第一章 後悔の残像
水嶋湊(みずしまみなと)の世界は、常にセピア色の静寂に満たされていた。彼が営む路地裏の古物店『時のかけら』に並ぶ品々は、単なる古いガラクタではない。一つひとつに、持ち主だった誰かの「後悔」が、声なき染みのようにこびりついているのだ。湊が素手でそれに触れると、脳裏に一枚の古い写真のような光景が浮かび上がる。音も動きもない、ただひたすらに切ない静止画。それが、彼が生まれつき持つ呪いであり、祝福でもある能力だった。
だから湊は、人と深く関わることを避けて生きてきた。他人の後悔に触れすぎると、自分の感情との境界が曖昧になる。薄い革手袋が、彼と世界の間に引かれた、か細い境界線だった。
その日、市場で仕入れた雑多な品々の中に、それはあった。手のひらに収まるほどの、小さな木製のオルゴール。年月を経て飴色になった木肌は滑らかで、蓋には繊細な桜の彫刻が施されている。ごくありふれた骨董品のはずだった。
何気なく、湊は手袋を外した指でその表面を撫でた。
瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
これまで経験したことのない、圧倒的な鮮明さを持つビジョンが、彼の意識を飲み込んだ。それはもはやセピア色の静止画ではなかった。まるで自分の目で見ているかのように、色彩と光が溢れていたのだ。
――満開の桜が、風に吹かれて薄紅色の吹雪となっている。その並木道に、ひとりの若い女性が俯いて立っていた。手には、今しがた湊が触れたオルゴールが握られている。彼女の表情は見えない。だが、肩の震え、固く握りしめられた拳、その全身から放たれる痛いほどの感情が、奔流となって湊に流れ込んでくる。渡せなかった。伝えられなかった。ただそれだけの、しかしあまりにも深い後悔。その感情の激流に、湊は息を詰まらせた。
「……っ!」
思わずオルゴールから手を離すと、ビジョンは霧散した。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝う。なんだ、今のは。これまで見てきた数多の後悔とは、明らかに質が違った。まるで、持ち主の魂がすぐそばで慟哭しているかのような、生々しい感覚。
湊は、もう一度オルゴールに手を伸ばした。今度は覚悟を決めて、そっと蓋を開ける。カチリ、と小さな音を立てて、澄んだ、それでいてどこか物悲しいメロディが流れ出した。それは、湊が知らない古い恋の歌だった。
この音色の持ち主は、一体どれほどの想いを抱えていたのだろう。湊の心に、これまで感じたことのない強い衝動が芽生えていた。この後悔を、終わらせてあげたい。この魂を、解放してあげなければならない。それは、古物商としての好奇心を超えた、抗いがたい使命感だった。
第二章 彫られたイニシャル
湊は、自らに課した使命を果たすべく、オルゴールの出自を調べ始めた。ルーペを片手に、その小さな筐体を隅々まで検分する。すると、底面に、ナイフの先で彫られたような、拙いイニシャルが見つかった。
『Y.S. to M.K.』
それは、暗号のようであり、恋文のようでもあった。湊は店の奥から古い顧客名簿や地域の商工名鑑を引っ張り出し、何日もかけて「Y.S.」というイニシャルの人物を探し続けた。しかし、手掛かりは杳として知れない。
諦めかけた頃、ふと店の常連である郷土史家の老人の顔が浮かんだ。湊がオルゴールとイニシャルの話を持ちかけると、老人はしばらく腕を組んで唸っていたが、やがてポンと膝を叩いた。
「Y.S.……もしかしたら、結城聡(ゆうきさとし)さんのことかもしれん」
結城聡。半世紀も前にこの町で腕利きの木工職人として知られた人物だったという。彼は若くして亡くなったが、その作品は今も好事家の間で高く評価されているらしい。
湊は、老人から聞いた結城家の住所を訪ねた。古いが手入れの行き届いたその家から出てきたのは、聡の孫だという結城沙耶(ゆうきさや)という女性だった。彼女は、湊が差し出したオルゴールを見ると、驚いたように目を丸くした。
「これ……祖父が作っていたものに、よく似ています」
沙耶の話によれば、聡は若い頃、想いを寄せる女性がいたという。不器用で口下手だった聡は、言葉の代わりに、自らの想いを込めた木工品を贈ろうとしていた。
「祖父の日記に、そんな記述がありました。『M.K.』というイニシャルの女性に、桜の木で作ったオルゴールを渡せなかった、と。それが生涯の心残りだったようです」
M.K.――。宮田小春(みやたこはる)。沙耶が祖父の日記から見つけ出したその名前は、パズルの最後のピースだった。そして、彼女は今も健在で、町の高台にある老人ホームで穏やかに暮らしているという。
すべての点が、線で結ばれた。湊の心は高揚していた。聡の果たせなかった想いを、半世紀の時を超えて自分が届けるのだ。
「僕が、届けます」
湊の言葉に、沙耶は少し戸惑ったような、それでいて優しい眼差しを向けた。
「……ありがとうございます。祖父も、きっと喜びます」
彼女の微笑みは、店に差し込む春の陽光のように、湊の心を温かく照らした。
第三章 鏡合わせの想い
春の柔らかな日差しが降り注ぐ老人ホームの一室で、宮田小春は車椅子に座り、窓の外の桜を静かに眺めていた。湊が息を整え、事情を説明してオルゴールを差し出すと、彼女は皺の刻まれた手でそれを受け取り、懐かしそうに目を細めた。
「まあ……聡さんの。覚えておりますよ、とても不器用で、優しい方でした」
湊は、これで聡の後悔が晴れるのだと、胸を撫で下ろした。しかし、小春の次の言葉は、彼の予想を根底から覆すものだった。
「でも、聡さんからは、もっと素敵なものをいただいたわ。だから、あの方は何も後悔なんてしていないはずよ」
そう言って彼女が見せてくれたのは、古びた桐の小箱。その中には、手のひらに乗るほどの、小さな木彫りの鳥が大切に収められていた。精巧だが、どこか温かみのある、聡らしい作品だった。
「彼はね、この鳥を渡してくれた時、何も言わなかった。でも、その震える手を見たら、全部伝わってきたの。言葉なんて、いらなかったのよ」
小春は幸せそうに微笑んだ。彼女の記憶の中の聡は、決して後悔の中に生きてはいなかった。
湊は混乱した。では、あの満開の桜の下で見た、魂を揺さぶるような鮮烈な後悔のビジョンは、一体誰のものだったというのか。
礼を言ってホームを辞した湊の足取りは重かった。考え込むうちに、不意に強いめまいが彼を襲う。世界が、再びあのビジョンに塗り替えられていく。
――満開の桜。薄紅色の吹雪。
だが、今度は何かが違った。視点が、違うのだ。
俯いている女性が、目の前にいる。その手には、見覚えのあるオルゴール。そして、その女性に向かって、何かを差し出そうとして、ためらっている自分自身の手が見える。固く握りしめられ、微かに震えている、自分の手が。
その瞬間、雷に打たれたように、湊はすべてを理解した。
あの後悔は、結城聡のものではなかった。
あれは、過去の誰かの記憶などではなかったのだ。
あれは、未来の自分の後悔だった。
俯いていた女性の顔が、ゆっくりと持ち上がる。そこにいたのは、結城沙耶の、悲しげに揺れる瞳だった。
湊は、自分の能力の本当の意味を初めて知った。それは時に、過去の後悔を映すだけでなく、回避すべき未来の自分の後悔を、「警告」として見せることがあるのだ。他者との関わりを避け、自分の感情に蓋をして生きてきた自分。このままでは、芽生え始めた沙耶への想いを伝えられず、聡と同じように、いや、聡以上に深い後悔を抱えて生きていくことになる。あのビジョンは、そうなるなという、未来の自分からの悲痛な叫びだったのだ。
第四章 未来へ贈る音色
全身の血が逆流するような衝撃から立ち直った時、湊の心には、恐怖ではなく、不思議なほどの決意が宿っていた。もう、逃げるのはやめだ。後悔のビジョンをただ眺めるだけの傍観者でいるのは、もう終わりにしよう。
彼は踵を返し、結城家へと向かって走り出した。息を切らしながら辿り着いた家の前には、ちょうど外出しようとしていた沙耶がいた。彼女は、湊のただならぬ様子に驚きの表情を浮かべている。
「水嶋さん……? どうかしたんですか」
「結城さん」
湊は、彼女の目をまっすぐに見つめた。言葉を探し、一つひとつ、丁寧に紡いでいく。
「僕には、少し変わった力があるんだ。物に触れると、そこに残された人の想いが見える。後悔が、見えるんだ」
彼は、自分の能力のこと、そしてオルゴールに触れて見たビジョンのことを、包み隠さず話した。それが最初は聡の後悔だと思っていたこと。だが、本当は、未来の自分の後悔だったこと。目の前にいる沙耶に、このオルゴールを渡せずにいる、自分の姿だったことを。
沙耶は、黙って湊の話に耳を傾けていた。その瞳は、戸惑いながらも、彼の言葉を真摯に受け止めようとしていた。
湊は、懐からあのオルゴールを取り出した。
「これは、君のお爺さんの想いが詰まったものかもしれない。でも、今は……違う。これは、僕の想いです」
彼は、震える手でオルゴールを沙耶に差し出した。それは、あのビジョンで見た光景と、まったく同じ構図だった。だが、決定的に違うものが一つだけあった。湊の手は、もう躊躇してはいなかった。
「受け取って、くれますか」
沙耶は、そっとオルゴールを受け取った。彼女の指先が、湊の指に微かに触れる。その瞬間、湊の脳裏に何のビジョンも浮かばなかった。ただ、温かい体温だけが伝わってきた。
彼女は、オルゴールの蓋を静かに開けた。澄んだメロディが、二人の間の沈黙を優しく満たしていく。
「……綺麗な、音」
沙耶は顔を上げ、涙の膜が張った瞳で、湊に微笑みかけた。それは、湊がこれまで見たどんな景色よりも、鮮やかで、美しい光景だった。
あの日から、湊はもう革手袋をしていない。物に触れることを、人の想いに触れることを、彼はもう恐れてはいなかった。後悔のビジョンは、今も時折見える。だが、それはもう彼を苛む呪いではなかった。過去の痛みを知り、未来をより良く生きるための、静かな道しるべとなっていた。
春の光が満ちる店内で、湊は古物たちに宿る無数の声なき声に耳を傾ける。そして、時折窓の外に目をやり、満開の桜並木の下で、沙耶と交わした約束を思い出す。後悔のない物語を、自分自身の言葉で、自分の手で紡いでいこう。
オルゴールの澄んだ音色が、今も彼の心の中で、未来への希望を奏で続けていた。