第一章 屋上の彼女と一枚の写真
高槻湊(たかつきみなと)にとって、世界はファインダー越しに切り取ることで初めて意味を持つ、静かで無機質な被写体の集合体だった。写真部に所属していながら、彼がレンズを向けるのは決まって人間以外のもの。錆びた鉄棒、雨上がりの水たまりに映る逆さの空、誰もいない放課後の教室に差し込む斜陽。人を撮らないのは、撮れないからだ。フレームの中に生身の人間の感情を収めることが、湊にはひどく恐ろしかった。
その日も、湊は昼休みの喧騒から逃れるように、立ち入り禁止の札を無視して屋上のドアを開けた。コンクリートの床に熱がこもり、陽炎が立ち上っている。いつものように古びたニコンのカメラを構え、隣の校舎の窓ガラスに反射する光を捉えようとした、その時だった。
視界の端に、ありえないものが映り込んだ。
屋上を囲む金網フェンス。その、向こう側。わずか三十センチほどのコンクリートの縁に、女子生徒が立っていた。スカートが強い風にはためいている。
天野陽菜(あまのひな)。
クラスで、いや、学年で一番、太陽の似合う少女。いつも輪の中心で屈託なく笑い、その明るさは教室の隅にいる湊にまで届くほどだった。そんな彼女が、なぜ。
湊は息を呑み、カメラを下ろした。陽菜はこちらに背を向けて、街並みを静かに見下ろしている。その横顔は、湊が知るどの彼女とも違っていた。笑顔も、快活さも、光も、そこにはない。あるのは、ガラス細工のように脆く、底なしの静寂を湛えた虚無。まるで、世界から自分だけが切り離されてしまったかのような、途方もない孤独の色をしていた。
湊が声も出せずに立ち尽くしていると、不意に彼女がゆっくりと振り返った。目が合う。驚いたのは湊の方だった。陽菜の表情は変わらない。ただ、その唇が微かに動き、細く白い人差し指がそっと唇に当てられた。
「しーっ」
囁くような、吐息だけの声。彼女はふわりとフェンスの内側に戻ると、湊の方へ歩み寄ってきた。その手には、一枚の写真が握られている。
「これ、あげる」
差し出されたのは、L判の写真。写っているのは、満面の笑みを浮かべた天野陽菜だった。湊がいつも教室の遠くから見ていた、あの太陽のような笑顔だ。
「これを、私だと思って」
彼女は、写真の中の自分を指差して、そう言った。その声は風に溶けてしまいそうなほどか弱かった。
「本当の私は、もうすぐ消えるから」
その言葉の意味を問い返す前に、陽菜は湊の横をすり抜け、屋上のドアの向こうへと消えていった。後に残されたのは、手に余るほどの強い陽射しと、一枚の写真、そして湊の心臓を鷲掴みにする、巨大な謎だけだった。
第二章 不在の輪郭
翌日から、天野陽菜は学校を休んだ。教室では「風邪でもひいたかな」「昨日まで元気だったのに」と軽い憶測が飛び交うだけ。誰も、彼女の不在を深刻には捉えていないようだった。湊だけが、あの屋上での出来事を反芻し、授業の内容も頭に入らなかった。
『本当の私は、もうすぐ消えるから』
あの言葉は、最悪の結末を暗示しているのではないか。湊の胸を、じっとりとした不安が蝕んでいく。彼はポケットから陽菜に渡された写真を取り出した。完璧な構図、完璧な光、そして完璧な笑顔。しかし、写真家としての湊の目は、その完璧さの裏に潜む微細な歪みを見逃さなかった。瞳の奥に宿る、一瞬の揺らぎ。口角は上がっているのに、笑っていない目。それはまるで、精巧に作られた仮面のようだった。
湊は衝動的にカメラを手に取った。いてもたってもいられなかった。彼は、陽菜の「不在」を撮り始めた。
彼女がいつも座っていた、窓際の席。今は誰も座らず、ただ午後の光が埃を照らしているだけ。カシャッ。
彼女が友人たちと笑い合っていた、中庭のベンチ。今は落ち葉が積もっているだけ。カシャッ。
彼女がよく本を借りに来ていたという、図書室の窓際の閲覧席。カシャッ。
ファインダーを覗き、シャッターを切るたびに、陽菜という存在の輪郭が、不在であることによって、むしろくっきりと浮かび上がってくるような奇妙な感覚があった。これは、彼女の痕跡を探す巡礼だった。そして、他者との関わりを避けてきた湊にとって、初めて誰かのことを必死に知ろうとする、切実な旅の始まりでもあった。
手がかりは、すぐに壁にぶつかった。陽菜の友人たちに話しかけようにも、内向的な性格が邪魔をして、言葉が喉に張り付いて出てこない。諦めかけたその時、図書室の司書が、湊が陽菜の席ばかり撮っていることに気づいて声をかけてきた。
「天野さん、最近はSNSで詩を発表しているそうよ。なんだか、難しい年頃なのね」
SNS。湊はすぐさま彼女の名前で検索をかけた。表のアカウントは、友人たちとのきらびやかな写真で埋め尽くされている。しかし、司書の言葉を頼りに、彼女が使いそうな言葉で検索を重ねると、鍵のかかった、もう一つのアカウントを見つけ出した。プロフィール欄には、ただ一言。『月だけが私を見ている』。
湊は躊躇の末、フォローリクエストを送った。数時間後、意外にもそれは承認された。そこに並んでいたのは、湊が知る天野陽菜とは似ても似つかぬ、独白の数々だった。
『笑顔の仮面は重たい。鉛のようだ』
『私の色は何色だろう。光を浴びすぎて、もう分からない』
『半分になった魂で、どうやって世界を愛せばいい?』
湊は息を詰めて、その言葉たちを読んだ。そこにあったのは、陽の光ではなく、深い海の底のような、静かで濃い孤独。それは、ファインダーという安全な箱の中から世界を眺めることで孤独をやり過ごしてきた、自分自身の心と奇妙に共鳴した。
違う。俺たちは違わないのかもしれない。
湊の中で、陽菜をただ「見つけたい」という焦りにも似た感情が、「理解したい」という強い願いへと変わっていった。その願いは、彼を突き動かす新たな力となった。
第三章 星空の告白
陽菜の裏アカウントの投稿を遡っていくと、頻繁に出てくる場所があった。『星屑の揺りかご』という言葉と共に投稿された、プラネタリウムの天井と思しき写真。湊は市内のプラネタリウムを調べ、古びた科学館のそれに当たりをつけた。
放課後、湊はカメラバッグを肩に、バスに飛び乗った。錆びついた科学館のドアを開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。プラネタリウムの上映開始を告げるブザーが鳴り響いていた。ドーム状のホールに足を踏み入れると、客は湊の他に数人しかいない。そして、一番後ろの席に、小さな人影を見つけた。
陽菜だった。
アナウンスが流れ、照明が落ちる。満天の星が頭上に広がり、解説員の穏やかな声が響き始めた。湊は、上映が終わるのを待って、静かに彼女の隣の席に座った。
陽菜は驚いた様子もなく、ただ星空を見上げていた。「見つけられちゃった」と、諦めたように呟く。
「消えるって、どういう意味だ」
湊は、震える声を抑えながら尋ねた。彼の真剣な眼差しに、陽菜はゆっくりと視線を落とした。
「……死のうとしたわけじゃないよ。ごめん、脅かすつもりはなかった」
長い沈黙の後、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。それは、湊の想像を遥かに超える、痛ましい告白だった。
「私にはね、双子の妹がいたの。月菜(つきな)って言って。顔も声も、そっくりだった」
陽菜と月菜。太陽と月。二人はいつも一緒だった。しかし、月菜は生まれつき心臓が弱く、入退院を繰り返していた。陽菜が外で元気に駆け回る分、月菜は病室の窓から空を眺めることが多かったという。
「一年前、月菜は死んだ。……最後にね、あの子、私に言ったの。『お姉ちゃんは私の太陽だから、ずっと笑っていてね』って」
その言葉が、陽菜にとっての呪いになった。妹の最後の願い。それを守るために、彼女は必死で笑った。悲しくても、辛くても、心が張り裂けそうでも、太陽のように明るい「天野陽菜」を演じ続けた。
「屋上で君に渡した写真、あれは月菜が撮ってくれた最後の写真なの。私が無理やり笑ってるのを、あの子は全部お見通しで、『それでいいんだよ』って言ってシャッターを切った」
妹の死後、世界は色を失った。それでも、彼女は笑顔の仮面を被り続けた。誰にも弱さを見せられず、孤独は日に日に深まっていく。本当の自分は、妹と一緒に死んでしまったようだった。
「だから、消えたかった。『太陽みたいな天野陽菜』を消してしまいたかったの。屋上で君を見つけた時、思ったんだ。いつも一人で、風景ばっかり撮ってる君なら、私っていう存在の面倒くささじゃなくて、私の不在を、静かに受け入れてくれるかもしれないって……」
星々が瞬く暗闇の中、陽菜の肩が小さく震えていた。彼女が背負っていたもののあまりの重さに、湊は言葉を失った。人気者の彼女が抱える、壮絶な孤独。笑顔の裏の、深い悲しみ。
そして湊は気づく。自分も同じだったのだと。ファインダーというフィルターを通して世界から距離を置き、人と向き合うことから逃げていた。それもまた、見えない仮面の一種ではなかったか。
陽菜の孤独が、湊自身の孤独の扉を、静かに、しかし確かにノックしていた。
第四章 ファインダー越しの夜明け
ドームの星々が、淡い光を二人に投げかけている。湊は震える陽菜の横顔を見つめながら、ずっと言えなかった言葉を、ようやく口にした。
「俺は、君を撮りたい」
陽菜が、はっとしたように顔を上げる。
「笑ってなくてもいい。泣いていてもいい。無理に太陽にならなくていい。ただ、そこにいる君を、俺に撮らせてほしい」
それは、湊が生まれて初めて、被写体としての「人」に、心を奪われた瞬間だった。彼のファインダーはもう、空っぽの風景を求めてはいなかった。傷つき、揺らぎ、それでもなお「ここにいる」と叫んでいる、目の前の魂を写し撮りたかった。
陽菜の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、一年間ずっと堰き止められていた、氷が解けるような涙だった。湊は静かにカメラを構え、シャッターを切った。カシャッ。プラネタリウムの静寂に、乾いた音が響く。星の光に照らされた、涙の跡。それは、どんな笑顔よりも、ずっと美しかった。
数週間後の学園祭。写真部の展示スペースの一角は、異様なほどの静けさと熱気を帯びていた。そこに飾られていたのは、湊が撮った十数枚のモノクロ写真。
タイトルは、『不在の証明、存在の輪郭』。
被写体は、すべて天野陽菜だった。プラネタリウムの暗闇で涙を流す横顔。通学路の夕暮れに佇む、物憂げな瞳。図書室の窓辺で、何もない空を見つめる背中。そこに、あの太陽のような笑顔は一枚もなかった。
しかし、写真の中の彼女は、痛々しいほどに生きていた。悲しみも、弱さも、戸惑いも、すべてを曝け出して、確かに「存在」していた。多くの生徒が足を止め、息を呑んで写真に見入っている。
「これ、天野さん……?」
「いつもと全然違う……でも、なんだか、こっちのほうが、本当の天野さんって感じがする」
ざわめきの中、展示室の隅で、湊と陽菜が並んでその光景を見ていた。陽菜はもう、無理に笑ってはいない。穏やかで、少しだけ緊張したような、自然な表情をしていた。
「ありがとう、高槻くん。私のこと、見つけてくれて」
陽菜が、小さな声で言った。
「俺の方こそ。君が、俺に撮る意味を教えてくれた」
湊は、静かに答えた。そして、ゆっくりと首から下げたカメラを構える。ファインダーの先には、少しだけ頬を染めて、はにかむように微笑む陽菜がいる。それは、妹の呪縛から解き放たれ、長い夜の果てにようやく見つけた、彼女自身の夜明けの微笑みだった。
カシャッ。
シャッター音が、二人の新しい始まりを告げるように、優しく響き渡った。その音は、もう孤独のフィルターではなく、世界と繋がるための、確かな架け橋の音だった。