第一章 雨音と鉄の匂い
路地裏の湿った空気に、アイロンのスチームが吐き出される音が混じる。
シューッ、という白い音。
その直後に立ち上る、熱された布と古いインクの匂い。
俺、玄七(げんしち)は、作業台の上の「それ」を睨みつけていた。
「……ひどい油汚れだ。こいつは、相当根が深いぞ」
独り言が、埃っぽい店内に吸い込まれる。
俺の店、『忘却堂』はクリーニング店だ。
ただし、扱うのはワイシャツやコートじゃない。
人の頭の中にこびりついた、「記憶」という名の布切れだ。
カランコロン。
錆びついたドアベルが鳴った。
雨の音と一緒に、冷たい風が吹き込んでくる。
「いらっしゃい」
顔を上げずに声をかける。
客の顔を見る必要はない。
どうせ誰もが、縋(すが)るような目をして入ってくるのだから。
「あの……ここなら、消せると聞いて」
濡れた子犬のような声だった。
顔を上げると、まだ二十代半ばとおぼしき女性が立っている。
ビニール傘から滴る雨水が、床に小さな水たまりを作っていた。
「モノによるな。思い出ってのは、生地みたいなもんだ。無理に汚れを落とそうとすれば、生地そのものが破れちまうこともある」
俺は無愛想に言い放ち、作業台の上のルーペを磨いた。
「それでも構いません」
彼女は濡れた鞄から、大切そうに、けれど恐る恐る、一枚の薄いハンカチのようなものを取り出した。
それは実体を持たない、半透明の記憶の断片。
しかし、俺の目にははっきりと見えている。
中央に、どす黒いシミが広がっていた。
まるで、こぼしたコーヒーが時間と共に酸化し、布の繊維を侵食してしまったかのような、醜いシミだ。
「母の記憶なんです」
彼女の声が震えた。
「母が死ぬ間際、私に向けた最後の表情……。それが、どうしても許せなくて。辛くて……消してしまいたいんです」
俺はその記憶を受け取り、作業用のライトにかざした。
繊維の奥まで食い込んだ、後悔と憎悪の色。
「分かった。預かろう。ただし、代金は高いぞ」
「いくらでも払います」
「金じゃない。あんたが一番大切にしている『幸福な記憶』をひとつ、もらう」
彼女は一瞬息を呑んだが、すぐに小さく頷いた。
第二章 汚れた笑顔の正体
客の名は、沙希(さき)といった。
作業場に籠(こも)り、俺は特殊な溶液──『忘却水』を一滴、スポイトで吸い上げる。
記憶のクリーニングは、外科手術に似ている。
ピンセットで記憶の繊維を一本一本ほぐし、汚れの粒子を吸着させていく。
沙希から預かった記憶は、病院のベッドの風景だった。
痩せ細った母親。
酸素マスク。
そして、沙希を見つめる目。
その目には、確かに強烈な「拒絶」のような色が滲(にじ)んでいた。
これがシミの正体だ。
『あんたのせいで、私の人生は……』
そんな怨嗟の声が聞こえてきそうなほど、記憶の布は重く、冷たい。
「ふん、ありがちな話だ」
俺は悪態をつきながら、さらに深く、記憶の層へと潜っていく。
シミ抜き職人の鉄則。
それは、表面の汚れに惑わされないこと。
汚れの下には、必ずオリジナルの生地がある。
俺はルーペの倍率を上げた。
視界が歪み、色の粒子が拡大される。
黒い憎悪の粒子の隙間に、何かが煌めいているのが見えた。
「……なんだ、これは?」
それは、微かな「青」だった。
悲しみよりも深く、海のように透き通った青。
俺は手を止めた。
ただの憎しみの記憶なら、黒一色のはずだ。
なぜ、こんな色が隠されている?
俺は慎重に、黒い粒子だけを『分解針』で突いた。
パリッ、と乾いた音がして、表面の黒い殻に亀裂が入る。
そこから溢れ出したのは、強烈な光だった。
眩しさに目を細める。
作業場の埃が、その光を受けて金粉のように舞い上がった。
「……そうか。そういうことだったのか」
俺は思わず、天井を仰いだ。
シミに見えていたものは、汚れじゃなかった。
それは、何層にも塗り重ねられた「嘘」だったのだ。
母親は、沙希を憎んでいたんじゃない。
『私がいなくなっても、この子が一人で生きていけるように』
その強烈な願いが、自らを悪役にするための「演技」という名の厚い塗料となり、記憶を黒く塗りつぶしていたのだ。
だが、最期の瞬間。
母親の心は耐えきれず、ほんの少しだけひび割れた。
そのひび割れから漏れ出していたのが、あの青い光。
「不器用なもんだな、人間ってのは」
俺は熱くなった目頭を、ごわごわの手甲で乱暴に拭った。
第三章 涙で洗う
翌日、沙希が店にやってきた。
雨は上がり、夕焼けが店の床を長く染めている。
「できましたか……?」
彼女は不安そうに、俺の手元を覗き込む。
俺はカウンターの上に、クリーニングを終えた記憶を広げた。
「……え?」
沙希が絶句する。
記憶は消えていなかった。
むしろ、鮮やかになっていた。
どす黒いシミだと思われていた部分は綺麗に洗い流され、そこには全く別の映像が浮かび上がっていた。
ベッドの上の母親。
その表情は、苦悶でも憎悪でもない。
くしゃくしゃに顔を歪め、涙を流しながらも、愛おしそうに沙希へと手を伸ばしている姿だった。
「どうして……? 母は、私を睨んで……」
「あんたが見ていたのは、あんた自身の『罪悪感』というフィルターを通した映像だ」
俺は淡々と説明する。
「母親は最期まで、あんたを突き放そうとしていた。自分が死んだ後、あんたが後悔しないように。自分を嫌いになれば、死別の悲しみが減ると思ってな」
沙希の瞳が大きく揺れる。
「だが、この記憶の繊維には、言葉にできなかった『愛してる』が、これでもかと織り込まれていたよ。俺はただ、表面にこびりついた強がりの垢を落としただけだ」
沙希の手が、記憶の布に触れる。
その瞬間、彼女の目から大粒の涙が溢れ出した。
「お母さん……っ!」
その場に崩れ落ち、声を上げて泣く沙希。
夕陽が、その涙を宝石のように照らしていた。
俺は黙って、店の奥へ引っ込んだ。
こういう時、職人は邪魔者でしかない。
最終章 支払い期限
沙希が落ち着くのを待って、俺はカウンターに戻った。
彼女の顔は、来た時とは別人のように晴れやかだった。
「ありがとうございました。本当に……ありがとうございました」
「礼には及ばん。仕事だからな」
俺はぶっきらぼうに答える。
「さて、支払いの時間だ。約束通り、あんたの『一番幸福な記憶』をもらう」
沙希は頷き、目を閉じた。
幼い頃、母親と手を繋いで歩いた桜並木の記憶を、彼女は差し出そうとした。
俺はその手を、パシッと払った。
「……結構だ」
「え?」
「今回は、特別キャンペーン中なんでね。代金はサービスだ」
「でも……」
「とっとと行け。次の客が待ってるんだ」
俺は彼女の背中を押し、店から追い出した。
カランコロン。
ベルの音が遠ざかり、沙希の姿が人混みに消えていく。
「……やれやれ」
俺は店先に掲げてある『本日休業』の札を裏返し、鍵を閉めた。
客なんて、最初から来る予定はない。
作業台に戻り、自分のポケットから一枚の古びた写真を取り出す。
それは、若い頃の俺と、小さな女の子が写っている写真だ。
「……沙希。立派になったな」
写真の中の女の子は、さっきの客と同じ泣きぼくろがある。
俺は、彼女の父親だ。
だが、彼女の記憶の中に、俺はいない。
二十年前。
借金取りから家族を守るため、俺は自らの存在を彼女の記憶から消し、姿を消した。
俺の記憶を消す作業をしたのも、この店だった。
代償として、俺は二度と彼女に名乗れない。
「幸福な記憶をもらう、なんてな」
俺は苦笑する。
もし彼女から『幸福な記憶』を奪ってしまえば、その中にいるかもしれない「優しい父親(おれ)」の痕跡まで消えてしまうかもしれない。
それだけは、避けたかった。
「……これでいい」
俺は熱くなったアイロンを、自分のこめかみに近づける真似をした。
熱気が、老いた肌を刺す。
俺の手元には、彼女が置いていった涙のぬくもりが、まだ微かに残っていた。
それが、俺にとっての最高の報酬だ。
外ではまた、雨が降り始めていた。
静かな雨音が、俺の孤独を優しく包み込んでいった。