父の最後のからくり

父の最後のからくり

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第一章 開かない箱と父の不在

父が死んだのは、もう二十年以上も前のことだ。僕、水野健司がまだ大学生だった頃、無口な父は、まるでロウソクの火が消えるように、静かにこの世を去った。思い出そうとしても、そこに浮かぶのは、いつも黙って作業台に向かう背中と、タバコの煙、そして木屑の匂いだけ。僕にとって父・浩一は、理解不能な他人であり、家族という温かい輪郭の外側に、いつもぽつんと佇んでいる人だった。

そんな父の記憶もとうに薄れ、僕自身が家庭を持ち、一人娘の父親となった今、今度は母が、父の後を追うように旅立った。

実家の遺品整理は、感傷に浸る間もなく、効率的に進められた。システムエンジニアである僕は、物事をタスクとして分解し、最短ルートで処理することに慣れている。思い出の品は写真に撮ってデータ化し、家具は業者に引き取ってもらう。しかし、すべての作業が終わったと思った矢先、屋根裏の隅から、埃を被った桐の箱が見つかったのだ。

蓋を開けると、中にはたった一つ、見事な細工が施された木製の小箱が鎮座していた。寄せ木細工の美しい幾何学模様。手のひらに乗せると、ずしりと重い。そして、箱の底には一枚の黄ばんだ便箋が敷かれていた。インクが滲んだ、父の無骨な字。

『健司へ。最後の仕事だ。開けてみてくれ。』

それが、父が僕に遺した、最初で最後の、明確なメッセージだった。

からくり箱。父は生前、趣味でこうした精巧な木工品を作っていた。しかし、この箱は様子が違った。どこにも継ぎ目や動かせそうな部分が見当たらない。振っても音はせず、力を込めても、寸分の隙間さえ見せることはなかった。まるで、完璧に閉じられた沈黙そのもの。

合理性と論理の世界で生きてきた僕の前に、父は死後二十年の時を経て、巨大で理不尽な謎を突きつけてきたのだ。

第二章 合理性の迷宮

その日から、僕の日常に「からくり箱」という名の奇妙な変数が組み込まれた。リモートワークの傍ら、僕はまるで難解なバグを修正するかのように、その箱と向き合った。あらゆる角度から光を当て、マイクロスコープで表面を観察し、考えうる限りの組み合わせをシミュレーションする。スライドさせるのか、押すのか、回すのか。どこかに隠しボタンがあるのか。僕はノートに箱の構造図を描き、可能性のある手順をリストアップしていった。しかし、箱は僕のロジックをあざ笑うかのように、固く口を閉ざしたままだった。

「あなた、またその箱とにらめっこしてるのね」

コーヒーを淹れてくれた妻の美咲が、呆れたように言った。

「これはただの箱じゃない。父さんが遺した問題なんだ。解けないはずがない」

「問題、ねえ…」

美咲は寂しそうに微笑んだ。「お父さんのこと、本当はもっと知りたかったんじゃない?」

図星を突かれ、僕は言葉に詰まる。「別に…。ただ、この非合理的な作りが気に食わないだけだ」

強がりだと自分でも分かっていた。中学生の娘・陽菜も、リビングのソファでスマホをいじりながら、「パパ、最近そればっかり。つまんない」と不満を漏らす。家族との間を流れる空気は、日増しに重くなっていく。僕が箱に没頭すればするほど、僕と家族との間にも、見えない壁が生まれているようだった。

僕は父を思い出す。会話らしい会話をした記憶がない。僕が学校の成績を報告しても、父は「そうか」と短く応えるだけ。僕の興味や夢に、関心がある素振りも見せなかった。このからくり箱も、父からの最後の「無視」のようにも感じられた。お前には理解できないだろう、と。

苛立ちは募り、僕はついに工具箱を持ち出してきた。マイナスドライバーをわずかな隙間にねじ込もうとした、その時だった。

「やめて!」

美咲が僕の手を掴んだ。その瞳は、悲しみと怒りで潤んでいた。

「それは、お父さんがあなたに遺したものよ!そんなふうに壊してしまったら、もう二度と、お父さんの気持ちは分からなくなってしまうわ!」

僕はハッとして、ドライバーを落とした。床に響く金属音は、僕の心の迷宮に、深く突き刺さった。

第三章 聞こえない声

途方に暮れた僕は、父の数少ない仕事仲間だったという、引退した家具職人を訪ねてみた。しかし、得られたのは「無口だけど、腕は確かだった」「木と話しているような男だった」という、判で押したような答えだけだった。

実家に戻り、誰もいなくなった部屋で、僕は仏壇に手を合わせた。母が好きだった白檀の線香の香りが、静かに立ち上る。その時、ふと、あることに気づいた。この香り…。僕は慌てて鞄からからくり箱を取り出し、鼻を寄せた。間違いない。箱からも、微かに同じ白檀の香りがする。

僕は箱を改めて凝視した。すると、寄せ木模様の表面に、今まで気づかなかった無数の微細な傷があるのが見えた。光の加減でようやく分かるほどの、繊細な引っかき傷。それはランダムなものではなく、何かの規則性を持っているように感じられた。

その時、美咲が「これ、お義母さんの部屋にあったわ」と、一冊の古いアルバムを持ってきた。ページをめくると、僕の知らない家族の時間がそこにはあった。そして、一枚の写真に目が釘付けになった。幼い僕が、父の膝の上に乗って、満面の笑みで木片を握りしめている。そして、その僕を見つめる父の顔は、僕の記憶にはない、信じられないほど優しい笑顔を浮かべていた。

写真の裏には、母の丸い字でこう記されていた。

『浩一さん、健司と初めて作った「秘密の文字」で、毎日、交換日記みたいに木に何か彫っていますね。あの子にはまだ分からないでしょうけど、私には、あなたの愛情が伝わってきますよ』

秘密の文字…?

その言葉が、雷のように僕の脳を撃ち抜いた。そうだ。思い出した。父と二人だけの遊び。ただの線と点、丸を組み合わせた、僕たちだけの暗号。父が作業台の木っ端に刻んで見せてくれた、他愛もない、でも特別なコミュニケーション。

僕は震える指で、からくり箱の傷をなぞった。間違いない。これは、あの「秘密の文字」だ。

傷の列を、記憶の糸をたぐり寄せながら読んでいく。

『ケ・ン・ジ・ノ・タ・タ・カ・イ・カ・タ・デ・ハ・ア・カ・ナ・イ』

「健司の戦い方では、開かない…」

声に出した瞬間、全身から力が抜けていくようだった。僕のやり方、つまり、ロジックと効率でねじ伏せようとするやり方では、この箱は心を開かないのだと、父は言っているのだ。

では、どうすればいい?

僕は膝から崩れ落ちた。父の意図が分かったようで、余計に分からなくなった。その時、幼い頃の光景がフラッシュバックする。父はいつも、何かを作る時、完成を急がなかった。木を撫で、木目に耳を澄まし、まるで木と対話するように、ゆっくりと時間をかけていた。

戦うな。感じろ。そういうことなのか?

僕は目を閉じ、箱をそっと両手で包み込んだ。力を抜いて、ただその重みと、木の滑らかな感触、白檀の香りに意識を集中する。父の無骨な指、作業台の匂い、遠い日の優しい笑顔。僕が忘れ去っていた父との絆を、一つ一つ拾い集めるように。

すると、カチリ、と内部で何かが動く、生命の産声のような音がした。

それは力ではなかった。特定の温度、特定の持ち方、特定の心が、錠を一つ外したのだ。父は、僕が人生に疲れ、立ち止まった時、この方法に辿り着くことを信じて待っていたのかもしれない。

第四章 秘密の文字

それからの僕は、まるで赤ん坊をあやすように、箱と向き合った。優しく撫で、ゆっくりと傾け、内部で微かに動く部品の音に耳を澄ます。それは僕が今まで最も軽んじてきた、非効率で、情緒的で、しかし温かいアプローチだった。

一つ仕掛けが解けると、また新たな「秘密の文字」が現れる。

『ムスコノタンジョウビヲオモイダセ』

僕の誕生日。四月十日。

僕は箱の特定の場所を、四回、優しく叩き、次に、十回、さらに優しく叩いた。それは、まるで父の肩を叩くような、慈しみに満ちたリズムだった。

カシャリ、という澄んだ音と共に、箱の蓋が、ついに静かに持ち上がった。

中から現れたのは、一枚の色褪せた写真と、小さな木の彫刻だった。

写真は、産院のベッドで撮られたものだろうか。生まれたばかりの、猿のように真っ赤な僕を抱きしめ、若き日の父が、滂沱の涙を流していた。僕が一度も見たことのない、感情をむき出しにした父の顔。その瞳は、言葉にならないほどの喜びと愛に満ち溢れていた。

そして、もう一つの木の彫刻。それは、不器用ながらも驚くほど精巧に作られた、システムキッチンのミニチュアだった。コンロ、シンク、そして小さなモニターまで再現されている。

僕は息を呑んだ。幼い頃、母を手伝いながら、父にこう言ったことがある。

「お父さん、僕、大きくなったら、コンピューターで動くすごいキッチンを作って、お母さんを楽させてあげるんだ!」

父は、僕の他愛ない夢を、ずっと、ずっと覚えていてくれたのだ。そして、言葉ではなく、その温かい手で、僕の夢を形にして遺してくれていた。無口な父が、その生涯をかけて伝えたかった、不器用で、しかし誰よりも深い愛情の形だった。

気づけば、僕の頬を熱いものが伝っていた。嗚咽が漏れる。父さん。ごめんなさい。僕は何も分かっていなかった。あなたを、あなたの愛を、自分の物差しで測ろうとしていた。

「パパ…?」

いつの間にか、陽菜が心配そうに僕の背中を見ていた。僕は涙を拭い、娘に優しく手招きをした。隣には、美咲も静かに座っている。

僕は、震える声で、初めて自分の言葉で、父の話を始めた。からくり箱のこと。秘密の文字のこと。そして、この小さなキッチンに込められた、僕がようやく受け取ることができた、父の想いのことを。

父が遺した最後の仕事は、からくり箱を開けることではなかった。家族という、この世で最も複雑で、最も温かく、そして時にすれ違ってしまう「からくり」の仕組みを、この手で、この心で、もう一度感じ直すことだったのだ。

陽菜の手が、そっと僕の手に重ねられる。その温かさが、僕の心の隙間を、静かに満たしていく。僕の仕事は、まだ始まったばかりだ。

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