君がいた光のソナタ

君がいた光のソナタ

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第一章 忘れられた旋律

僕、水島湊の世界は、いつもファインダーという四角い窓を通して切り取られていた。写真部に所属しているが、僕のレンズが捉えるのは、生命の気配が希薄なものばかりだ。夕暮れのグラウンドに伸びる長い影、雨に濡れた紫陽花の青、誰もいない廊下に差し込む光の筋。人を撮るのが、どうしようもなく怖かった。シャッターを切るという行為が、相手の魂の一部を奪ってしまうような、不遜な気がしてならなかったからだ。

僕たちの通う海沿いの高校には、一つの古びた噂があった。取り壊しを待つばかりの旧音楽室。その部屋から、満月の夜にだけピアノの音が聞こえてくる。そして、その旋律を聴いてしまった者は、自分にとって一番大切な記憶を一つ、失ってしまうのだと。馬鹿げた怪談だ。僕はそう思っていた。葉月陽菜に出会うまでは。

陽菜は、僕とは正反対の人間だった。太陽の光を一身に集めたような笑顔で、クラスの中心にいる。誰にでも分け隔てなく接する彼女は、僕のような日陰の存在にも、時折「水島くん、この本面白いよ」と声をかけてくれた。その屈託のなさが眩しくて、僕はいつもまともに顔を見れなかった。

ある雨上がりの放課後だった。湿った土の匂いが立ち込める渡り廊下で、僕は陽菜に一冊の文庫本を貸した。僕が唯一、心を許せる作家の本だ。

「ありがとう。すぐ読んで返すね」

そう言って笑った彼女の横顔を、僕は思わず目で追ってしまった。その視線の先、夕陽に赤く染まる旧校舎の奥へ、陽菜が吸い込まれていくのを見た。まるで何かに導かれるように、旧音楽室の軋む扉の向こうへと消えていったのだ。

その夜、僕は自室の窓から、噂を確かめるように旧校舎を見つめていた。満月が、墨を流したような夜空に白く浮かんでいる。午前二時を回った頃だった。幻聴かと思った。遠くから、途切れ途切れに、悲しくも美しいピアノの旋律が聞こえてきたのだ。それは、僕の心の柔い部分をそっと撫でるような、切ない音色だった。

翌日、僕は恐る恐る陽菜に尋ねた。

「あの、昨日貸した本、どうだった?」

陽菜は一瞬きょとんとして、それから困ったように眉を下げた。

「え? ごめん、水島くん。私、何か借りたっけ?」

彼女の瞳は、嘘をついているようには見えなかった。ただ、純粋な困惑だけが浮かんでいた。僕の背筋を、冷たい何かが走り抜ける。陽菜は、僕から本を借りたという、ささやかで、しかし僕にとっては特別な記憶を、本当に失ってしまっていた。あのピアノの旋律と共に。

第二章 偽りのゴーストノート

陽菜は、時折、小さな記憶を失くすようになった。友人との些細な約束、昨日観たテレビドラマの内容、小テストの範囲。その度に彼女は「ごめん、うっかりしてた」「最近、物忘れがひどくて」と、太陽のような笑顔でごまかしていた。だが、その笑顔の裏側に、一瞬だけよぎる深い翳りを、僕は見逃さなかった。

僕は、まるで呪いに取り憑かれたように、陽菜のことばかり考えるようになった。あのピアノの正体は何なのか。彼女は、なぜ大切な記憶を失い続けなければならないのか。人を避けてきた僕が、初めて他人の内側に、強く踏み込みたいと願っていた。彼女を守りたい。その衝動は、僕を突き動かすのに十分だった。

写真部の部室は、学校のあらゆる記録のアーカイブでもあった。僕は創立以来のアルバムや、古い学内新聞を片っ端からめくった。旧音楽室は、五十年前の火事で一部が焼損し、それ以来使われていないこと。そこに置かれたピアノは、ドイツ製の年代物で、かつては名の知れたピアニストが寄贈したものだということ。だが、肝心の「噂」に関する記述はどこにもなかった。

放課後の校舎を徘徊し、陽菜の影を追う日々が続いた。彼女は週に二、三度、人気がなくなるのを見計らっては、旧音楽室へ向かっているようだった。あの日と同じように、何かに引き寄せられるみたいに。

ある日の夕暮れ。僕はついに、旧音楽室の前で彼女を待ち伏せた。

「葉月さん」

僕の声に、彼女の肩が小さく跳ねる。振り向いた顔には、いつもの明るさはない。

「君は、何を隠してるんだ? あのピアノの噂も、君が何か関係してるんじゃないのか」

自分でも驚くほど、強い口調だった。陽菜は唇を固く結び、僕から視線をそらした。アスファルトに落ちた彼女の影が、夕陽を浴びて長く、頼りなげに揺れている。

「……水島くんには、関係ないよ」

その拒絶の言葉は、氷の刃のように冷たかった。だが、彼女の震える声が、それが本心ではないと告げていた。関係ないわけがない。僕の心は、もうとっくに彼女の痛みと共鳴してしまっていたのだから。

第三章 君のためのレクイエム

決心したのは、次の満月の夜だった。湿った夜気が肌を撫でる中、僕は懐中電灯を片手に、旧音楽室の前に立っていた。錆びたドアノブに手をかけると、驚くほど静かに扉が開いた。

部屋の中は、月の光が埃っぽい空気を照らし、幻想的なまでに静まり返っていた。そして、その中央に置かれたグランドピアノの前に、陽菜が座っていた。彼女の白い指が鍵盤の上を滑る。あの日、僕が聞いた旋律だ。忘れたはずの記憶を呼び覚ますような、哀切に満ちたメロディ。それは誰かのための鎮魂歌(レクイエム)のようだった。

僕の立てた微かな物音に、彼女の指が止まる。ゆっくりと振り返った陽菜の瞳は、涙で濡れていた。

「……来ちゃったんだ」

諦めたような、それでいてどこか安堵したような声だった。彼女は隣の椅子を指し示す。僕は吸い寄せられるように、彼女の隣に腰を下ろした。

「あの噂ね、私が流したの」

陽菜は、ぽつりぽつりと語り始めた。それは、僕の想像を遥かに超える、残酷で、悲しい真実だった。

「私ね、病気なんだ。少しずつ、記憶が消えていくの。昨日のことも、一週間前のことも、まるで薄紙を一枚ずつ剥がされていくみたいに、曖昧になって、最後には何もなくなっちゃう」

進行性の記憶障害。医師からそう告げられた時、彼女の世界から一切の音が消えたのだという。

「怖かった。大切な思い出が、私のせいだけで消えていくのが。だから、物語が必要だったの。『旧音楽室のピアノの呪い』っていう物語が。私のせいじゃない、ピアノのせいで記憶がなくなるんだって……そうしないと、心が壊れてしまいそうだったから」

彼女が弾いていた曲は、失われゆく記憶の断片だった。友達と笑い合った日の感情、家族と過ごした温かい時間、美しいと感じた夕焼けの色。それらを忘れてしまう前に、必死で音に変換し、このピアノに記録していたのだ。誰にも知られず、たった一人で。

「だから、水島くんも、私のことなんて忘れていいよ」

陽菜は、無理に微笑んでみせた。

「どうせ私も、いつか水島くんのことや、本を貸してくれた日のことも、全部忘れちゃうんだから」

その言葉が、僕の胸を鋭く抉った。忘れられることの恐怖。忘れてしまうことの絶望。人を撮ることを避けてきた僕の心に、彼女の痛みが奔流のように流れ込んでくる。ファインダー越しに世界を切り取るだけで、何一つ関わろうとしなかった自分自身が、ひどくちっぽけで、無力に思えた。

第四章 ファインダー越しの光

部室に戻った僕は、暗闇の中で一人、カメラを握りしめていた。陽菜の言葉が、頭の中で何度も反響する。「忘れる前に、音で記録している」。その時、僕の中で何かが弾けた。無力なんかじゃない。僕にも、できることがある。

翌日、僕は陽菜を旧音楽室に呼び出した。

「葉月さん。俺が、君を撮る」

戸惑う彼女に、僕はカメラを構えた。

「君が忘れてしまうなら、俺が全部覚えておく。君が音で記憶を残すなら、俺は光で記憶を残す。この写真を見れば、きっと何度でも思い出せる。君がいた証を、俺が永遠に残すから」

僕のファインダーが、初めて真っ直ぐに人を捉えた。涙をいっぱいに溜めて、それでも懸命に微笑もうとする陽菜の顔。僕は、シャッターを切った。カシャリ、という乾いた音が、二人の間に響く。それは、僕が新しい世界に生まれた、産声のようだった。

それから僕たちの、奇妙な共同作業が始まった。陽菜が失われゆく記憶をピアノで奏で、僕がその時々の彼女の表情を写真に収める。笑った顔、困った顔、ピアノを弾く真剣な横顔、そして、時折見せる、記憶の彼方に沈んでしまいそうな、儚い瞳。ファインダー越しの彼女は、僕が撮ってきたどんな風景よりも鮮やかで、愛おしかった。人を撮る恐怖は、もうどこにもなかった。彼女の「今」をこの一枚に焼き付けたいという、切実な願いだけがそこにあった。

やがて、卒業の日が訪れた。陽菜の病状は、緩やかに、しかし確実に進行していた。僕の名前を、時々思い出せないことがあった。

卒業式の後、僕は一冊のアルバムを彼女に手渡した。手作りの、ささやかな写真集。タイトルは『君がいた光のソナタ』。

陽菜は、震える指でゆっくりとページをめくっていく。写真を見ても、それがいつの記憶なのか、はっきりとは分からないようだった。それでも彼女は、一枚一枚を慈しむように見つめていた。そして、ある写真の前で、その指がぴたりと止まった。旧音楽室で、僕のカメラに初めてはにかんだ笑顔を向けた、あの日の写真だ。

陽菜は、写真から目を離さずに、そっと呟いた。

「……なんだか、きれいな音色が、聞こえる気がする」

その声は、春の陽だまりのように柔らかく、温かかった。僕は、言葉もなく、ただ静かに頷いた。たとえ脳が記憶を失くしても、魂が震えた感動や、心が感じた温もりは、消えたりしない。それは光や音の中に宿り、永遠にそこにあり続けるのだ。

僕は今、プロの写真家として、世界中を旅している。僕の撮る写真は、いつも被写体の内側から「音」が聞こえてくるようだ、と評される。それは、あの旧音楽室で、僕の全てを変えた少女が教えてくれたことだ。

陽菜の記憶が、今どうなっているのかは分からない。けれど、僕の心の中には、彼女が奏でた全ての旋律と、ファインダー越しに見つめた全ての光が、鮮やかに生き続けている。記憶とは、頭で覚えていることだけではない。誰かのために何かをしたいと願った、あのどうしようもない衝動。それこそが、人が生きた最も確かな証なのだと、僕は信じている。

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