追憶時計と未来の音色

追憶時計と未来の音色

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第一章 止まった時間

柏木湊の世界は、油の微かな匂いと、金属が立てる硬質な音だけで構成されていた。街角の古いビルの二階に構えた「柏木時計工房」。その主である彼は、ルーペを目に嵌め、ピンセットの先で、呼吸すら忘れさせるほど微細な歯車を操る。寸分の狂いもなく時を刻む機械式の腕時計を前にした時だけ、湊の心は凪いだ。顧客たちは彼を「神の手を持つ」と称賛したが、湊自身にとって、それは単なる作業に過ぎなかった。

彼の本当の時間は、五年前の雨の日に止まったままだった。最愛の妻、沙希を突然の事故で喪って以来、湊の心は時を刻むことをやめてしまった。笑い声も、温もりも、鮮やかな色彩も、すべてが過去の遺物となった。

だが、彼には秘密があった。夜、工房の固いシャッターを下ろし、すべての明かりを消した後、彼は奥の私室の鍵を開ける。埃一つないその部屋の中央、ビロードが敷かれた小箱に収められているのは、彼が己の技術の粋を集めて作り上げた銀製の懐中時計。それはただの時計ではない。『追憶時計』と名付けた、彼だけのタイムマシンだった。

竜頭を三度、ゆっくりと巻く。カチ、カチ、カチ……。秒針が逆回りに動き始めると、部屋の空気が揺らめき、見慣れた壁が、思い出の風景へと溶けていく。目の前に現れるのは、五年前の春の公園。桜の花びらが舞う中、満面の笑みでこちらに手を振る沙希の姿。

「湊、遅いよ!」

その声、その仕草、頬を撫でる風の感触まで、すべてが完璧に再現される。これは時間を遡るのではない。記憶の断片を、五感情報として再構築する装置だ。湊は、この偽りの過去に浸ることでしか、息をすることができなかった。沙希の幻影に触れようと手を伸ばすが、指は虚しく空を切る。何度繰り返しても、彼女に触れることは叶わない。それが、この儀式の唯一の罰だった。

そんなある日の午後、工房のドアベルが、乾いた音を立てた。入ってきたのは、ランドセルを背負った小さな少女だった。

「あの、これ、直せますか?」

少女は、両手で大切そうに抱えた木製のオルゴールをカウンターに置いた。ぜんまいが壊れているのか、蓋を開けても音は鳴らない。

「お母さんの、大事な音なんです。お願いします」

湊は、子供の相手は不得手だった。ましてや、専門外のオルゴールだ。「うちは時計専門でね」と、無愛想に断ろうとした時、少女が潤んだ瞳でじっと湊を見つめた。そのひたむきな眼差しに、彼は不意に言葉を失った。そして、オルゴールの蓋に彫られた一輪のフリージアの花に気づく。沙希が、一番好きだった花だった。

「……預かろう」

湊は、自分でも予期せぬ言葉を口にしていた。少女は「陽葵(ひまり)です!」と花が咲くように笑い、深々と頭を下げて帰っていった。工房には、少女の快活な声の残響と、沈黙したままのオルゴールが残された。

第二章 響かない旋律

オルゴールの修理は、湊の想像以上に難航した。時計とは異なる構造の繊細なメカニズムは、彼のプライドを静かに刺激した。彼は連日、閉店後の工房で、その小さな箱と向き合った。櫛歯の一本一本を磨き、傷んだシリンダーのピンを修復していく。その作業は、止まっていたはずの彼の時間に、微かなリズムを与え始めた。

それからというもの、陽葵は毎日のように工房に顔を出すようになった。「まだ直らない?」「おじさん、すごい集中力だね」「お腹すかないの?」と、屈託なく話しかけてくる。湊ははじめこそ煩わしく感じていたが、いつしかその存在が、静寂に満ちた工房の空気の一部になっていることに気づいていた。陽葵が持ってくる学校での出来事や、友達の話は、湊が忘れて久しい世界の響きを持っていた。

「このオルゴールの曲ね、『未来へ』っていうんだよ。お母さんが大好きだったの」

陽葵がそう言った時、湊の手が止まった。それは、沙希が鼻歌でよく口ずさんでいた曲だった。偶然だろう、と彼は自分に言い聞かせた。だが、胸の奥で、錆びついていた何かが、軋むような音を立てた。

陽葵との交流が、湊の日常に小さな変化をもたらしても、夜の儀式は続いた。むしろ、陽葵と過ごす時間が増えるほど、湊は沙希の幻影を強く求めるようになった。昼間のささやかな温もりは、夜になると、埋めがたい喪失感をより一層際立たせるだけだった。彼は追憶時計の中に逃げ込み、沙希のいない現実から目を背けた。過去と現実の狭間で、彼の心は振り子のように揺れ動いていた。

ある時、陽葵がぽつりと言った。

「この音が聞こえなくなったら、お母さんのことを忘れちゃいそうで、怖いの」

その言葉は、鋭い刃のように湊の胸を貫いた。自分も同じだ。追憶時計がなければ、沙希の記憶は薄れ、輪郭を失っていく。その恐怖が、彼を過去に縛り付けているのだ。湊は、目の前の小さな少女に、自分自身の弱く脆い心を映し見ていた。

第三章 砕かれた追憶

オルゴールの修理が、ようやく終わりの見えた夜だった。湊は安堵のため息をつき、いつものように私室へと向かった。今日こそ、沙希の笑顔を心ゆくまで見よう。そう思い、追憶時計の竜頭を巻いた。カチ、カチ……。

だが、三度目の音が響かない。代わりに、内部から「ガリッ」という嫌な感触が伝わってきた。時計は沈黙し、秒針はピクリとも動かない。何度試しても結果は同じだった。目の前の空間は、冷たい部屋の壁のまま、揺らぐ気配すらない。

「嘘だ……」

湊の全身から血の気が引いた。彼は震える手で時計を分解し、ルーペで内部を覗き込む。原因はすぐに分かった。記憶情報を制御する中心の歯車が、経年劣化で摩耗し、欠けてしまっていたのだ。それは彼が独自に開発した特殊合金でできており、代替品は存在しない。つまり、修理は不可能だった。

過去への唯一の扉が、音を立てて永遠に閉ざされた。

湊は工房の床に崩れ落ちた。絶望が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。沙希を失い、今また、彼女の思い出さえも失ってしまった。何のために生きてきたのか。これから、何のために生きていけばいいのか。暗闇の中で、彼は膝を抱え、ただ時間だけが過ぎていくのを耐えていた。

翌日、何も知らない陽葵が、約束通り工房にやってきた。生気のない湊の顔を見て、陽葵は心配そうに眉をひそめる。

「おじさん、どうしたの? 顔、真っ青だよ」

湊は何も答えられなかった。その時、陽葵は何かを決心したように鞄から一枚の写真を取り出した。

「お母さんの写真。おじさんにも見てほしくて」

写真には、柔らかな笑顔の女性が写っていた。知らない顔だ。だが、どこか懐かしい温もりを感じさせる笑顔だった。湊の視線は、その女性の腕に釘付けになった。そこには、彼が沙希の二十五歳の誕生日にプレゼントした、小さな銀のブレスレットが巻かれていたのだ。なぜ、この女性がこれを。

混乱する湊の背後から、穏やかな男性の声がした。

「陽葵、あまり柏木さんを困らせるんじゃない」

振り返ると、人の良さそうな男性が立っていた。陽葵の父親だった。彼は湊の表情と、写真に落ちた彼の視線を見て、すべてを察したように静かに語り始めた。

「驚かせてしまって申し訳ない。妻は……君の奥様、沙希さんから、心臓をいただいたんです」

湊の思考が停止した。

「妻は重い心臓病で、移植だけが助かる道でした。そして、沙希さんがドナー登録をされていたおかげで……彼女は、沙希さんの心臓で、五年という時間を得ることができた。陽葵が生まれたのは、その手術の後です。この子が今、ここにいるのは……紛れもなく、君の奥さんのおかげなんだ」

衝撃が、湊の全身を貫いた。沙希は、ただ死んだのではなかった。彼女の命の一部は、見知らぬ誰かの中で生き続け、そして、陽葵という新しい命をこの世に送り出していた。自分が追憶時計の中に閉じこもり、過去の幻影を追いかけていた、まさにその時間の中で。沙希の命は、未来へと、確かに繋がっていたのだ。

第四章 未来を刻む音色

湊の頬を、熱い雫が伝った。五年ぶりに流す、温かい涙だった。それはもう、喪失の悲しみの涙ではなかった。絶望の底で知った、あまりにも眩しい真実。沙希が遺してくれたものが、こんなにも温かく、力強い形で存在していたことへの、感謝と感動の涙だった。

彼は、陽葵の父親に深々と頭を下げた。言葉にはならなかったが、すべてが伝わったはずだった。

工房に戻った湊は、机の引き出しの奥深くに、動かなくなった追憶時計をそっとしまった。もう、これに頼る必要はない。過去は消え去るものではなく、未来の中に息づいているのだと、彼は知ったからだ。

数日後。春の柔らかな日差しが差し込む工房で、湊は陽葵に修理を終えたオルゴールを手渡した。陽葵がおそるおそる蓋を開けると、澄み切った旋律が、工房の隅々まで満たしていった。

『未来へ』。

その音色は、もう湊にとって、ただの懐かしい曲ではなかった。沙希の想い、陽葵の母の感謝、そして陽葵自身の生命力。いくつもの心が重なり合って奏でる、希望の調べに聞こえた。

「これは、君のお母さんの音だ」湊は、陽葵の目を見て、穏やかに言った。「そして、君のお母さんを生かしてくれた人の、命の音でもある。だから、これは君が未来に持っていく音なんだよ」

陽葵は、こくりと頷いた。幼いながらも、その言葉の本当の意味を、心で理解しているようだった。彼女はオルゴールを胸に抱きしめ、満面の笑みで「ありがとう、時計のおじさん!」と言った。

少女が帰った後、湊は工房の窓を大きく開け放った。外からは、街の喧騒と、生ぬるい春の風が流れ込んでくる。それは、彼が五年もの間、自ら遮断してきた世界の音と匂いだった。

止まっていた彼の時間が、再び動き出す。沙希が繋いでくれた未来を、自分もまた、しっかりと生きていこう。湊の顔に、微かだが、確かな微笑みが浮かんでいた。工房の壁に掛けられた振り子時計が、コチ、コチ、と正確に、そして力強く、未来へと時を刻み始めていた。

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