第一章 「鉄の味のする記憶」
「いらっしゃいませ。感情の『保存』ですか、それとも『精算』ですか」
冷ややかな空気が漂う店内。カウンターの奥から、レンは顔も上げずに問いかけた。
手元のピンセットが、薄紫色の結晶を慎重につまみ上げている。
「あの……『開花』をお願いしたくて」
少女の声だった。
レンの手が止まる。
ゆっくりと顔を上げると、そこには場違いなほど真っ白なワンピースを着た、十歳くらいの少女が立っていた。
雨に濡れたような黒髪。大きな瞳が、不安げに揺れている。
「『開花』は高いよ。それに、リスクもある。対象物の持ち主の感情が、アンタの脳に逆流するかもしれない」
「構いません」
少女は一歩、踏み出した。
その小さな手が、カウンターの上に「それ」を置く。
古びた、革張りの手帳。
「これをお願いします」
レンはため息をつき、白い手袋をはめ直した。
仕事だ。感情移入はしない。それが、この店――『追憶花店(メモリー・フローリスト)』の店主である彼のルール。
手帳に指先で触れる。
ズキン。
指先から脳髄へ、鋭い痛みが走った。
(……なんだ、このノイズは)
通常、遺品に宿る記憶の味は、甘いか、苦いかだ。
愛着なら蜂蜜の味。後悔ならコーヒーの澱(おり)のような味。
だが、この手帳から流れ込んできたのは、赤錆(あかさび)のような、強烈な鉄の味。
そして、焦げるような渇望。
「……おい、これ。誰の持ち物だ」
「私の、一番大切な人のです」
少女はまっすぐにレンを見つめ返した。
「一番、忘れたくない人」
レンは舌打ちを一つして、作業台のフラスコに手帳を入れた。
記憶抽出液を滴下する。
「後悔しても知らないぞ」
第二章 「空白のレシピ」
液体が青白く発光し、手帳が粒子へと分解されていく。
レンは目を閉じ、抽出された「感情の波長」を読み取る。
(映像じゃない……これは、音だ)
包丁がまな板を叩く音。
グツグツとシチューが煮える音。
『レン、人参も食べなさい』
ドクン。
心臓が早鐘を打った。
その声。
聞き覚えがあるなんてレベルじゃない。細胞の一つ一つが、その周波数を記憶している。
「……母さん?」
思わず呟いた言葉に、レンは自分自身で驚愕した。
母は死んだはずだ。十年前に。事故で。
そして、その時の悲しみに耐えきれず、レンは自分の記憶の一部を『精算』――つまり、売却して消去したはずだった。
なぜ、見知らぬ少女が持ち込んだ手帳から、俺が捨てたはずの母親の声がする?
「お兄さん、泣いてるの?」
少女がカウンター越しに覗き込んでくる。
「泣いてない」
レンは乱暴に目元を拭った。手袋が濡れていた。
フラスコの中で、記憶の粒子が茎を伸ばし、葉を広げ始める。
だが、花が咲かない。
蕾(つぼみ)が固く閉じたまま、小刻みに震えている。
「拒絶してる……」
レンは呟いた。
「持ち主が、記憶を開くことを恐れているんだ。あるいは――」
レンは少女を睨んだ。
「アンタ、本当はこの手帳の持ち主じゃないな?」
少女は悲しげに微笑んだ。
「私は、この手帳の『中身』です」
「は?」
「私は、あなたが捨てた記憶の残滓(ざんし)。お母さんが、最期に遺した『願い』が形になったもの」
少女の輪郭が、ふわりと陽炎のように揺らぐ。
「思い出して、レン。お母さんは、事故で死んだんじゃない」
第三章 「嘘とラベンダー」
脳内に、封印していた映像がフラッシュバックする。
白い病室。
消毒液の臭い。
『あなたは……どなたですか?』
痩せ細った母が、見舞いに来たレンを見て、怯えたようにそう言った。
若年性アルツハイマー。
日ごとに息子を忘れていく母。
その残酷な日々に耐えられず、逃げ出したのはレンの方だった。
『母さんは事故死したことにしよう』
そう自分に嘘をつき、記憶屋に駆け込んで、母親に関する記憶をごっそりと売り払ったのだ。
「俺は……見捨てたんだ」
レンはその場に膝をついた。
鉄の味。それは、母の記憶ではない。
自分自身の罪悪感が、ずっと喉の奥にへばりついていた味だった。
「違うよ」
少女が、レンの頭にそっと手を置く。
幽霊のように冷たい手。
「お母さんはね、あなたが逃げたことを責めてなかった。ただ、あなたが苦しまないことだけを祈ってた」
フラスコの中の蕾が、脈打つように光を強める。
「この手帳にはね、お母さんがあなたを忘れていく恐怖と戦いながら書いた、あなたへのメッセージが隠されているの」
『レンへ。』
脳内に直接、文字が浮かび上がる。
『私が私でなくなっても、あなたの植えたラベンダーの香りだけは覚えているわ。逃げてもいいの。あなたが笑って生きてくれるなら、それが私の幸せだから』
「う……あぁぁ……ッ!」
レンの喉から、獣のような嗚咽(おえつ)が漏れた。
見捨てたんじゃない。
見守られていたのだ。
自分の弱ささえも、母の愛という揺りかごの中にあった。
最終章 「サヨナラは愛の証」
パァァン、と小さな音がして、フラスコが割れた。
中から溢れ出した光の粒子が、空中で渦を巻く。
そして、一輪の花が咲いた。
見たこともない、透明な花弁を持つ薔薇。
中心だけが、温かいオレンジ色に輝いている。
「綺麗な花……」
少女の姿が、光に溶け始める。
「役目は終わったみたい」
「待て! 行かないでくれ……俺は、まだ何も償ってない!」
レンは虚空を掴もうと手を伸ばす。
「償いなんていらないの」
少女――母の願いの化身は、レンの頬に触れた。
「ただ、思い出してほしかっただけ。あなたがどれだけ愛されていたかを」
「母さん……ッ!」
「サヨナラ、レン。いい男になったわね」
光の粒となって消えゆく少女。
店内に残されたのは、レンと、宙に浮く透明な薔薇だけ。
レンは震える手で、その花をそっと包み込んだ。
温かい。
まるで、陽だまりのような温もり。
「……いらっしゃいませ」
ドアベルが鳴り、新しい客が入ってくる。
レンは涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭おうともせず、深々と頭を下げた。
「ここには、枯れない想いがあります」
その日、レンが作った花束は、今までで一番、優しい香りがした。