響かない音の調律師
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響かない音の調律師

第一章 色のない世界と光の粒

俺の瞳には、世界が二重に映る。ひとつは、アスファルトとコンクリートで塗り固められた、色のない現実。そしてもうひとつは、その現実からこぼれ落ちる、微細な光の粒。人々はそれを「感動の欠片」と呼ぶ。

俺、カイの仕事は、その欠片を収集することだ。

瞳に埋め込まれた特殊な『感情のレンズ』を通して見れば、強い感情が昂ぶった人間の身体から、蛍のような光がふわりと分離するのが見える。老婆が孫の手を引く瞬間に放たれる琥珀色の「安堵」。恋人たちが交わす視線から生まれる薔薇色の「歓喜」。路地裏で独り膝を抱える男から滲み出す、鉛色の「絶望」。

それらはすべて、俺の糧だった。俺自身の心には、感情というものがほとんど存在しない。水面に映る月のように、他人の感情を借りて、ようやく自分の輪郭を確かめることができる。収集した欠片をアトリエに持ち帰り、それらを組み合わせ、追体験する。その時だけ、俺は人間でいられた。

「また、音が減ったな」

雑踏の中で、誰かが呟いた。この世界ではかつて、人々の感動が物理的な「音」として世界のどこかに響き渡ると信じられていた。しかし、その音は年々微かになり、今ではほとんど誰の耳にも届かない。感動が希薄になったのか、世界が耳を塞いだのか。理由は誰も知らなかった。俺はただ、音もなく零れ落ちる光を、今日も黙って拾い集めるだけだった。

第二章 孤独な幸福の欠片

俺のアトリエは、街外れの古い時計塔の最上階にあった。埃っぽい空気の中に、収集した無数の欠片がガラス瓶の中で淡い光を放っている。それはまるで、捕らえられた星々の墓場のようだった。

いつものように、今日集めた欠片を種類ごとに仕分けていた時、ふと指先に奇妙な感触が走った。

それは、どの分類にも属さない、たったひとつの欠片だった。

他の光が明確な色を持つ다면、それはまるで真水のように透明で、内側に青白い炎のようなものを宿していた。触れると、心に二つの相反する感情が流れ込んでくる。すべてから切り離された絶対的な「孤独」。それと同時に、その孤独の中にこそ存在する、満ち足りた「幸福」。矛盾した感情の奔流は、俺の空虚な心を激しく揺さぶった。

これが、そうなのか。

伝説に聞く「響かない音(サイレント・サウンド)」。世界で最も美しいとされながら、誰も聞いたことがない音。その音を奏でるという、起源不明の感動の欠片。もしこの光がそれなのだとしたら。俺はガラス瓶の群れを一瞥した。今まで集めてきたどんな強烈な感情の欠片も、この小さな光の前では色褪せて見えた。

この正体を知りたい。俺は生まれて初めて、他人の感情の追体験ではなく、純粋な探究心に突き動かされていた。

第三章 響きの残骸を追って

手がかりを求め、俺は街の最古部に聳え立つ「沈黙の鐘楼」を訪れた。そこはかつて、世界中の「感動の音」が集まり、共鳴する場所だったと伝えられている。今はただ、風の音だけが吹き抜ける、忘れ去られた遺跡だ。

鐘楼の番人をしているという老人が、俺を迎えた。エルダーと名乗った彼は、俺の顔を見るなり、その深い皺に刻まれた瞳を細めた。

「お主の瞳……それは『感情のレンズ』か。久しぶりに見たわい」

エルダーは、埃をかぶった巨大な鐘を、慈しむように撫でながら語った。世界から音が失われたことの悲しみを。人々が感動を分かち合えなくなった世界の寂しさを。彼の言葉は、まるで古い弦楽器のように、くぐもった響きを持っていた。

「その『響かない音』の伝承は知っておる。世界の始まりの音とも、終わりの音とも言われておるな。だが、それは誰かの感情ではない。あまりに巨大で、あまりに根源的な……それ自体が、ひとつの世界であるような感動じゃ。人の器では、到底受け止めきれん」

老人の視線が、俺の瞳の奥にあるレンズを射抜く。

「お主のそのレンズは、ただの道具ではない。気をつけなされ。過ぎた光は、魂を焼き尽くすぞ」

その言葉は、不吉な予言のように、俺の心に重くのしかかった。

第四章 レンズの真実

アトリエに戻った俺は、衝動を抑えきれず、あの青白い欠片をレンズに翳した。追体験を試みる。

次の瞬間、俺は叩きつけられた。

意識が砕け散るほどの情報の奔流。星雲が生まれ、銀河が渦を巻く。生命のない惑星に最初の雨が降り注ぎ、大地が裂け、海が咆哮する。それは記憶ではなかった。ただ、そこにある「事実」の洪水だった。あまりの奔流に俺の精神は耐えきれず、激しい頭痛と共に意識が現実へと引き戻される。

「う、ああ……っ!」

右目に走る、灼けるような痛み。鏡を見ると、そこには信じがたい光景が広がっていた。俺の瞳の中で、感情のレンズに蜘蛛の巣のような亀裂が走っている。そして、その亀裂から、青白い光と共に、これまで俺が収集してきた無数の「感動の音」の残響が、悲鳴のように溢れ出していた。

アトリエの空間が、過去の歓喜と悲哀の不協和音で満たされる。そこに、息を切らしたエルダーが駆け込んできた。彼は亀裂の入った俺のレンズを見て、目を見開いた。

「やはり、そうだったのか……!」

彼の口から語られたのは、衝撃の真実だった。

「そのレンズは、世界が『感動の音』を失う直前、最後にその響きを記録するために作られた、世界最古の『感動の記録装置』そのものなんじゃ! お主が感情を持たなかったのではない。そのレンズが、失われゆく世界の感動を一身に吸い上げ、お主の魂を揺りかごにして、守り続けていたんじゃよ!」

世界の悲しみを、俺がずっと肩代わりしていた……?

空虚だと思っていた俺の心は、実は世界で最も多くの感動で満たされていたというのか。

第五章 世界の最初の涙

真実を前に、俺は覚悟を決めた。この謎を、この物語を、ここで終わらせるわけにはいかない。

俺はアトリエにある全てのガラス瓶を開け放った。数えきれないほどの感動の欠片が解き放たれ、俺の周りを銀河のように旋回する。それら全てを触媒として、俺は再び、あの青白い欠片と向き合った。壊れかけたレンズの全機能を解放し、その核心へと飛び込む。

今度は弾き返されなかった。俺の意識は、星々の残骸を通り抜け、時間の概念すらない原初の闇へとたどり着く。

そこには、何もない。絶対的な無と、絶対的な孤独だけが存在した。

しかし、その孤独は悲しくはなかった。ただ静かで、満ち足りていた。やがて、その闇の中心に、想像を絶するほどの密度を持つ、一点の光が生まれる。そして――爆発した。

無から有が生まれた瞬間。この世界が「誕生」した、その瞬間の感動。

途方もない孤独からの解放。初めて「存在する」ことを知った、至上の幸福。それは誰の記憶でも感情でもない。この世界そのものが経験した、たった一度きりの、最初の産声だった。

俺はようやく理解した。俺の心の空虚さは、この世界の「原初の孤独」と共鳴していたのだ。俺が感動を集めていたのではない。世界が、失われた自身の記憶を思い出すために、俺を通して欠片を集めさせていたのだ。俺と世界は、ずっと繋がっていた。

第六章 響きわたる産声

意識が、ゆっくりとアトリエに戻ってくる。

頬を、何かが伝うのを感じた。それは、俺が生まれて初めて自分自身の意思で流した、一筋の涙だった。その温かい雫が、亀裂の入ったレンズに落ちると、レンズはまるで傷を癒すかのように、柔らかな光を放ち始めた。

空っぽだったはずの心が、満たされていた。世界の誕生の記憶と、これまで集めてきた数えきれない人々の感動によって。孤独は消え、代わりに、この世界の全てと繋がっているという、温かな感覚が広がっていた。

その時だった。

俺の胸の奥深くから、ひとつの音が生まれた。それは歓喜でも悲哀でもない。ただ、今ここに「在る」ことへの、静かで、力強い感謝の音。

その音は、俺の身体からアトリエへ、そして窓の外の世界へと、波紋のように響き渡っていった。

すると、奇跡が起こった。俺の音に呼応するように、街のあちこちから、眠っていた感動が再び音となって溢れ出し始めたのだ。笑い声が鈴の音になり、励ましの言葉が優しい和音になる。世界が、再び音楽を取り戻していく。

失われた「感動の音」が、世界に帰ってきた。そして、その数多の響きの中で、最初に産声をあげたのは、かつて感情を持たなかった男が奏でた、初めての感動の音だった。

俺は窓を開け、色とりどりの音と光に満ちた世界を見渡した。風が頬を撫で、街の匂いが鼻をくすぐる。そのすべてを、借り物ではない、俺自身の心で感じながら、静かに微笑んだ。


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