残光の彫刻家と沈みゆく空
第一章 沈黙の光
カイの指先が、老婆の皺深い手の甲にそっと触れた。途端に、カイの網膜裏に淡い光景が立ち上がる。それは、夕陽に染まる丘の上で、若き日の老婆が夫と手を取り合って踊る、幸福の残滓。黄金色に輝く立体的な光の彫刻だった。だが、その輝きは病的に弱々しく、触れた箇所から砂のように崩れ始めていた。
「ああ……また、薄れていく……」
老婆のかすれた声が、埃っぽい部屋に響く。カイの目の前で、夫婦の思い出は最後の明滅を終え、まるで陽炎のように掻き消えた。残されたのは、冷たい皮膚の感触と、虚無の匂いだけ。これが「感光病」。人々が最も慈しんだ感動の記憶が、その熱量を失い、空虚な殻となって消滅していく奇病だ。
窓の外では、彼らが住まう浮遊都市「アウローラ」が、不吉な軋み音を立てていた。この世界は「感情の重力」によって成り立っている。人々の喜びや希望が都市を空に繋ぎ止め、悲しみや絶望がそれを奈落へと引きずり込む。感動の光が失われるたび、都市は均衡を失い、ゆっくりと、しかし確実に沈下していくのだ。
カイは、その失われた感動の残滓を視認できる特異な体質を持つ、「残光の彫刻家」だった。かつては人々の失われた記憶を修復し、慰めを与える存在だったが、今や彼の能力は、ただ消えゆく光を看取ることしかできない無力なものとなっていた。彼は、音もなく崩れ落ちた光の塵に、言いようのない寒気を感じていた。
第二章 羅針盤の震え
「世界が、持たぬのだ」
アウローラの最上層、風が吹き抜ける尖塔で、都市の長老は枯れ木のような指で宙を掻いた。
「感動という重しを失った都市が、次々と墜落している。このままでは、我々の空も終わる」
長老はカイの前に、古びた木箱を差し出した。中には、乳白色の結晶が鎮座していた。一見すると、時の砂が固まっただけの石のようだが、カイがそれに触れると、まるで生きている心臓のように、微かな振動が指から腕へと伝わってきた。
「感動の羅針盤(コンパス・オブ・オー)……。かつて、世界で最も強く、純粋な感動が生まれた場所を指し示したという伝説の遺物だ。感光病が起こる、ずっと以前の」
長老の瞳には、藁にもすがるような光が宿っていた。
「カイよ。お主のその眼で、羅針盤が指し示す地へ赴き、この病の原因を突き止めてはくれぬか。失われた感動の源泉、その『本質的なエネルギー』とやらを、現在へ持ち帰ってほしい」
それは、あまりにも漠然とした希望だった。だが、沈みゆく都市の軋み音を聞きながら、ただ光が消えるのを待つことにも、カイは耐えられなかった。彼は羅針盤を手に取った。結晶の中心に浮かぶ微かな光の針が、ゆっくりと南の空を指して震え始める。その先にあるのは、全ての浮遊都市の原点にして、今や誰も近づかぬ禁忌の遺跡――古代都市「セレニタス」だった。
第三章 過去の聖域
風切り羽を持つ小型の飛空艇で数日、カイはセレニタスの遺跡にたどり着いた。そこは、想像を絶する光景だった。天に届くほどの巨大なクリスタルの柱が林立し、それら全てが、かつて誰かが抱いたであろう感動の光の彫刻だったのだ。だが、そのほとんどは色褪せ、生気を失い、石化した巨大な墓標のように沈黙していた。風がその間を吹き抜けるたび、まるで魂の抜け殻が上げる嗚咽のような、寂寥とした音が響き渡った。
こここそ、感動の墓場だ。
カイは遺跡の中心へと歩を進めた。足元には、砕け散った光の残骸がガラス片のように散らばっている。その一つを踏むたびに、カイの胸ポケットで、彼自身の小さな光が呼応するように温かく明滅した。
それは、彼がたった一つだけ、誰にも触れさせずに守り続けてきた光。幼い頃に亡くした妹と、二人で見た最後の流星群の記憶。降り注ぐ星々の下で、小さな手を握り合った瞬間の、胸が張り裂けそうなほどの喜びと切なさ。カイにとって、それは生きる理由そのものであり、世界で最も美しい光の彫刻だった。この光がある限り、自分は大丈夫だ。そう信じていた。
だが、この静謐な墓場に佇んでいると、その確信が根底から揺らぐような、深い不安に襲われるのだった。
第四章 揺らぐ重力
遺跡の最深部、巨大な祭壇のような場所にたどり着いた時、事件は起きた。カイが手にしていた羅針盤の針が、狂ったように回転を始めたのだ。それはもはやセレニタスの中心を指してはいない。ぐるぐると円を描いた後、カチリ、と音を立てて、真上――何も無い、ただ広がるだけの空の天頂を指し示した。
「……上? 何も無いじゃないか」
カイが呟いた、その瞬間。
ゴウッ、と地鳴りのような轟音が世界を揺るがした。足元の遺跡が大きく傾ぎ、石化した光の彫刻が次々と崩落していく。同時に、カイの胸ポケットで輝いていた妹との思い出の光が、灼熱を帯びて激しく脈打ち始めた。まるで拒絶するように、あるいは警鐘を鳴らすように。
痛みで胸を押さえるカイの脳裏に、直接声が響いた。それは、誰か個人の声ではない。もっと大きく、もっと根源的な、この世界そのものの悲鳴だった。
――重い、重すぎる。もう、支えきれない。
幻聴と共に、遠く離れた都市アウローラが悲鳴を上げながら急降下していく光景が、カイの瞼の裏に焼き付いた。感光病は、ただの病ではなかった。これは、世界の「感情の重力」システムそのものが、限界を迎え、崩壊し始めている兆候なのだ。羅針盤が指し示したのは、過去の聖地などではなかった。それは、この世界の法則が壊れゆく、その特異点だったのだ。
第五章 真実の残響
世界の悲鳴が、カイの意識に流れ込んでくる。それは、巨大な天秤のイメージだった。片方の皿には「現在の感動」が、もう片方の皿には、人類が積み重ねてきた、途方もない量の「過去の感動」が載せられている。そして今、過去の皿は重くなりすぎ、天秤の支柱そのものが砕け散ろうとしていた。
感光病の正体は、世界の無意識の自衛反応だった。あまりにも肥大化した過去の重力から逃れるため、世界は自ら感動の記憶を消去し、負荷を軽くしようともがいていたのだ。人々が過去の美しい思い出に執着すればするほど、その重みは増し、世界を沈下させる力となる。
羅針盤が天頂を指した意味を、カイは悟った。それは過去の場所を示していたのではない。「過去から目を離し、上を、未来を見よ」という、世界の最後のメッセージだったのだ。
世界を救う方法は、一つしかない。
過去の感動を手放すこと。失われた思い出を取り戻すのではなく、今、この瞬間に、新たな感動を創造し続けること。それこそが、この世界を浮かび上がらせる唯一の力なのだ。
絶望的な真実だった。それは、人々から最も大切な宝物を奪い取ることと同義だったからだ。そして何より、カイ自身が、最も美しい過去に囚われている一人だった。妹との思い出の光が、彼の心臓を締め付ける。忘れないで、と光が囁いている。
第六章 手放す光、生まれる種
カイは、震える手で胸ポケットから妹との記憶の光を取り出した。彼の掌の上で、流星群の夜が、温かく、そして切なく明滅している。それはカイの魂の半分であり、彼の世界の中心だった。
これを、手放す?
アウローラの断末魔の叫びが、遠くから響いてくる。世界の崩壊は、もう一刻の猶予もなかった。
「……ごめんな、リナ」
カイは光に囁きかけた。それは謝罪ではなかった。感謝だった。
「君との思い出が、僕をここまで連れてきてくれた。でも、僕たちは、過去に生きることはできないんだ」
彼は、そっと光の彫刻に息を吹きかけた。それは、「さよなら」の合図ではなかった。「ありがとう、そして、行ってらっしゃい」という、未来への祈りだった。
カイの手の中で、最も大切だった光は、音もなく砕け散った。しかし、それは虚無にはならなかった。無数の輝く粒子となり、風に乗って空高く舞い上がったのだ。その光の種は、セレニタスの遺跡から世界中へと広がっていき、絶望に沈む人々の心に、静かに、一つ、また一つと降り注いでいった。
第七章 新しい空の夜明け
カイの光が消えた瞬間、世界の悲鳴がぴたりと止んだ。都市の急激な沈下は緩やかになり、やがて、空中の定位置で静かに安定を取り戻した。人々は、胸の内にあった大きな喪失感と共に、その代わりに宿った、小さな、しかし確かな温かさに気づいていた。失われた感動は消えたのではない。未来に咲く、新たな感動の「種」へと姿を変えたのだ。
カイは、空になった掌を見つめていた。涙は出なかった。ただ、途方もない静けさが心を占めていた。彼は、遺跡に置き忘れていた羅針盤を拾い上げる。その針はもうどこも指さず、ただカイの手の中で、新しい命の鼓動のように、かすかな振動を続けているだけだった。進むべき道は、もうどこか特定の場所にはない。どこへでも行けるのだ。
アウローラへと戻ったカイは、広場で遊ぶ子供たちの姿を見た。一人の少女が、地面に拙い太陽の絵を描いている。その無邪気な笑顔を見た瞬間、カイの胸の奥で、本当に小さな、生まれたてのような光が、ぽつりと灯った。
空は、どこまでも青く澄み渡っていた。人々は多くのものを失った。だが、過去という重力から解き放たれ、今、この瞬間を生きることで生まれる新しい光を、彼らはこれから紡いでいくだろう。カイは空を見上げ、静かに微笑んだ。失われたものの隣で、世界は、新しい夜明けを迎えようとしていた。