忘却の断片を編む者

忘却の断片を編む者

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第一章 終着のための始まり

僕が通う私立編纂学園には、奇妙な卒業要件があった。それは、三年間で「自分だけの物語」を一つ完成させ、卒業式の日に、図書館の最奥にある『終着の書架』に奉納すること。

陳腐だろうか? だが、この学園ではそれが絶対のルールだった。物語の素材は、学園の至る所に漂っている。僕らはそれを『物語の断片(フラグメント)』と呼んでいた。過去、この学園に在籍した誰かが残していった感情や記憶の残滓。それらは淡い光の粒となり、教室の隅や、夕暮れの廊下、誰もいない音楽室のピアノの上などで、まるで埃のように、静かに浮遊している。生徒はそれに触れることで、断片的な文章や、曖昧なイメージを読み取ることができる。それを集め、繋ぎ合わせ、自分なりの解釈で再構成し、一つの物語を編み上げる。それが、僕らに課せられた卒業論文だった。

「物語なんて、しょせん作り話だろ」

それが僕、水無月湊(みなづき みなと)の持論だった。だから僕は、創作という行為そのものに、何の情熱も抱いていなかった。感動的なフラグメント、劇的なフラグメント、そういったものは他の熱心な連中に任せておけばいい。僕はただ、無難で、起伏がなくて、それでいて論理的に破綻なく繋げられる、当たり障りのないフラグメントばかりを選んで集めていた。目的は卒業。それ以上でも、それ以下でもない。

その日も、僕は人気のない旧校舎をうろついていた。卒業を半年後に控え、さすがに物語の骨子くらいは固めなければならない時期だった。埃っぽい空気に満ちた渡り廊下。その先にある、もう何十年も使われていない時計塔の麓に、僕は足を向けた。ここは特に古く、忘れ去られたフラグメントが溜まりやすい場所だと聞いていたからだ。

蔦の絡まる壁際、崩れかけた煉瓦の隙間に、僕はそれを見つけた。ほとんどのフラグメントが白や青白い光を放つのに対し、それはひどく弱々しい、夕焼けのような橙色をしていた。誰にも拾われず、もうすぐ消えてしまいそうなほどか細い光。なのに、なぜだろう。その光は、不思議な温かさで僕を呼んでいる気がした。

僕は無意識に手を伸ばし、その光の粒にそっと触れた。

瞬間、頭の中に、澄んだ声が響いた。それは文章にもなっていない、たった一行の言葉。

『君の音色は、雨上がりの虹のようだ』

それだけだった。前後の文脈も、登場人物の姿もない。ただ、その一行に込められた、あまりにも純粋で、ひたむきな賞賛だけが、僕の冷え切った心の表面を、ちりちりと焦がした。効率を信条とする僕らしくもなく、衝動的にそのフラグメントを自分の生徒手帳に吸い込ませてしまった。これが、僕の空っぽだった物語が、予期せぬ方向へ舵を切る、始まりの合図だった。

第二章 響かない言葉、届かない声

あの一行を拾ってから、僕の創作は完全に行き詰まった。

『君の音色は、雨上がりの虹のようだ』

この言葉が持つ温度と、僕が今まで集めてきた無味乾燥なフラグメントたちとの間には、決して埋められない断絶があった。まるで、モノクロの世界にたった一つだけ、極彩色のピースが紛れ込んでしまったような居心地の悪さ。この一行を生かそうとすれば、物語全体がその純粋さに引っ張られてしまう。かといって、無視するには、あまりにもその光は鮮烈すぎた。

「水無月くん、また難しい顔をしてる」

ふと、背後から声がした。振り返ると、図書委員の相沢陽菜(あいざわ ひな)が、本のカートを押しながら立っていた。彼女は、僕とは正反対の生徒だった。一つ一つのフラグメントを、まるで壊れ物のように大切に扱い、その背景にある誰かの想いに耳を澄まそうとする。彼女の編む物語は、いつも優しくて、少し切ない香りがした。

「別に。どうでもいいことで悩んでるだけだ」

僕はぶっきらぼうに答えて、手元の端末に視線を落とした。そこには、繋ぎ合わされた無個性な文章の羅列が並んでいる。

陽菜は僕の隣に静かに腰を下ろすと、僕の端末の画面を覗き込んだ。

「……水無月くんの物語は、いつも綺麗にまとまってる。でも、なんだか寂しそう」

「余計なお世話だ」

「フラグメントはね、ただの素材じゃないんだよ」彼女は独り言のように呟いた。「誰かが伝えたかったのに伝えられなかった、心の声だと思うの。だから、私たちはその声を拾って、代わりに届けてあげる役目なんじゃないかな」

その言葉が、僕の胸に小さな棘のように刺さった。心の声? 届ける役目? 馬鹿馬鹿しい。感傷的なだけだ。そう切り捨てようとしたのに、脳裏にあの橙色の光がちらついた。

『君の音色は、雨上がりの虹のようだ』

これは、誰の心の声だったんだろう。そして、誰に届けられるはずだったんだろう。

気づけば僕は、立ち上がっていた。

「どこへ?」と問う陽菜に、「……調べ物だ」とだけ答え、僕は図書館を飛び出した。あの日、あのフラグメントを見つけた時計塔へ。何の手がかりもないことは分かっていた。それでも、じっとしていられなかった。あの言葉の持ち主の息遣いを、少しでも感じ取りたかったのかもしれない。僕らしくもない、非効率的な衝動に突き動かされて。

第三章 時を超えた二重奏

時計塔、音楽室、古い卒業アルバム。僕はまるで何かに取り憑かれたかのように、あの一行の出所を探し続けた。陽菜も、僕の奇妙な熱意に呆れながらも、時折、図書館の古い資料を探すのを手伝ってくれた。

そして、答えは思いがけない場所から見つかった。学園の創立五十周年を記念して作られた文集。その片隅に掲載されていた、一人の物故した音楽教師への追悼文。その教師の名は、相沢健(あいざわ けん)。陽菜の祖父だった。

追悼文の筆者は、当時の同僚で、今もこの学園で図書館司書として働いている、物静かな老教師、時任(ときとう)先生だった。文面には、相沢先生の温かい人柄と共に、こんな一節があった。

『彼はいつも、私の拙いピアノを褒めてくれた。とりわけ、雨の日の放課後、誰もいない音楽室で弾くドビュッシーを好んで聴いてくれたものだ。彼は、私の音色を虹のようだと、そう言ってくれた』

心臓が大きく跳ねた。これだ。間違いない。

僕と陽菜は、文集を手に司書室の時任先生を訪ねた。僕たちが時計塔で見つけたフラグメントの話をすると、先生は驚いたように目を見開き、それから、遠い昔を懐かしむように、ゆっくりと語り始めた。

「相沢先生……健さんは、私の恩師であり、親友でした」

時任先生は、かつてピアニストを目指していたという。しかし、高校生の時、コンクールを目前に控えたある日、不慮の事故で右手の小指に、演奏家としては致命的な怪我を負った。夢を絶たれた彼は、絶望の淵にいた。そんな彼を励まし続けたのが、新任の音楽教師だった陽菜の祖父、健さんだった。

「健さんは、私がピアノを諦めきれずにいるのを知って、よく音楽室に付き合ってくれました。不自由な指で弾く私の演奏を、彼はいつも優しい顔で聴いていた。そして、私のためだと言って、一曲、作ってくれたのです」

時任先生は、震える手で机の引き出しから、黄ばんだ一枚の楽譜を取り出した。タイトルは、『雨上がりのアリア』。

「この曲を渡される前日、彼は事故で……。だから、この曲がどんな想いで作られたのか、私は知らずにいた。彼が私に、最後に伝えたかった言葉も」

そこで、僕はすべてを理解した。

『君の音色は、雨上がりの虹のようだ』

それは、陽菜の祖父が、親友の未来を照らすために贈ろうとした、最大級の賛辞であり、希望の言葉だったのだ。僕が「ただの素材」として拾い上げたあの光は、数十年の時を経て、届けられるべき人の元へたどり着くのを、ずっと待っていたのだ。

物語なんて、作り話だと思っていた。でも、違った。それは、誰かの人生そのものだった。誰かの真実だった。僕の中で、硬く凍りついていた何かが、音を立てて崩れていくのが分かった。

第四章 君のための物語

僕は、自分の卒業制作を破り捨てた。無味乾燥な言葉の羅列は、もはや何の価値も持たなかった。代わりに、僕は新しい物語を書き始めた。それは、卒業のためではない。評価のためでもない。ただ、届けるため。時を超えて、陽菜の祖父の想いを、時任先生に届けるためだけの物語。

僕は、これまで集めたフラグメントの中から、雨の匂いがするもの、虹の輝きを持つもの、静かな音楽室の空気を感じさせるものだけを選び出した。そして、陽菜の祖父が主人公の物語を紡いだ。彼がどんな想いで『雨上がりのアリア』を作り、どんな言葉を友に贈りたかったのか。僕の創作は、もはや僕一人のものではなかった。陽菜が教えてくれた古い資料、時任先生の語った思い出、そして、あの橙色のフラグメントが放つ温かさ。そのすべてが、僕のペンを導いていた。

数日後、僕は完成した物語を手に、再び時任先生を訪ねた。陽菜も隣にいる。物語を黙って読み進める先生の目から、やがて一筋、涙がこぼれ落ちた。皺の刻まれた頬を、静かに伝っていく。

「……そうか。健さんは、そう思っていてくれたのか」

先生は呟くと、おもむろに立ち上がり、図書館の奥にある、埃をかぶったアップライトピアノの前に座った。そして、おぼつかない、けれど確かな指つきで、『雨上がりのアリア』を弾き始めた。

その音色は、決して完璧ではなかった。時折つっかえ、リズムも揺らいだ。けれど、そこには紛れもない光があった。悲しみの雨を越え、ようやく空に架かった、淡く、優しく、そして力強い、虹の光が。陽菜も、静かに涙を拭っていた。彼女の祖父の想いが、今、確かに旋律となってここに響いているのだ。

僕は、その光景をただ黙って見つめていた。胸の奥から、今まで感じたことのない熱い感情が込み上げてくる。これが、物語を書くということなのか。誰かの忘れられた想いを拾い上げ、繋ぎ、新たな意味を与えて、未来へ届けること。初めて、僕は心の底から「物語を書いてよかった」と思った。

卒業の日。僕は『終着の書架』に、何も書かれていない真っ白な本を奉納した。僕の物語は、もう完成していたからだ。それは本の中ではなく、時任先生と、陽菜と、そして僕自身の心の中に、確かに刻み込まれていた。

空っぽの心で入学した僕が、今はたくさんの誰かの想いを抱えて、学園の門をくぐる。ふと、慣れ親しんだ校舎を振り返った。あの古い時計塔の麓、蔦の絡まる煉瓦の隙間に、新しい光の粒が、静かに生まれるのが見えた気がした。それは、僕がこの学園に残していく、新たな『物語の断片』なのかもしれない。物語は、こうして誰かの心を受け継ぎ、永遠に紡がれていくのだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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