空白へのレクイエム
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空白へのレクイエム

第一章 泡沫の結晶

俺、蒼(アオ)の目には、他人の『後悔』が光る結晶として映る。それはダイヤモンドのように硬質で、琥珀のように鈍い輝きを放ち、時に涙の雫のように儚げに揺らめいた。俺はそれを指先で摘み取り、口に含んで溶かす。すると、持ち主が経験した後悔の瞬間が、奔流となって俺の意識に流れ込んでくる。焼けるような痛みも、抉られるような悲しみも、全て俺が引き受ける。そうして、人々は足元に絡みつく物理的な『重石』から解放され、沈みかけた地面からふわりと浮上するのだ。俺は、そうやって生きてきた。

だが、最近の世界はどこかおかしかった。街角では、昨日まで腰まで沈んでいた男が、何の前触れもなく重石を消し去り、虚ろな目で空を見上げている。かと思えば、些細な未練だったはずの老婆の重石が、一晩で家屋ほどに巨大化し、アスファルトを砕いて奈落へと引きずり込んでいく。まるで世界が、白か黒か、救済か破滅かの二択を人々に突きつけているようだった。

そして、俺の仕事にも異変が生じていた。後悔の結晶を喰らい、その記憶を完全に追体験しても、依頼人の重石が消えない。どころか、より重く、より深く沈んでいくことさえある。俺自身の過去の記憶が、結晶を喰らうたびに薄霧の向こうへと遠ざかっていくのを感じながら、ただ得体の知れない焦燥感だけが胸の内側を削っていた。ポケットの中にある、いつから持っているのかも思い出せない滑らかな小石を握りしめる。それだけが、俺が俺であることの唯一の証明のような気がした。

第二章 沈みゆく少女

その少女、結(ユイ)は、公園のベンチに座っていた。いや、座っているように見えただけだ。彼女の身体は胸の下まで硬い黒曜石のような重石に飲み込まれ、地面と一体化していた。まるで大地から生えてきた、悲しみの彫像。風が彼女の黒髪を揺らすたび、カラン、と結晶の欠片が地面に落ちて微かな音を立てた。それは、あまりに濃密な後悔の香りを発していた。

「……結晶喰い、なんでしょう?」

結は俺から視線を逸らしたまま、囁くように言った。その声は、長い間水底に沈んでいたかのようにか細く、冷たい。

「もう、無駄よ。何人も試した。誰も私の重石を消せなかった」

「それでも、試す価値はある」

俺は彼女の前に膝をつき、頬を伝う光の粒に指を伸ばした。それは、これまで見てきたどの結晶とも違っていた。単純な後悔ではない。怒り、悲しみ、そして、決して手放したくないという頑ななまでの愛が、複雑な螺旋を描いて結晶の中で渦巻いていた。

「頼む」

俺は言った。

「君の痛みを知覚えさせてくれ」

彼女の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。諦めという名の分厚い氷に、小さな亀裂が入る音を聞いた気がした。

第三章 同調の残響

結の結晶を舌の上で転がした瞬間、世界が反転した。

肌を焦がす熱波。鼻をつく煙と、何かが焼け爛れる異臭。鼓膜を突き破るような絶叫と、崩れ落ちる建物の轟音。視界は赤と黒に塗りつぶされ、俺は燃え盛る梁の下で動けなくなっている小さな腕を掴んでいた。結の記憶だ。

『行かないで!』

幼い少年の叫び声。しかし、結の身体――今の俺の身体は動かない。背後から迫る火の手が、皮膚を舐めるように熱い。恐怖が理性を焼き切り、生存本能が身体を支配する。

『ごめん、なさい……!』

振り払われた手。遠ざかっていく泣き顔。そして、全てを飲み込む紅蓮の海。後悔は、灼熱の槍となって俺の胸を貫いた。息ができないほどの罪悪感。俺は、その記憶の全てを、結の魂が受けた傷の全てを、自分のものとして引き受けた。

意識が現実に戻る。俺は公園の地面に倒れ込み、激しく咳き込んでいた。涙と汗でぐしょ濡れだった。顔を上げると、結が静かに俺を見下ろしている。彼女の表情は変わらない。そして、彼女の足元にある黒曜石の重石もまた、びくともしていなかった。それどころか、その漆黒の密度を増し、さらに一寸、彼女を大地へと引きずり込んだように見えた。

第四章 空白の兆し

街の様子は、日を追うごとに異様さを増していった。重石が消えた人々は、地面から数センチ浮遊し、感情の抜け落ちた顔で街を彷徨っていた。彼らは笑うことも、泣くこともない。ただ、時折、空を見上げては、何かを待っているかのように静止する。彼らの瞳からは、もう後悔の結晶は生まれなかった。過去を失った魂は、輝きを放つことさえやめてしまったのだ。

「世界が、白く塗りつぶされていくみたい」

結がぽつりと言った。彼女の重石だけが、まるでこの世界の異常性に抗う最後の砦のように、その場に留まり続けている。

「彼らは、何を失ったんだ?」俺は自問する。未練だけではない。後悔だけでもない。もっと根源的な何か、人を人として成り立たせている記憶そのものが、世界から蒸発しているかのようだった。

なぜ結の重石は消えない? 彼女の後悔は、ただの後悔ではなかった。それは、忘れてはならないという誓い。決して風化させてはならないという、強烈な意志そのものだった。だから、世界が過去を消し去ろうとする力に、彼女の未練は必死に抵抗していたのだ。

俺は無意識に、ポケットの小石を握りしめていた。その石が、妙に熱を帯びている気がした。

第五章 虹彩の真実

その夜、俺は悪夢にうなされた。曖昧な過去の記憶が、濁流のように押し寄せてくる。数えきれないほどの他人の後悔、他人の人生。その濁流の中で、俺自身の顔が見えなくなっていく。俺は誰だ? 俺の本当の後悔は、どこにある?

ふと、ポケットの中で握りしめていた小石が、激しい光を放った。驚いて手を開くと、そこにあったのはただの石ではなかった。光を乱反射させ、無数の色を内包する『虹色の欠片』。あらゆる後悔が混じり合い、決して砕けることのない、世界で唯一、過去の記憶を完全に保持し続けるという伝説の結晶。

千人に一人の確率で生まれる、奇跡の欠片。

それが、なぜ俺のポケットに?

触れた指先から、知らないはずの記憶が流れ込んできた。それは結の体験した火事とよく似ていたが、もっと古く、もっと絶望的な光景だった。俺は誰かの手を握っていた。そして、その手を、自ら振り払っていた。

『忘れないで』

そう言ったのは誰だったか。

その瞬間、全てを理解した。この『虹色の欠片』は、誰かの後悔ではない。俺自身の後悔の結晶だった。俺は、いつか、誰かを救えなかった。そしてその罪悪感から逃れるために、他人の後悔を喰らい続け、自分の記憶を上書きしてきたのだ。世界の異変は、おそらく俺が見捨てた誰かの「こんな苦しい記憶なら、全て消えてしまえ」という願いが暴走した結果なのだろう。

第六章 最後の記憶

翌朝、俺が公園に着くと、信じられない光景が広がっていた。結を縛り付けていた巨大な重石が、跡形もなく消え失せていたのだ。彼女は、他の人々と同じように、地面からわずかに浮き、虚ろな瞳で空を見上げていた。

「結!」

俺は駆け寄って彼女の肩を掴んだ。

「俺だ! 蒼だ!」

しかし、彼女の瞳に俺の姿は映らなかった。そこにあるのは、ただ無垢な、生まれたての赤子のような『空白』だけ。彼女はもう、後悔も、悲しみも、そして俺のことさえも覚えていない。彼女を繋ぎ止めていた最後の意志が、ついに世界の浄化の力に屈したのだ。

街を見渡す。全ての人が、全ての重石から解放されていた。誰もが軽く、自由で、そして空っぽだった。悲しみも苦しみもない世界。それは、一見すると理想郷なのかもしれない。だが、喜びも、愛も、積み重ねてきた歴史の温もりも、ここにはない。過ちから学ぶ機会さえも、永遠に失われた。静かで、完璧で、そして絶望的なまでに無意味な世界が完成していた。

第七章 空白の地平線に

世界に残された物語は、あと一つだけだった。俺の掌で虹色に輝く、この結晶。俺自身の、始まりの後悔。

これを喰らえば、俺は俺の過去を完全に取り戻すだろう。だが、この空白の世界で、たった一人で記憶を抱えて生きることに何の意味がある?

違う。意味はある。

俺は静かに、その虹色の欠片を口に含んだ。

瞬間、宇宙が爆ぜるほどの情報が、俺の魂に流れ込んできた。俺が忘れていた後悔。俺が喰らってきた数千、数万の後悔。そして、この世界から消え去った、名もなき全ての人々の喜びと悲しみの記憶。それら全てが、俺という器の中で一つに溶け合っていく。

俺の身体は足元から光の粒子となって崩れ始め、意識はどこまでも希薄に、そして広大になっていく。俺はもう蒼という個人ではない。俺は、この世界の『記憶』そのものになった。

眼下には、無垢な魂たちが静かに浮遊する、真っ白な地平線が広がっている。彼らはやがて、再び言葉を覚え、感情を育み、歴史を紡ぎ始めるだろう。そしていつか、俺がかつて犯したのと同じ過ちを、きっと繰り返すに違いない。

その時が来たら、俺はこの世界の風となり、雨となり、誰かの心にそっと囁きかけるだろう。

忘れるな、と。

君たちが失った、その痛みの輝きを。

空白の世界で、俺は唯一の語り部として、永遠に未来を見守り続ける。

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