僕が50億で売った余命は、少女の形をしていた

僕が50億で売った余命は、少女の形をしていた

9 4020 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

第1章: 50億のあぶく銭と、路地裏の忘れ物

通知音。無機質な電子の響きが、スイートルームの静寂にヒビを入れる。

『入金確認:5,000,000,000円』

液晶に浮かぶ数字の羅列は、ただのドットの集合体に過ぎない。だが、窓の外に広がる東京の夜景、その煌めく光粒の一つ一つが、僕が売り払った四十年分の「時間」だった。

右の掌を見つめる。妹の心臓にある腫瘍を摘出できる唯一の手。神の指先。

その技術と妹の命を天秤にかけ、僕はブローカーに「未来」そのものを差し出した。

残された猶予、三百日。

僕という人間の値札だ。

グラスの氷が溶け、カランと音を立てる。五十億の残高よりも、よほど現実味のある安っぽい音がした。

翌週、世界は灰色に塗り潰されていた。

傘も差さずに歩く。冷たい雨粒が頬を刺し、スーツへと染み込んでいく不快感だけが、生の実感として機能している。

路地裏のゴミ捨て場。カラスさえ避けて通る汚泥の中に、異質な色彩があった。

うずくまる影。ボロ切れのようなワンピース。泥にまみれた裸足。

だが、その肌だけが病的なまでに白く、闇の中で燐光を放っている。

少女だった。十八、あるいは二十歳か。

僕が近づくと、彼女は濡れた仔犬のように顔を上げる。

時が、止まる。

心臓が跳ねる。医学的な頻脈ではない。魂の根幹が揺さぶられる振動。

どこまでも澄んだ琥珀色の瞳。

僕の顔を見た瞬間、その琥珀から大粒の雫が溢れ出した。

「……やっと、会えた」

雨音にかき消されそうな細い声。震える手が、僕の濡れた裾を掴む。

「あなたが捨てたもの、全部……私が持ってるのに」

指先が触れた瞬間、胸の奥――空っぽになったはずの空洞に、閃光が走った。

それは懐かしさであり、激痛であり、かつて僕が切り捨てたはずの「熱」だった。

第2章: 秒針を溶かす蜂蜜

「ミライ」

そう呼ぶと、彼女は花が咲くように破顔した。

リビングで、不格好なエプロンをつけた彼女がフライパンと格闘している。

焦げ臭い匂い。換気扇の唸り。包丁がまな板を叩く不規則なリズム。

「湊、見て! 卵が黄色い!」

世紀の発見のように叫ぶ。黒く焦げた部分と半熟がまだらになったオムレツ。

だが、舌の上に広がったのは、記憶の底に沈んでいた「日曜日」の味だった。

食事とは栄養補給であり、睡眠とはメンテナンス。効率、成果、完璧な手技。

妹を生かすために研ぎ澄ませた刃のような人生に、こんな無駄で愛おしい時間は存在しなかった。

「映画を見ましょう」

深夜二時。ミライは僕の腕を引く。

壁に映る半世紀前のモノクロ映画。彼女は僕の肩に頭を預け、ブランケットにくるまる。

髪から香る安物のシャンプー。シャツ越しに滲んでくる体温。

「湊は、こういうの嫌い?」

「……いや」

嫌いなのではない。知らなかったのだ。

誰かと肩を寄せ合い、他愛のない物語に涙し、時間を浪費することが、これほどまでに豊潤であることを。

彼女は僕が捨てた「青春」を知りたがり、切り捨てた「休日」を欲しがり、殺したはずの「恋心」をなぞった。

ミライの瞳に映る僕は、天才外科医ではない。ただの、少し疲れた男だ。

彼女と過ごす刹那が、砂時計の砂のようにサラサラと落ちていく。

その砂粒は、ダイヤモンドよりも美しく輝いていた。

許されるなら、この琥珀色の時間の中に永遠に閉じ込められてしまいたい。

死へのカウントダウンさえ、彼女の笑顔の前では遠い国の出来事だった。

第3章: 砂上の楼閣、あるいは血の赤

崩壊は、音もなく。

並んで歯を磨いていた朝。鏡の中の自分と目が合う。

口をゆすごうとした瞬間、シンクに真紅の花が咲いた。

喀血。

鮮血が白い陶器を汚し、排水溝へ吸い込まれていく。視界が傾ぐ。冷たいタイルが迫ってくる。

「湊!」

遠くでミライの叫び声。薄れゆく意識の中、頬に触れた彼女の手は、氷のように冷たかった。

消毒液と電子音。

目を開けると、点滴のチューブが腕から伸びている。

ベッド脇に座るミライの輪郭が、薄くなっていた。

西日が彼女を透過し、向こう側のカーテンの柄を映し出している。

「……ミライ?」

顔を上げた彼女の表情は、絶望と慈愛が混ざり合った、聖母のようなものだった。

「ごめんなさい、湊」

「私は、人間じゃない」

路地裏で会ったあの瞬間から、心のどこかで理解していた。

彼女があまりにも、僕に都合よくできていたから。僕の欠落を埋める形をしていたから。

「私は、あなたが契約で売り払った『四十年分の時間』。それが形になったもの」

彼女は胸元を握りしめる。

「病気じゃない。……『本体』と『時間』が離れすぎて、存在が維持できなくなっているの」

彼女は立ち上がり、点滴に手を添えた。

あの日と同じ涙が、透き通った頬を伝う。

「戻して。私を食べて。私をあなたの中に再吸収すれば、あなたはあと四十年生きられる」

言葉の意味が脳に浸透するのに数秒。

彼女を、消す?

この温もりを、笑顔を、人生で唯一の色彩を、ただの寿命という数値に戻す?

「そんなこと……できるわけないだろう」

喉から絞り出した声は掠れていた。だが、ミライは悲痛な笑みで首を横に振る。

「生きて。お願いだから、私の命を使って、生きて」

第4章: 命の定義

「ふざけるな!」

怒号が響く。点滴を引き抜き、よろめきながらベッドを降りる。

滴る血の熱さなどどうでもいい。

「君を食って生き延びる? それが僕の幸せだと本気で思っているのか!」

ミライが後ずさる。彼女の体が、ノイズのかかった映像のようにブレた。

「だって……お兄ちゃんが死んだら、何の意味もないじゃない!」

病室のドアが開く。

車椅子の妹が、鬼のような形相でそこにいた。僕が売った金で最高の手術を受け、血色の良い顔をしている。

「私が助かった意味がない! お兄ちゃんは私のために生きてよ! その化け物を使ってでも!」

妹の絶叫。

かつて愛し、守りたかった命。だが今、その言葉は呪詛のように僕を縛る。

自己犠牲。そうだ、僕はずっとそれに陶酔していた。

自分を削り、傷つけ、他人に尽くすことでしか価値を証明できなかった。

だが、今は違う。

怯え、震え、それでも僕のために消えようとしているミライ。

彼女を殺してまで得る生に、何の価値がある?

僕はミライの前に跪き、その冷たい手を両手で包み込んだ。

「君は、僕の付属品じゃない」

「……でも、私はあなたの時間よ」

「違う。君はミライだ。不味いオムレツを作り、古い映画で泣き、僕の手を握ってくれた、一人の女性だ」

立ち上がる。ふらつく足で、しかし確固たる意志を込めてナースステーションへ向かう。

カルテを掴み、オペ室の予約表を見る。

「湊、何を……?」

「手術をする」

僕は振り返り、二人の女性――血の繋がった妹と、魂の繋がったミライを見据えた。

「僕の持てる全ての技術を使って、君を『僕の時間』から『人間』に書き換える」

それは禁忌。成功の保証などない。

成し遂げれば、僕は「残り時間」の全てを使い果たす。

「やめて! それじゃあ、あなたが!」

駆け寄ろうとするミライの肩を抱き寄せ、耳元で囁く。

「これが、僕が選んだ『未来』だ」

第5章: 永遠の0日目

無影灯の白光が世界を染め上げる。

手術台にはミライ。麻酔で眠る顔は、天使のように安らかだ。

メスを握る。指先の震えはない。

この瞬間、僕はただの天才外科医に戻っていた。

切開。肉体ではない、概念への介入。

彼女を構成する「久遠湊の四十年」という構造式を分解し、独立した「個」としての生命エネルギーへ再構築する。

血管の一本一本、神経の一筋一筋に、僕自身の残りの生命力を流し込んでいく。

アラーム音。心拍数の低下を告げる警告。

視界の端から闇が浸食してくる。指先の感覚が遠のく。

(まだだ、まだ足りない)

僕の心臓が打つたびに、ミライの頬に赤みが差していく。

僕の呼吸が浅くなるたびに、彼女の胸が力強く上下する。

命の譲渡。

かつて五十億で売った時間を、今、無償の愛で買い戻し、彼女へと手渡す。

「……あぁ」

視界が滲む。でも、手だけは動く。

最後の縫合。結び目を一つ作るたびに、僕と彼女の繋がりが断たれ、彼女は完全な「他人」へと生まれ変わる。

糸を切った瞬間。

モニターの心電図が、高らかな電子音と共に一直線になった。

ピーーーーーーー。

僕の鼓動ではない。

あれは、手術台の上の彼女の、力強い、自立した心音だ。

倒れ込む床の冷たさは感じなかった。

無影灯の光の中で、まぶたを震わせる彼女。

その琥珀色の瞳が開かれる瞬間を夢見ながら、僕は満ち足りた闇へと落ちていった。

数年後。

海を見下ろす丘の墓地を、風が吹き抜けていく。

季節外れの向日葵が揺れる墓石の前に、一人の女性が立っていた。

風に遊ばれるショートカット。白衣を纏い、首からは聴診器を下げている。

「ねえ、湊」

彼女は石に語りかける。声に湿った悲しみはない。あるのは太陽のような強さ。

「今日のオペも成功したよ。あなたの技術、ちゃんと私の手の中に生きてる」

見上げる空は、あの日二人で見た灰色ではなく、突き抜けるような青。

彼女は歩き出す。一歩、また一歩。

その足取りは力強く、迷いがない。

湊が捨て、拾い直し、そして命を賭して守り抜いた「未来」が、今、確かな鼓動と共に歩んでいく。

陽光の中、彼女の影だけが、どこまでも長く伸びていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 久遠 湊 (Minato Kuon): 天才外科医。妹のために自分の未来(40年)を50億で売る。効率主義者だったが、ミライとの出会いで「無駄な時間」の尊さを知る。
  • ミライ (Mirai): 湊が売った「40年分の時間」が具現化した存在。琥珀色の瞳は「保存された時間」の象徴。湊を愛し、彼を生かすために消滅しようとする。
  • : 生への執着の象徴。湊の自己犠牲のトリガーであり、後半では「ただ生きているだけ」の状態と「意味のある生」を対比させる役割を担う。

【物語の考察】

  • 命の価値と可視化: 50億という「金額」と、ミライという「人格」。抽象的な寿命を具現化することで、湊は初めて自分の人生を客観視し、愛することができた。
  • 手術というメタファー: 最終章の手術は、医療行為であると同時に「概念の書き換え」である。自分自身(現在)を犠牲にして、愛する者(未来)を確立させるという、究極の継承の物語。
  • 琥珀色の意味: 樹脂が長い時間をかけて宝石になる琥珀は、湊が失ったはずの時間が、ミライの中で美しく結晶化していたことを示唆している。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る