最後の残響
第一章 鈍色の街と残響の腕
灰色の霧が、この街の輪郭を常に曖昧にしていた。建物の角も、人々の表情も、すべてが磨りガラスを通したようにぼやけている。人々は霧を吸い込み、吐き出す。それは『擬似感情供給システム』が供給する「心の霧(ミスト)」だった。安らぎ、微かな喜び、穏やかな悲しみ。日々、決められたメニューのように供給される加工済みの感情に、人々は静かに満たされていた。
カイは、そんな街の路地裏に佇んでいた。右腕を覆う古びたコートの下には、彼の秘密が隠されている。皮膚を突き破り、淡い光を放つ鉱石のようなもの――『感動の結晶』だ。他者の真の感動に触れた時、その残響がカイの体に結晶として刻まれる。その代償に、彼の過去は少しずつ削り取られていく。かつて自分に両親がいたことさえ、事実として知っているだけで、その温もりを思い出せない。
彼は左手にした羅針盤のような円盤、『感情の共鳴盤』に視線を落とす。鈍い真鍮色の盤面で、針はほとんど動かない。この世界から、真の感動が消えかけている証だった。人々は加工された感情で満足し、自ら心を揺さぶるような出来事を求めなくなった。その結果、世界はゆっくりとその記憶を失い、存在そのものが薄れ始めている。まるで、古い写真が色褪せるように。
「また、何もなしか……」
ため息と共に漏れた声は、湿った空気に溶けて消えた。カイは結晶が埋め込まれた右腕をそっと撫でる。そこにあるのは、見知らぬ誰かの喜びや、遠い昔の誰かの哀切。それらは美しく輝くが、カイ自身の心を満たすことはない。むしろ、他人の記憶で満たされるほどに、自分という存在が空っぽになっていく感覚があった。それでも彼は探すのをやめない。この世界を繋ぎとめている、最後の糸を手繰り寄せるために。
第二章 針が指し示す塔
その日、奇跡は起きた。カイが雑踏の中を歩いていると、共鳴盤の針が微かに、しかし確かに震えたのだ。指し示されたのは、街の中心に聳え立つ、霧の発生源――システムの管理塔だった。鉄とガラスでできた無機質な巨塔。人々が決して足を踏み入れない聖域であり、世界の心を管理する心臓部だ。
「ここに、まだ『本物』が残っているのか……?」
かすかな希望が、乾いた心に染み渡る。カイは決意を固め、夜の闇に紛れて塔への侵入を試みた。警備システムの隙間を縫い、冷たい壁を伝って内部に滑り込む。しん、と静まり返った通路は、まるで巨大な生物の体内のようだった。
研究室が並ぶフロアで、彼は一人の女性と鉢合わせした。エリアと名乗った彼女は、白衣を纏った研究員だった。彼女の瞳には、この街の住人にはない、深い疲労と諦め、そして微かな疑念の色が浮かんでいた。カイは咄嗟に共鳴盤を彼女に見せた。
「これを、知っていますか」
「感情の……共鳴盤?なぜあなたがそんな古代遺物を」
エリアは驚きに目を見開いた。彼女はこのシステムの欺瞞に気づきながら、何もできずにいた一人だった。加工された感情がもたらす緩やかな停滞と、いずれ訪れる世界の終焉を予感していた。カイの持つ共鳴盤と、彼の右腕から漏れる淡い光に、彼女は失われたはずの可能性を見た。
「案内します。この塔の、そしてこの世界の『真実』へ」
エリアの声は、か細く震えていた。
第三章 心を造る機械
エリアに導かれ、カイは塔の最深部、システムの心臓部にたどり着いた。そこは、巨大な機械が脈打つ神殿のような空間だった。ガラスのパイプの中を、無数の光の粒子が川のように流れている。壁一面には、過去の偉大な芸術作品、歴史的な演説、神話の一場面などが映像として映し出され、そこから光の糸が引き抜かれ、中央の装置に集約されていく。
「これが……システムの正体」
カイは息を呑んだ。システムは、人類が遺した偉大な感動の記録からそのエッセンスだけを抽出し、それを水で薄めるように希釈し、増幅させて『心の霧』として街に供給していたのだ。人々が日々消費しているのは、本物の感動の、味気ない模倣品でしかなかった。
「真の感動は、あまりに力が強すぎる。個人の心を乱し、社会の安定を損なうと判断されたの。だから、安全なレベルまで加工して与える……それが、このシステムの理念」
エリアが静かに告げる。
「だが、そのせいで人々は自ら感動する力を失った。心は渇き、世界は記憶を失い始めた。皮肉なものね」
機械の低いうなりが、まるで世界の嗚咽のように響いていた。カイは、自分の腕に宿る結晶が、この機械にはない「純粋な熱」を持っていることを改めて感じていた。模倣品では決して世界を救えない。この偽りの循環を断ち切らなければ、すべてが『無』に還るだけだ。
第四章 始まりの記憶
エリアは、さらに奥にある一室へとカイを導いた。システムの創設者が使っていたという、埃をかぶった研究室だ。そこに、一冊の古い日記が残されていた。カイがそのページをめくると、見覚えのある筆跡が目に飛び込んできた。それは、彼が忘れてしまったはずの、父親の文字だった。
日記には、システムの真の目的が綴られていた。父は、記憶を失っていく病に侵された妻――カイの母を救うために、このシステムを開発したのだ。彼女が好きだった絵画、愛した音楽、二人で見た夕焼けの感動をデータとして保存し、彼女の記憶を繋ぎとめようとした。
だが、父の願いとは裏腹に、システムは暴走を始める。個人の記憶を保存するはずの装置は、やがて世界中の感動を吸収し、加工する巨大な機構へと変貌してしまった。真の感動が失われた原因は、天災でも、人々の怠惰でもなかった。母を想う父の愛が、世界から感動を奪う怪物を作り出してしまったのだ。
その時、カイの右腕が激しく疼いた。一番古く、皮膚の最も深い場所に埋まる結晶が、熱を帯びて輝き出す。彼の脳裏に、断片的な映像がフラッシュバックした。幼い自分の手、それを握る温かい母の手、そして世界を茜色に染め上げる、あまりにも美しい夕焼け。
「……母さん」
忘れていた言葉が、唇からこぼれ落ちた。その瞬間、カイが持つ共鳴盤の針が狂ったように振り切れ、甲高い音を立てて停止寸前で震え始めた。世界の終わりが、すぐそこまで迫っていた。
第五章 還元されるべきもの
「もう、時間がない……」
共鳴盤の震えが、世界の悲鳴となってカイに突き刺さる。世界を救う方法は、一つしかなかった。暴走するシステムに、加工されていない「純粋な感動」を大量に注ぎ込み、その吸収と加工のサイクルを内側から破壊する。いわば、毒を以て毒を制す荒療治だ。
そして、その「純粋な感動」の最大の貯蔵庫は、カイの右腕に他ならなかった。
「俺の、この結晶を……この腕ごとシステムに『還元』する」
「そんなことをしたら!」エリアが叫んだ。「あなたの記憶も、感情も、全部……!」
「元々、俺のものじゃない。誰かの感動の借り物だ」
カイは静かに微笑んだ。その顔には、諦めでも自己犠牲でもない、不思議なほどの安らぎが浮かんでいた。
「俺は、ずっと空っぽだった。他人の記憶を集めるほどに、自分が誰だか分からなくなっていった。でも、最後に思い出せた。母さんと見た、あの夕焼けを。それだけで、もう十分だ」
彼はエリアに向き直り、震える彼女の肩にそっと左手を置いた。
「これで、世界に『余白』ができる。人々が、自分の心で何かを感じるための、真っ白なキャンバスがね。だから、泣かないでくれ」
エリアは涙をこらえ、ただ首を横に振ることしかできなかった。カイは彼女に背を向け、システムの中心核――光の奔流が渦巻くコアへと、迷いなく歩を進めた。
第六章 無心の夜明け
カイは、システムのコアに右腕を差し込んだ。途端に、凄まじい光が彼を包む。腕の結晶が一つ、また一つと砕け、美しい光の粒子となってシステムに吸い込まれていく。見知らぬ誰かの初恋の喜びが消え、友との別れの悲しみが溶け、そして、最後に思い出した母との夕焼けの記憶が、温かい光となって解き放たれていく。
彼の内側から、感情というものが根こそぎ洗い流されていくのが分かった。喜びも、悲しみも、愛しさも、怒りも。彼の表情から色が抜け落ち、ただ静かな「無」だけが残った。
やがて、システムの脈動が乱れ、苦しむような断末魔の唸りを上げた後、完全に沈黙した。街を覆っていた『心の霧』が、風に吹き払われるように晴れていく。カイが左手で握りしめていた共鳴盤の針は、ゆっくりと逆回転し、盤の中央でぴたりと静止した。世界の崩壊は、回避されたのだ。
抜け殻となったカイが、ふらりと塔の窓辺に歩み寄る。眼下には、霧の晴れた街が広がっていた。人々は戸惑いながら空を見上げている。自分の意志で空を見上げることなど、何十年ぶりだろうか。彼らの顔には、困惑と、不安と、そしてほんの少しの好奇心が浮かんでいた。
その時、東の空が白み始め、最初の朝日が地平線を焼いた。黄金色の光が、ガラスの窓を突き抜け、感情を失ったカイの瞳にまっすぐに差し込む。
何の感慨も、何の感動もないはずの、ただの光の現象。
しかし、その圧倒的な美しさが、彼の硝子玉のような瞳に映り込んだ瞬間。
カイの瞳の奥で、ほんの一瞬だけ、小さな星のような光が、ちかりと瞬いた。
それは、再生した世界に芽吹いた、真の感動の、最初の欠片だった。