第一章 灰色のキャンバス
木炭が画用紙に擦りつけられる音は、悲鳴に似ている。
放課後の美術室。
西日が差し込んでいるはずの窓際は、僕にとってはただの白い光の塊でしかない。
鼻を突くテレピン油の匂い。
舞い上がる埃。
静寂。
僕、瀬名湊(せな みなと)の世界は、三年前からモノクロームだ。
「ねえ、そこ。もっと青くない?」
唐突に、視界の端に異物が混入した。
絵筆を指揮棒のように振り回す、小柄な女子生徒。
転校生の、一ノ瀬朱音(いちのせ あかね)だ。
彼女は僕のイーゼルを覗き込み、眉を寄せる。
「君の絵、すごい上手いけどさ。なんで全部、遺影みたいなの?」
無神経な言葉に、僕は持っていた木炭を強く握りしめた。
指先が黒く汚れる。
「……色なんて、ただの情報のノイズだ」
「うわ、ひねくれてる」
朱音はケラケラと笑うと、自分のパレットを僕の目の前に突き出した。
赤、青、黄色。
僕には、濃淡の異なるグレーの泥にしか見えない。
「教えてあげる。世界はもっと、うるさいくらいに綺麗なんだよ」
彼女は勝手に僕の隣に椅子を引きずってくると、真っ白なキャンバスを立てた。
「文化祭まであと一ヶ月。美術部の存続をかけた巨大壁画、私と二人で描くよ」
「は? 断る。僕は一人で……」
「部長はもう許可しましたー! 私が色を塗る。君が線を引く。それで最高傑作を作るの」
彼女の瞳が、僕を射抜く。
その瞳が何色なのか、僕にはわからない。
けれど、そこにある熱量だけは、火傷しそうなほど伝わってきた。
「君の灰色(セカイ)に、私が色を叩き込んであげる」
それが、僕たちの奇妙な共同制作の始まりだった。
第二章 音のする色
「違う、そこはもっと『冷たい』感じ!」
朱音の指示は、常に感覚的で、支離滅裂だ。
屋上の壁面。
ペンキまみれの作業着。
十月の風が、彼女のボブカットを揺らしている。
「冷たいってなんだよ。具体的に言え」
「うーん、そうだなあ。真冬の朝、裸足でフローリングを歩いた時みたいな青!」
僕は溜息をつきながら、バケツの中の塗料(僕には少し暗いグレーに見える)を筆に取る。
「じゃあ、この赤は?」
「それはね、全力疾走したあとの喉の奥! カッと熱くなる感じ」
彼女の言葉を聞いていると、不思議な感覚に陥る。
視覚情報としての「色」は失われているのに、彼女の言葉を通すと、脳内に直接、温度や湿度が流れ込んでくるのだ。
「湊のデッサンは完璧すぎるんだよ。もっと崩して、遊ばないと」
朱音はそう言うと、僕が丁寧に引いた輪郭線の上から、乱暴にペンキを塗りたくった。
「おい、何するんだ!」
「ははは! 見て、空が笑ってるみたいになった!」
彼女が笑う。
つられて、僕も少しだけ口元が緩む。
僕たちは毎日、日が暮れるまで壁画に向かった。
描いているのは『空飛ぶ鯨』。
ありふれたモチーフだが、朱音の色彩感覚と、僕の光と影の描写が混ざり合い、それは見たこともない生命力を帯び始めていた。
ある日、休憩中に彼女が言った。
「私さ、忘れっぽいんだ」
缶コーヒーのプルタブを開ける音が、カシュ、と響く。
「昨日の夕飯とか、たまに忘れちゃうの」
「お前、適当に生きてるからだろ」
「ひどいなあ。でも、本当に忘れちゃうんだよ。……大切なことも、全部」
彼女の声が、少しだけ震えた気がした。
見ると、彼女は自分の手のひらをじっと見つめている。
その横顔が、どこか透き通って消えてしまいそうに見えて、僕は咄嗟に言葉を探した。
「……絵は、残るだろ」
「え?」
「忘れても、ここに残る。僕たちが描いた線も、色も」
朱音は驚いたように目を見開き、それから、今までで一番優しい顔で笑った。
「そっか。……そうだね。湊は、詩人だね」
「うるさい」
その日、彼女が塗った夕焼けの色は、僕には見えないはずなのに、なぜか泣きたくなるほど温かかった。
第三章 透明な消しゴム
異変が決定的になったのは、文化祭の一週間前だった。
いつものように屋上へ行くと、朱音が呆然と壁画の前に立っていた。
足元には、絵筆が転がっている。
「朱音? 遅いぞ、早く始めないと……」
僕が声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
その瞳には、明らかな「恐怖」が浮かんでいた。
「……あの、すみません」
彼女は、怯えたように後ずさる。
「ここは立ち入り禁止区域ですか? 私、どうしてここに……」
心臓が、早鐘を打つ。
ドクン、ドクン、と嫌な音が体内で響く。
「……ふざけるなよ。僕だ、瀬名だ」
「セナ……?」
彼女は首を傾げる。
演技じゃない。
その目には、僕という人間が全く映っていない。
彼女の記憶障害は、進行していたのだ。
僕が気づかないふりをしていただけで。
「……嘘だろ」
「ごめんなさい、私、帰らなきゃ」
朱音は逃げるように屋上のドアへ走っていく。
僕は動けなかった。
取り残された屋上。
未完成の鯨が、悲しげに僕を見下ろしている。
彼女が塗り重ねた色彩が、急に色褪せたただのペンキの膜に見えた。
翌日から、彼女は学校に来なくなった。
入院したと聞いた。
美術部の顧問が言った。
「壁画は中止にしよう。未完成のままじゃ出せない」
僕は、制作途中の壁を睨みつけた。
ここでやめたら、本当に全部消えてしまう。
彼女が僕に叩き込んだ「色」も、あの屋上の風も、缶コーヒーの味も。
「……描きます」
「瀬名?」
「僕が、完成させます。……彼女の代わりに」
それからの数日間、僕は狂ったように筆を動かした。
色は見えない。
だが、聞こえる。
『ここは冷たい水みたいな青!』
『ここは燃えるような赤!』
彼女の声が、脳内で反響する。
パレットの上のチューブの配置は、彼女が教えてくれた通りだ。
混色なんて適当でいい。
彼女なら、きっとこうする。
眠らず、食わず、ただひたすらに。
僕の灰色の世界に、記憶の中の彼女を叩きつけるように。
第四章 極彩色のサヨナラ
文化祭当日。
屋上の公開スペースには、多くの生徒が集まっていた。
完成した壁画『極彩色の鯨』。
それは、美術的には破綻しているかもしれない。
色が混ざりすぎているし、筆致も荒い。
けれど、誰もが足を止め、その絵を見上げていた。
人混みをかき分けて、車椅子の彼女が現れた。
外出許可をもらって、親に連れられてきたらしい。
僕は、息を呑んで彼女を見る。
少し痩せた彼女は、キョトンとした顔で周囲を見回している。
僕のことも、もう覚えていないだろう。
彼女の視線が、壁画に吸い寄せられる。
一秒。
二秒。
彼女の瞳が、大きく揺れた。
「……あ」
彼女の唇から、小さな声が漏れる。
その目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は震える手で口元を覆い、嗚咽を漏らし始める。
「わからない……わかんないの……」
彼女は泣きじゃくりながら、壁画を指差した。
「なんで……これを見ると……こんなに、胸が熱いの……?」
記憶は消えた。
名前も、顔も、過ごした時間も。
けれど、彼女が僕に教えた「熱」だけが、その絵の中に残っていた。
僕は彼女の前に歩み出る。
彼女は涙に濡れた目で、僕を見上げる。
知らない人を見る目だ。
それでも、僕は笑った。
初めて会った日、彼女が僕にそうしてくれたように。
「……それはね」
僕は、彼女に教わった言葉を返す。
「全力疾走したあとの、喉の奥の熱さだよ」
彼女はポカンとして、それから、涙でぐしゃぐしゃの顔で、ふわりと笑った。
「……うん。すごく、温かい色だね」
僕の視界は、相変わらず灰色だ。
でも、彼女の笑顔を見た瞬間、世界が一瞬だけ、鮮やかに色づいた気がした。
壁画の鯨が、灰色の空を泳いでいく。
それは僕らが描いた、最初で最後の、極彩色のサヨナラだった。