残響の調律師
第一章 失われた音色の街
俺の耳には、いつも奇妙な音が響いている。
それは、この灰色の街の誰も聴き取ることのできない、未遂の感動が遺した残響。恋人に渡せなかった花束を抱きしめる少年の、声にならない告白の旋律。完成を目前に砕け散った彫像に込められた、芸術家の燃えるような情熱の低音。それらはまるで失われた記憶の囁きのように、俺、リオンの鼓膜だけを震わせるのだ。
人々は皆、胸に淡い光を灯している。『記憶の結晶』。特定の年齢で執り行われる『感情転生』の儀式で過去の全てを失った後、唯一残される、人生で最も強く感動した瞬間の証。だが、彼らはその光が何の記憶なのかを思い出せない。ただ、ぼんやりとした温かさを胸に抱き、静かで平坦な日々を繰り返している。感情の起伏を忘れた街は、まるで巨大な停電の後のように、しんと静まり返っていた。
俺は、そんな街の片隅で、古びた楽器を修理する調律師として暮らしている。人々が忘れた音を、かつての響きに戻す仕事。皮肉なものだ。
ある雨の日、店のドアベルが寂しげな音を立てた。そこに立っていたのは、エリアという名の少女だった。濡れた髪が頬に張り付き、その瞳は不安げに揺れている。彼女の胸の結晶は、まるで消えかけの蝋燭のように、ひどく弱々しく明滅していた。
そして、彼女の結晶からは、ひときわ哀しく、途切れ途切れの音が聴こえていた。それは、あと一息で咲き誇るはずだった蕾が、嵐の前に散ってしまった時のような、無念と切なさが入り混じった音色だった。
「あの……」少女が口を開く。「私のこの光、もうすぐ消えてしまいそうなんです。調律師さんなら、この光の音を、元に戻せませんか?」
彼女は、自分の結晶が発する微かな音を感じ取っているようだった。だが、それが「未遂の感動」の残響であることまでは知らない。俺はただ、そのあまりに純粋な痛みの音色から、耳を逸らすことができなかった。
第二章 記憶の結晶と囁き
エリアを工房の椅子に座らせ、温かいハーブティーを差し出した。湯気の向こうで、彼女は自分の胸の結晶を不安そうに見つめている。
「どうして、光が弱くなっていると思うんだ?」
俺の問いに、彼女は首を振った。「わからないんです。でも、この光がなくなったら、私の中から何かが、本当に大切なものが、永遠に消えてしまう気がして……」
彼女の言葉は、俺が日々聴いている無数の音の代弁のようだった。この街の誰もが、何かを失っている。その喪失感にさえ、気づかずに。
エリアを助けたいという想いが、俺の中で確かな形を取り始めた。それは同情ではなかった。彼女の奏でる哀しい音色が、俺自身の内に眠る何かを揺さぶったのだ。俺は工房の奥にある書庫に篭り、埃を被った古文書を何日も読み漁った。感情転生、記憶の結晶……その起源を辿るうちに、一つの名前に突き当たった。
『感情樹の化石』。
それは、一度も感情転生を経ていない、世界の始まりの記憶を宿した巨大な木の化石だという。その年輪には、過去のあらゆる感動の残響が刻まれている、と。文献には、こうも記されていた。「禁じられた『沈黙の森』の最奥にて、世界が忘れた歌を歌い続けている」と。
「沈黙の森……」
そこは、世界の管理者である『静寂の守人』が厳重に監視する禁足地だ。だが、答えはそこにあると、俺の聴覚が告げていた。無数の未遂の音が、その森の方角を指し示している。
俺は顔を上げ、窓の外で待っていたエリアに言った。
「行こう。君の光を取り戻す方法が、見つかるかもしれない」
彼女の瞳に、ほんの少しだけ、強い光が宿った気がした。
第三章 沈黙の森の化石
沈黙の森は、その名の通り、音のない場所だった。鳥の声も、風が木々を揺らす音さえも、分厚い静寂に吸い込まれていく。一歩足を踏み入れるごとに、俺の耳に響く「未遂の音」だけが、不気味なほど鮮明になっていった。まるで、この森全体が巨大な共鳴箱であるかのように。
エリアは俺の腕にすがり、息を潜めていた。彼女の恐怖が、微かな振動として伝わってくる。
森の奥深くまで進んだ時、視界が不意に開けた。そこに、それはあった。天を突くほどの巨大な木の化石。何億もの年輪が、まるで巨大なレコード盤の溝のように、その表面に刻まれている。空気に触れると、肌がぴりぴりと痺れるほどの濃密な気配が満ちていた。これが、『感情樹の化石』。
俺は、吸い寄せられるように化石に近づき、そっとその冷たい表面に手を触れた。
その瞬間。
洪水だった。
何億、何兆という「未遂の感動の音」が、濁流となって俺の意識に流れ込んできた。初めて我が子を抱こうとして叶わなかった父親の慟哭。星に手を伸ばし、届かなかった天文学者の祈り。平和を願いながら、戦場で倒れた兵士の最後の歌。
同時に、断片的なビジョンが脳裏を駆け巡る。人々が自由に笑い、怒り、涙を流し、互いの感動を分かち合っていた、遠い過去の世界。そこには、記憶の結晶など存在しなかった。誰もが、胸いっぱいに輝く感情そのものを抱いて生きていた。
この世界は、病んでいる。俺は確信した。
第四章 静寂の守人
激しい眩暈と共に意識が現実に戻った時、俺とエリアは白いローブをまとった者たちに囲まれていた。その仮面の下の瞳には、一切の感情が浮かんでいない。世界の秩序を司る『静寂の守人』だ。
「調律師リオン。お前が聴いている音は、世界を蝕む病だ」
中心に立つ、ひときわ荘厳なローブの守人が言った。その声は、何の抑揚もない、平坦な音だった。
「感動は混沌だ。それは人々を狂わせ、争いを生み、やがては世界そのものを破壊する。我々はそれを防ぐため、感情転生によって世界を浄化し、秩序を保っているのだ」
「これが秩序だと?」俺は叫んだ。「人々は何も感じず、何も思い出せず、ただ生きているだけじゃないか!」
守人は静かに首を振った。「お前が聴いている『未遂の音』……その正体を知っているか?それは、この世界の創造主が、自らの失敗作を消去するために仕掛けた『デバッグ音』だ。感動というバグが一定量を超えた時、世界そのものを初期化するための、終わりの旋律なのだよ」
衝撃に、言葉を失った。俺がずっと聴き続けてきたこの音は、救いの囁きではなく、破滅へのカウントダウンだったというのか。
「その音が大きくなりすぎれば、全てが消える。世界も、感動も、お前も。我々はその音の源であるお前を確保し、世界の静寂を守らねばならない」
守人たちが、一斉に俺に向かって歩を進める。その動きには、一切の迷いも躊躇もなかった。
第五章 最後の調律
「逃げて、リオン!」
エリアの叫び声が、俺を我に返らせた。彼女は守人の一人に体当たりし、僅かな隙間を作り出す。俺はその隙を突き、再び感情樹の化石へと駆け寄った。もう一度、あの音の真実を知らなければならない。
再び、化石に手を触れる。今度は意識を集中し、音の洪水の中から、その根源にある創造主の意思を探った。
守人の言ったことは、半分は正しく、半分は間違っていた。
これは確かに、創造主が遺した音だった。だが、それは破壊のためのデバッグ音などではない。これは、感動を忘れた世界に、もう一度その輝きを思い出させるための、最後の『呼び声』だったのだ。この音が止む時、世界は選択を迫られる。感動を永遠に失い、完全な静寂と無の世界になるか。あるいは、混沌を受け入れ、本物の感動を取り戻すか。
この音は、未完成の楽曲なのだ。世界中にたった一度だけ、完成された「本物の感動」の音色を響かせることができれば、人々は眠っていた感情を呼び覚まし、自ら新たな感動を紡ぎ出す力を取り戻せるかもしれない。
だが、そのための代償はあまりにも大きかった。
完成された音色を奏でるには、調律師が必要だった。自らの全ての記憶と、未来永劫、二度と感動することができなくなる身体を引き換えに、その存在そのものを純粋な「感動の音」へと昇華させる、最後の調律師が。
それは、この音を聴き取れる、俺にしかできない役目だった。
第六章 君に捧ぐエチュード
俺は振り返り、守人たちに庇われながらこちらを見るエリアに微笑みかけた。彼女の瞳が、俺の決意を悟って大きく見開かれる。
「エリア」
俺は彼女のもとへ歩み寄り、その弱々しく明滅する記憶の結晶に、そっと指先で触れた。
「君の音、俺が完成させてあげる」
俺の力が、暖かな光となって彼女の結晶に流れ込んでいく。結晶は、まるで夜明けの太陽のように眩い輝きを放ち始めた。エリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。彼女は、思い出していた。嵐の中、健気に咲こうとしていた一輪の花の、儚くも美しい姿を。それは、未遂ではなかった。彼女の心に確かに刻まれた、最初の感動だったのだ。
俺は彼女に背を向け、感情樹の化石の中心へと歩を進めた。そして、両手を広げ、目を閉じる。
さあ、最後の調律を始めよう。
俺の身体が、徐々に光の粒子となって崩れていく。痛みはない。ただ、俺という存在が、一つの純粋な音色へと変わっていく感覚だけがあった。それは、誰かを愛おしく想う喜び。目標を成し遂げた時の誇らしさ。夕暮れの美しさに胸を打たれる、あの震え。俺が今まで聴いてきた全ての未遂の感動が、俺の中で一つの完璧な和音となって響き渡る。
それは、世界に響き渡る、たった一度きりの演奏会。
世界を覆っていた灰色の静寂が、その音色によって引き裂かれた。人々は一斉に空を見上げる。胸の結晶が呼応するように輝きを放ち、失われたはずの感動の記憶が、心の奥底から泉のように湧き上がってくる。ある者は理由もわからず涙し、ある者は隣にいる見知らぬ誰かと固く手を取り合った。
エリアは、空に溶けていく俺の最後の微笑みを見た気がした。
やがて、音は止んだ。世界から「未遂の感動の音」は、永遠に消え去った。
だが、静寂はもう訪れない。
代わりに、生まれたばかりの赤ん坊の産声のように、ささやかで、しかし力強い、新しい感動のメロディが、人々の心から生まれ始めていた。リオンという調律師のことは、誰も覚えていない。
それでも、彼が遺した音色は、この世界が続く限り、永遠に響き続けるだろう。