見開かれた。彼女の指が触れた場所から、微かな熱が伝わってくるようだった。
「まさか……。これは、古の伝承にある『創世の石』の失われた紋様に酷似しています」
「創世の石?」
「ええ。世界で最初に生まれた、ただひとつの心の石。全ての記憶を内包していたと言われる、伝説の石です」
彼女の囁きは、街の喧騒にかき消されそうなほど小さかったが、僕の心の奥深くに、確かな波紋を広げた。
第三章 禁じられた書庫
ルナの導きで、僕は大書庫の地下深く、埃とインクの匂いが充満する禁じられた一角へと足を踏み入れた。ここには、『忘却の法則』が敷かれる以前の世界が記された書物が、眠るように並べられていた。羊皮紙の乾いた手触りが、指先に遠い過去の感触を伝える。
「見てください、この記述を」
ルナが広げた一冊の古文書。そこには、複雑な紋様がびっしりと刻まれた巨大な石の絵が描かれていた。その一つ一つの紋様が、僕の体に刻まれた蝶の形と不気味なほど一致している。
『創世の石は砕け、その記憶の欠片は無数の蝶となりて世界に散った。人々はそれを忘れ、ひとつの輝きのみを心の拠り所とした』
記述を読み終えた僕の背筋を、悪寒が駆け抜けた。僕の体は、砕け散った伝説の石の欠片を拾い集める器だというのか。忘却は、精神の純粋さを保つための崇高な儀式ではなかったのか。僕たちが手放した記憶は、ただ消え去るのではなく、この蝶の紋様として僕の中に蓄積され続けていた。この世界の法則そのものが、巨大な欺瞞の上に成り立っているのではないか。疑念が、暗い蔓のように心を絡め取っていく。
第四章 蝶たちの共鳴
「見つけたぞ!石持たぬ穢れ者め!」
突然、地下書庫の重い扉が蹴破られ、忘却の秩序を守る長老会の衛兵たちがなだれ込んできた。松明の火が揺れ、僕たちの影を壁に大きく歪ませる。
ルナの手を引いて、本棚の迷路を駆け抜ける。追手の怒声が背後から迫り、心臓が喉までせり上がってくるようだった。追い詰められた書庫の最奥、行き場を失った僕の目の前で、衛兵が槍を構える。
その時だった。恐怖に強張った僕が、無意識に自分の胸に腕を重ね合わせた瞬間。腕の蝶と、胸に刻まれた別の蝶の紋様がぴたりと重なり合った。
――閃光。
紋様が眩い光を放ち、僕たちの目の前に、ありえない光景が幻影となって再生された。錆びた鉄の匂い、耳を劈くような叫び声、燃え盛る街、憎しみに歪んだ人々の顔。それは、この純粋な世界には決して存在するはずのない、「戦争」の記憶だった。
「なんだ、これは……」
衛兵たちが呆然と立ち尽くす。忘却は、純粋さを保つためのものではない。この醜い過去を、人類の過ちを、完全に封印するための蓋だったのだ。そして僕の体は、その封印を解くための、唯一の鍵だった。
第五章 創世主の涙
幻影が消えた後、僕の体中の蝶たちが一斉に羽ばたき始めた。皮膚の下で何千、何万という蝶が乱舞し、その光は僕の全身を包み込む。意識が遠のき、僕は時間の流れを超えて、世界の始まりへと引きずり込まれていった。
そこにいたのは、神とも呼ぶべき孤独な存在だった。創世主。彼は、自らが創り出した人類が、憎しみ、奪い合い、血を流し続ける姿に深く絶望していた。その瞳からは、水晶のような涙が止めどなく溢れていた。
彼は決意した。人類から、争いの火種となる強すぎる感情と、過ちの記憶を奪うことを。彼は自らの体から、その全ての記憶を削ぎ落とした。痛み、悲しみ、怒り、後悔、そして愛さえも。削ぎ落とされた記憶は、無数の透明な蝶となり、世界という巨大な石の中に封印された。
そして創世主は、残ったひと欠片の「美しい記憶」だけを人々に与え、それを『心の石』と呼ばせたのだ。
僕の体に刻まれた蝶は、創世主が捨てた記憶そのものだった。僕が誰かを忘れるたびに感じていた痛みは、創世主が自らの記憶を剥がすときに感じた、途方もない痛みの一部だったのだ。蝶たちは、創世主の涙の結晶だった。
第六章 記憶の番人
意識が現在に戻った時、僕の体から放たれる光は、地下書庫全体を穏やかに照らしていた。衛兵たちは武器を下ろし、その光に魅入られたように立ち尽くしている。
僕は全てを理解した。僕という存在は、この世界の忘却を終わらせるためのトリガーであり、同時に、人類が失った全ての記憶を宿す箱舟だった。
僕の前には、二つの道が拓けていた。
一つは、この蝶の記憶を世界に解き放つこと。人々は忘れていた痛みや憎しみを取り戻し、偽りの平穏は終わるだろう。だが、彼らは過ちの歴史を知り、そこから学び、真の自由を手にするかもしれない。
もう一つは、僕自身が全ての記憶をこの身に封じ込めたまま、「記憶の番人」として生きること。世界の欺瞞を黙認し、人々を無垢な子供のままにしておく。この静かで美しい世界を、僕一人の孤独と引き換えに守り続ける。
僕は隣に立つルナを見た。彼女はただ静かに僕を見つめ、その選択を待っている。
空を見上げたい、と思った。あの、磨かれたガラスのように澄み渡った空を。心の石の淡い光だけを頼りに生きる人々が、今日もそこで笑っている。彼らの笑顔は、偽物なのだろうか。それとも、それこそが守るべき真実なのだろうか。
僕は、静かに息を吸い込んだ。僕の体から放たれる光は、夜明けの空のように、かつてないほど優しく、そしてどこまでも切ない色をしていた。