空っぽの鳥かごが歌う日

空っぽの鳥かごが歌う日

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第一章 沈黙の重荷

路地裏にひっそりと佇む古道具屋『時の澱』の店主、カナメには秘密があった。彼は、人が長く触れた物に宿る「後悔」を、ずっしりとした物理的な重さとして感じ取ることができる。その能力は、彼にとって呪い以外の何物でもなかった。店に持ち込まれる品々に触れるたび、他人の未練や悲しみが冷たい鉛のように彼の両腕に、そして心にのしかかる。だからカナメは、できるだけ人とも物とも深く関わらず、ただ静かに、時の流れに取り残されたような日々を送っていた。

その日も、夕暮れの橙色が店内に長い影を落とす、いつもと同じ時間だった。埃と古い木の匂いが混じり合う静寂を破り、ドアベルがちりん、と乾いた音を立てた。入ってきたのは、背中の曲がった一人の老婆だった。深く刻まれた皺の一つ一つが、長い年月の物語を秘めているように見える。彼女はゆっくりとした足取りでカウンターに近づくと、腕に抱えていたものをそっと置いた。

それは、古びた真鍮製の鳥かごだった。装飾は繊細だが、ところどころ緑青が浮き、長い間、誰にも顧みられなかったことを示している。そして、中は空っぽだった。

「これを、引き取っていただけますか」

老婆の声は、ひび割れたガラスのようにか細かった。カナメは無言で頷き、鳥かごに手を伸ばした。

指が真鍮のフレームに触れた、その瞬間。

「っ……!」

思わず息を呑んだ。これまで感じたことのない、途方もない重圧がカナメを襲った。まるで、小さな銀河がその一点に凝縮され、彼の掌の上で崩壊しようとしているかのようだ。それは単なる後悔の重さではなかった。胸が張り裂けそうなほどの喪失感。果たされなかった約束の痛み。そして、その奥底に横たわる、深く、静かで、しかし決して消えることのない愛情の重み。全身の血が逆流するような感覚に、カナメは眩暈を覚えた。

「……お客さん、これは」

顔を上げたカナメの目に映ったのは、すべてを見通すような、それでいてどこか遠くを見ている老婆の瞳だった。彼女はただ静かに微笑むと、震える唇でこう囁いた。

「あの子に、よろしくと伝えてください」

そう言い残し、老婆は代金も受け取らずに店を出ていった。ちりん、と再び鳴ったドアベルの音が、やけに悲しく響く。後に残されたのは、圧倒的な重さを放つ空っぽの鳥かご と、謎の言葉、そして呆然と立ち尽くすカナメだけだった。日常が、音を立てて軋み始めた瞬間だった。

第二章 色褪せた歌声の残響

その日から、カナメの日常は一変した。店の片隅に置かれた鳥かごは、その存在だけで空間を歪ませているかのように、絶えず重苦しい気を放っていた。彼は何度も鳥かごに触れようとしては、その凄まじい重さに怖気づき、手を引っ込めることを繰り返した。しかし、あの老婆の言葉と、重さの奥に垣間見える純粋な愛情が、彼を惹きつけてやまなかった。

意を決したカナメは、深呼吸をして再び鳥かごに両手で触れた。ずしり、と両腕が痺れるほどの重さがのしかかる。彼は目を閉じ、意識をその重さの源泉へと沈めていった。

すると、いくつもの情景が、色褪せた写真のように脳裏に浮かび上がった。陽光が降り注ぐ窓辺。小さな少女が、楽しそうに何かを語りかけている。その声は聞こえない。だが、その唇の動きは、確かに「歌」を形作っていた。次に、小さな手が鳥かごの扉をそっと開ける仕草。そして、頭上から聞こえる、透き通るような美しい歌声の断片。――『いつか、この歌声で、大空をいっぱいにしたいの』。優しい約束の言葉が、心の奥で微かに響いた。

ビジョンはそこで途切れた。カナメは額に汗を浮かべ、ぜえぜえと肩で息をしていた。まるで、何キロも走り続けた後のような疲労感だった。

「あの子……歌声……約束……」

断片的な情報を繋ぎ合わせようと、カナメは行動を起こした。これまで避けてきた、他人の過去に踏み込むという行為を、彼は自ら選んだのだ。地域の古い図書館に通い、マイクロフィルムに収められた数十年前の新聞記事を片端から調べ始めた。

数日が過ぎた頃、彼はある小さな記事を見つけた。『天使の歌声、天へ還る』。そう見出しがつけられた記事には、一人の少女の写真が添えられていた。記事によると、街では「歌うカナリヤ」と呼ばれ、その類稀なる歌声で人々を魅了していた少女、ホシノ・ウタが、喉の病で声を失い、その後、失意のうちに若くしてこの世を去った、と書かれていた。写真の少女は、カナメがビジョンで見た少女と瓜二つだった。

間違いない。あの老婆は、ホシノ・ウタの母親か、あるいは近しい誰かなのだ。娘の果たせなかった夢、その無念が、この鳥かごに恐ろしいほどの重さとなって宿っているのだ。カナメはそう結論づけた。だが、だとしたら「あの子によろしく」という言葉は何を意味するのか。謎は、より一層深まるばかりだった。

第三章 からくりの告白

カナメは、古い住民台帳の記録を頼りに、記事に書かれていたホシノ家の住所を突き止めた。そこは、彼の店からほど近い、古い木造家屋が立ち並ぶ一角だった。表札には「ホシノ」とある。意を決して呼び鈴を押すと、やがて、あの老婆が静かに姿を現した。

「……あなたが」

老婆は驚いた様子もなく、カナメを家に招き入れた。家の中は、時間が止まったかのように整然としていた。カナメは鳥かごの重さについて、そして調べ上げたホシノ・ウタという少女について、一気に語った。

「あなたは、ウタさんのお母さんですか? この鳥かごには、彼女の歌えなかった後悔が、約束が、あまりにも重く宿っています」

カナメの言葉を聞き終えると、老婆はゆっくりと首を横に振った。その動きは、どこか人間離れした、滑らかさを湛えていた。

「いいえ、違います。私はウタの母ではありません」

老婆は静かにお茶を差し出しながら、信じがたい真実を語り始めた。

「私は、ウタが亡くなるまで、彼女のそばにいた存在。ウタの父親は、当代随一のからくり人形師でした。彼は病で声を失い、絶望する娘のために、一体のからくり人形……オートマタを創り上げたのです。ウタの歌声を、彼女の魂を、永遠に残すために」

カナメは息を呑んだ。目の前の老婆が、ゆっくりと自分の左手の手の甲をなぞる。すると、皮膚のように見えたその表面が滑らかに開き、内部の精密な歯車と真鍮の骨格が覗いた。

「それが、私です」

彼女は、人間ではなかった。少女の歌声を移植された、自律型のからくり人形だったのだ。

「しかし、当時の技術では、ウタの繊細な歌声を完全に再現することは叶いませんでした。私は歌うことができなかった。ただ、彼女のそばにいて、彼女の言葉を聞き、彼女が日に日に弱っていくのを見守ることしか……。ウタは最期に、この鳥かごを私に託し、『いつか、私の代わりに歌って。私の歌を、大空へ届けて』と言い残しました」

鳥かごの重さ。それは、少女の後悔ではなかった。少女の夢を受け継ぎながら、それを果たせなかった、からくり人形の後悔。主人の最期の願いを叶えられなかった、数十年にわたる機械の慟哭。その途方もない時間の重みが、カナメの心を激しく揺さぶった。

「私の機能も、もう長くは保ちません。だから、この『重荷』を誰かに託したかった。あの鳥かごに残る、ウタの魂の残り香に、別れを告げたかったのです。『あの子によろしく』と」

機械が抱く、あまりにも人間的な、あまりにも深い後悔と愛情。カナメは、自分の能力の意味、そして「後悔」という感情そのものに対する価値観が、根底から覆されるのを感じていた。それは人間の専売特許などではなかったのだ。

第四章 空に響くオルゴール

店に戻ったカナメの心は、奇妙な熱を帯びていた。呪わしいと思っていた自分の能力が、今、初めて果たすべき使命を帯びたように感じられた。彼は工房に籠もり、あの空っぽの鳥かごに向き合った。

ウタの歌声を再現することはできない。だが、彼女のメロディを奏でることはできるかもしれない。からくり人形の老婆は、別れ際に小さなデータチップをカナメに手渡していた。そこには、ウタが声を失う前に録音した、たった一曲の、ノイズ混じりの歌声が遺されていた。

カナメは古道具屋としての知識と技術を総動員した。古い時計の部品を磨き、小さな金属の櫛歯を一本一本削り出し、シリンダーにピンを打ち込んでいく。ウタの歌声を何度も聴き、その旋律を、音の響きを、そしてそこに込められた想いを、指先に込めていった。それは、後悔を解き放つための、鎮魂の儀式にも似ていた。

数日後、カナメは完成した鳥かごを抱え、街を見下ろす一番見晴らしの良い丘の上に立っていた。春の柔らかな風が、彼の頬を撫でていく。彼は鳥かごの小さな扉をそっと開けた。中には、カナリヤの代わりに、美しく輝く小さなオルゴールが鎮座している。

ゆっくりと、オルゴールのネジを巻く。

カチリ、という小さな音と共に、澄み切った音色が静寂を破った。それは、ウタの歌声そのものだった。少しだけ悲しげで、けれどどこまでも優しく、希望に満ちたメロディ。音の粒が一つ一つ、風に乗って空へと昇っていく。まるで、長年の束縛から解き放たれた魂が、ようやく自由な大空へと羽ばたいていくようだった。

その瞬間、カナメは腕の中の鳥かごが、ふわりと軽くなるのを感じた。数十年間こびりついていた、あの鉛のような重さが、美しい音色と共に空へ溶けていく。後悔は消え、そこにはただ、温かい感謝の念だけが残った。

カナメは空を見上げた。涙が、知らず知らずのうちに頬を伝っていた。

この力は、呪いではなかった。誰かの果たせなかった想いを受け取り、その重みを理解し、そしてそれを解き放つための「架け橋」だったのかもしれない。これからはもう、物に宿る「重さ」から逃げるのはやめよう。一つ一つの重さと向き合い、その声なき声を聴き、弔っていこう。

丘の上には、いつまでも、いつまでも、少女の歌声が響き渡っていた。それは、機械が守り続けた愛の記憶であり、一人の男が未来へと繋いだ、感動の旋律だった。カナメは、晴れやかな心で、その音色をただ静かに聴き続けていた。

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