残香のレクイエム

残香のレクイエム

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第一章 残香のオルゴール

港町の坂の上に、俺の店はひっそりと佇んでいる。看板にはただ一輪、月下美人の絵が描かれているだけだ。「霧香堂」。訪れる客は多くない。それでよかった。俺、霧島朔(きりしまさく)は、人との深い関わりを極力避けて生きてきた。理由は、この呪いのような才能のせいだ。

俺には、人が触れた物に残留する「記憶の香り」を嗅ぎ分ける力がある。それは単なる匂いではない。喜びは陽だまりの蜜のように甘く、怒りは焦げた鉄のように鼻を刺し、哀しみは冷たい雨に濡れた土の匂いがする。強すぎる感情は、色と形を伴って俺の感覚を暴力的に支配する。だから、アンティーク品を扱うこの店で、古い物の声なき声に耳を傾けるように、静かに香りを嗅ぎ、その記憶を香水で再現するという仕事は、天職であると同時に、孤独を深める檻でもあった。

その日、店のドアベルがちりんと乾いた音を立てた。入ってきたのは、海の色を溶かしたような瞳を持つ女性だった。歳は俺と同じくらいだろうか。その手には、黒ずんだ木製のオルゴールが大切そうに抱えられていた。

「あの、お願いがあるんです」

女性は水瀬遥(みなせはるか)と名乗った。彼女は亡くなった祖父の遺品を整理しているうち、このオルゴールを見つけたのだという。

「祖父がずっと大切にしていたものなんです。でも、どんな曲なのか、誰も知らなくて。ネジが壊れていて、もう音は鳴らないんです。ただ……」

遥はオルゴールをそっとカウンターに置いた。

「蓋を開けると、ふわりと、とても懐かしい香りがするんです。この香りを、再現していただくことはできませんか?」

俺は黙って頷き、白い手袋をはめた手でオルゴールを受け取った。ずしりと重い。年月を経た木の滑らかな感触。ゆっくりと蓋を開ける。その瞬間、複雑で、しかし鮮烈な香りの奔流が俺の嗅覚を襲った。

それは、一つの香りではなかった。主旋律となっているのは、夏の夜に咲く浜木綿(はまゆう)の、切ないほどに甘い香り。これは純粋な「喜び」や「愛しさ」の記憶だ。だがその奥に、潮風に晒された鉄の錆の匂い――長い年月の「悔恨」が混じり合っている。そして、それら全てを包み込むように、微かに、しかし決して消えることのない、燃え殻と煙の匂いがした。それは「喪失」と「深い哀しみ」の香りだった。

何より俺を動揺させたのは、その煙の香りだった。それは、俺自身の記憶の奥底に封じ込めたはずの、遠い日の火事の匂いと、あまりにもよく似ていた。忘れていたはずの熱と恐怖が、肌の上を這うように蘇る。

「……分かりました。お預かりします」

俺は、声が震えるのを必死で堪えた。このオルゴールは、ただの思い出の品ではない。その香りは、俺自身の過去へと繋がる、開けてはならない扉の鍵のように思えた。

第二章 潮風が運ぶ旋律

オルゴールの香りを再現する作業は、難航を極めた。浜木綿、潮、錆、そして燃え殻。相反する要素が、奇跡的なバランスで調和している。それはまるで、人生そのものを凝縮したような香りだった。俺はまず、香りの構成要素を分解し、一つ一つの記憶の断片を辿ることから始めた。

「お祖父さんは、どんな方だったんですか?」

数日後、進捗を伝えに来た遥に、俺は尋ねた。彼女は少し遠くを見るような目をして、ぽつりぽつりと語り始めた。

「無口で、少し気難しい人でした。でも、とても優しくて……。若い頃は、この町で漁師をしていたそうです。私が小さい頃、よく浜辺に咲く白い花を摘んでくれたのを覚えています」

浜木綿だ、と直感した。オルゴールから香る「喜び」の記憶は、おそらく幼い遥に向けられた愛情の香りなのだろう。

「でも、祖父は海のことをあまり話したがらなかった。何か、辛いことでもあったのかもしれません」

彼女の言葉は、錆の匂いが示す「悔恨」の記憶と重なった。俺は町の古い図書館へ通い、過去の新聞記事を調べ始めた。何かが、俺を突き動かしていた。それは調香師としての探究心か、それとも自身の過去への予感か。

遥は、その後も何度か店を訪れた。彼女は俺の仕事に興味深そうに質問をしたり、町で見つけたという綺麗な貝殻を持ってきてくれたりした。彼女と話していると、いつも張り詰めている心の弦が、少しだけ緩むのを感じた。彼女が触れたカップに残る記憶の香りは、陽だまりのように穏やかで、温かかった。人を避けてきた俺の心に、小さな光が差し込むようだった。

俺は遥の話と、図書館で得た情報を元に、香りの再現を進めていった。浜木綿のアブソリュートを基調に、潮のミネラル感を出すためにアンバーグリスを、そして悔恨の深みを表現するために、オークモスと古木の香りを加えた。問題は、あの煙の香りだった。あれは、ただの焚き火の匂いではない。建物が、生活が、人の命が燃え尽きた時の、絶望的な香りだ。

ある嵐の夜、俺は試作品の香りを嗅ぎながら、古い町の地図を広げていた。遥の祖父が住んでいたという地区。それは、俺が両親と暮らしていた家の場所と、驚くほど近かった。その時、新聞の縮刷版で見つけた小さな三行記事が、脳裏に雷のように閃いた。

『深夜の火災で夫婦が死亡。幼い男児一人が救出される』

日付は、二十五年前の夏。俺が全てを失った日。血の気が引き、指先が冷たくなる。まさか。そんな偶然があるはずがない。俺は震える手でオルゴールを掴み、もう一度、その奥深くに眠る香りに意識を集中させた。

第三章 灰と浜木綿の記憶

意識を深く、深く沈めていく。香りの渦の中心へ。浜木綿の甘さ、潮の苦さ、錆の重さ。そして、あの煙の香り。俺は逃げずに、その記憶の核心と向き合った。

途端に、鮮烈な情景が脳裏に広がった。

―――燃え盛る炎。黒い煙が喉を焼き、熱風が肌を舐める。幼い俺の泣き叫ぶ声。崩れ落ちる梁。絶望的な両親の顔。もう駄目だと思った瞬間、誰かの太い腕が俺の体を力強く抱き上げた。知らない男だった。顔は煤で汚れ、目は恐怖と、そして必死の決意に満ちていた。男は俺を抱きしめ、炎の中を突き進む。背後で何かが崩落する轟音。

男は俺を安全な場所まで運び出すと、その場に崩れるように膝をついた。ぜえぜえと激しく肩で息をしながら、俺の顔を覗き込む。その目に浮かんだのは、安堵の色だった。彼は、俺の無事を心から喜んでいた。その安堵の感情が、ふわりと、甘い花の香りとなって立ち上った。浜木綿の香りだ。幼い孫娘に花を摘んでやる時の、慈しみに満ちた愛情と同じ種類の香り。

そして男は、再び燃え上がる家を見上げた。その横顔に浮かんだのは、他の誰かを救えなかった深い絶望と、生涯消えることのない後悔の色。それが、錆と燃え殻の香りとなって、彼の魂に深く刻み込まれた。

幻視から覚めた俺は、カウンターに突っ伏したまま、しばらく動けなかった。全身が汗で濡れ、心臓が激しく鼓動していた。

涙が、頬を伝った。

遥の祖父だ。あの夜、俺を火の中から救い出してくれたのは、遥の祖父だったのだ。

彼は、俺の両親を救えなかった罪悪感と、俺を救い出せたという小さな希望を、誰にも言わずに一人で抱え続けてきたのだ。このオルゴールは、彼の言葉にならない記憶そのものだった。甘い浜木綿の香りは、俺という命を救えた安堵と、遥への愛情。錆と煙の香りは、拭い去れない後悔と哀しみ。彼が奏でることのできなかった、魂の旋律。

俺は、ずっと一人だと思っていた。あの火事で全てを失い、この奇妙な能力のせいで心を閉ざし、世界から隔絶されているのだと。だが、違った。遠くから、ずっと俺の人生を見守っていてくれた人がいた。俺の命は、彼の後悔と希望の上に、繋がれていたのだ。

第四章 夜明けのパルファン

数日後、俺は完成した香水を小さなガラス瓶に詰め、遥を店に呼んだ。彼女はどこか緊張した面持ちで椅子に座った。

「できました。これが、あなたのお祖父さんの記憶の香りです」

俺は試香紙に香水を一吹きし、彼女に手渡した。遥はそれをそっと鼻に近づけ、目を閉じた。彼女の長い睫毛が、微かに震える。

トップノートは、爽やかな潮風と、夜に咲く浜木綿の甘い香り。ミドルノートで、古びた木の落ち着いた香りと、金属的な錆のニュアンスが顔を出す。そしてラストノートには、微かなスモーキーな香りが、全てを包み込むように静かに漂う。

「……祖父の匂いです」遥は目を開け、涙の膜が張った瞳で俺を見つめた。「懐かしい……。でも、知らない匂いもする。とても……切ない香り」

「それは、あなたのお祖父さんの『後悔』と、そして『希望』の香りです」

俺は、静かに語り始めた。二十五年前の火事のこと。俺がその唯一の生き残りであること。そして、彼女の祖父が、俺の命の恩人であったこと。俺の言葉を、遥は一言も聞き漏らすまいとするかのように、じっと聞いていた。

全てを話し終えた時、彼女の頬を大粒の涙が伝っていた。

「そうだったんですね……。祖父は、ずっと……」

「彼は、俺を救えなかった両親のことを悔やみ続けていたんだと思います。同時に、俺という命が続いていることに、希望を見出していたのかもしれない」

俺たちは、しばらく言葉もなく、ただ窓から差し込む午後の光の中に座っていた。オルゴールが繋いだ、二つの家族の、長くて静かな物語。その終着点に、俺たちはいた。

「ありがとうございます、霧島さん」遥は涙を拭い、微笑んだ。「祖父の、本当の心に触れられた気がします。あなたに頼んで、本当によかった」

彼女が帰った後、俺は一人、店に残った。カウンターの上には、あのオルゴールが置かれている。もうそこから、かつてのような強烈な記憶の香りは感じなかった。まるで、役目を終えたかのように、それはただの静かな木箱に戻っていた。

俺は、完成した香水を自分の手首に少しだけつけた。浜木綿の甘さが、俺自身の過去の哀しみを、優しく包み込むようだった。

この力は、呪いではなかったのかもしれない。声なき声を聞き、忘れられた記憶を掬い上げ、人と人とを繋ぐためのものだったのかもしれない。

俺は店の外に出て、坂の上から海を眺めた。夕日が、港を茜色に染めている。潮風が、俺の頬を撫でていく。その風に、手首から立ち上る香りが混じり合い、遠い空へと運ばれていく。それは、遥の祖父への、そして俺自身の過去への、鎮魂歌(レクイエム)のようだった。俺はこれからも、この場所で、記憶の香りを辿り続けるだろう。孤独ではなく、誰かの心に寄り添いながら。

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