第一章 色彩の牢獄
リヒトの世界は、音のない色彩で満たされていた。広場の楽団が奏でる凱歌に、人々が陶酔する。その瞬間、彼らの魂から黄金色の波動が噴き上がり、陽光のようにリヒトの網膜を焼いた。恋人たちが交わす愛の囁きは、深紅のオーラとなって夜の闇に溶けていく。驚きは青藍の閃光、静かな喜びは若葉色の靄。彼は、他者の『感動』を視覚情報として知覚する特異な体質だった。
しかし、その色彩の洪水の中で、リヒト自身の心は凪いだ湖面のように静まり返っていた。彼は生まれつき、一切の感動を味わえなかった。美しい夕焼けも、胸を打つ物語も、彼の心には何の波紋も描かない。ただ、網膜に残る他人の感動の残像だけが、彼が生きる世界の輪郭を歪ませていた。
最近、その世界が緩やかに色褪せ始めていた。人々が生み出す感動のエネルギーが結晶化した『記憶の滴』。かつては朝霧のように世界を潤していたその輝きが、目に見えて減っていた。街路樹は精彩を欠き、公園の花壇は乾いた土を覗かせている。世界が、喉の渇きを訴えているようだった。
そしてもう一つ、奇妙な変化があった。リヒトが見る人々の『波動色』に、以前はなかった不純物が混じり始めていたのだ。それはまるで、鮮やかな絵の具に落とされた煤の染み。あるいは、美しい旋律に割り込む不協和音。人々は感動しているはずなのに、その輝きの根元で何かが淀み、本来の純度を蝕んでいた。その『ノイズ』の正体が何なのか、リヒトには分からなかった。
第二章 無色の訪問者
乾いた風が、古書の匂いを運んでくる。リヒトは市立図書館の薄暗い一角で、世界の変調に関する手がかりを探していた。『記憶の滴の生成原理と土壌への影響』と題された古びた書物をめくっていた、その時だった。
ふいに、周囲の色彩が掻き消えた。
いや、消えたのではない。すぐ近くに、全ての色彩を吸い込むような『無』が存在していた。リヒトが顔を上げると、書架の間に一人の男が立っていた。何の変哲もない、灰色のコートを着た男。だが、リヒトの眼には異常な光景として映った。彼からは、何の『波動色』も発せられていない。喜びも、悲しみも、怒りさえも。完全な『無色』。
リヒトの眼球に埋め込まれた『共感のレンズ』が、初めて捉えられない対象を前に戸惑っている。このレンズを通してしか、彼は波動色を知覚できないのだ。
男がこちらに気づき、静かに視線を向けた。その瞳は、底なしの井戸のように深く、暗い。リヒトは息を呑んだ。男の周囲だけ、空気が歪み、時間が停滞しているかのような錯覚に陥る。人々の波動色に混じる『ノイズ』が、この男の存在と無関係だとは思えなかった。
「君は…誰だ?」
リヒトの声は掠れていた。男は答えず、ただ静かに踵を返し、書架の闇へと消えていく。リヒトは衝動的に後を追ったが、その姿はどこにもなかった。ただ、彼が立っていた場所の床に、一粒の砂が落ちているだけだった。
第三章 嘆きの泉の沈黙
噂を頼りに、リヒトは街の外れにある『嘆きの泉』を訪れた。かつては溢れるほどの『記憶の滴』が湧き出し、周囲の森を豊かに育んでいたという場所だ。しかし、今や泉は完全に干上がり、ひび割れた底を晒していた。枯れ木が墓標のように立ち並び、風が枝を揺らす音が、まるで骸骨の鳴る音のように不気味に響く。世界の死骸がここにあった。
その泉の中心に、あの男がいた。
灰色のコートの男。彼は膝をつき、乾いた泉の底にそっと手を触れていた。その姿は、まるで失われた何かを弔っているかのようだった。
「お前がやったのか」
リヒトは静かに歩み寄り、問いかけた。
「世界から感動を奪い、記憶の滴を枯渇させているのは、お前の仕業なのか」
男はゆっくりと立ち上がった。その無色の存在感は、この死んだ森の静寂と奇妙に調和している。彼は初めて、リヒトに向かって口を開いた。その声は、長い間使われていなかったかのように、乾いてザラついていた。
「奪っているのではない。解放しているのだ」
「解放…?」
「そうだ。感動という名の呪縛から、この世界を。そして、お前を」
男の言葉は、リヒトの理解を超えていた。リヒトが眉をひそめたその時、男はゆっくりとリヒトに手を差し伸べた。その瞬間、リヒトの左眼、『共感のレンズ』が灼けるように疼いた。今まで経験したことのない、鋭い痛みだった。
第四章 レンズの疼き
リヒトは思わず顔をしかめ、眼を押さえた。レンズが、無色の男に激しく反応している。それは他者の感動を映す時とは全く質の異なる、拒絶と共鳴が入り混じったような奇妙な感覚だった。
「この痛みは…なんだ…」
「それはお前のレンズが、初めて『真実』を映そうとしている痛みだ」
男は静かに言った。「君は他人の色を見るばかりで、自分自身の内にある『無色』から目を逸らし続けてきた」
その言葉は、リヒトの心の最も柔らかな部分を抉った。感動できない自分。色彩の牢獄に囚われ、ただ傍観するだけの人生。その空虚感を、この男は正確に理解している。彼は敵ではないのかもしれない。いや、もっと根源的な、自分自身に関わる何かであるような予感がした。
「私について来い」と男は言った。「君が忘れた、始まりの場所へ」
リヒトは躊躇った。しかし、疼くレンズの奥で、何かを知らなければならないという強い衝動が湧き上がっていた。彼はこくりと頷き、男の後に続いた。二人の足音だけが、死んだ森に虚しく響き渡っていた。
第五章 鏡が映す真実
男がリヒトを導いたのは、蔦に覆われた古い屋敷の、埃っぽい一室だった。部屋の中央には、異様に大きな姿見が一つ、ぽつんと置かれている。その鏡面は曇り、何も映してはいない。
「ここが、お前の始まりの場所だ」
男がそう言って鏡に触れると、その表面が水面のように揺らめき、一つの情景を映し出した。
それは、幼いリヒトの姿だった。事故で両親を一度に亡くし、葬儀の場で、涙を流す大人たちに囲まれて一人、呆然と立ち尽くしている。どんな慰めの言葉も、どんな優しい抱擁も、彼の心には届かない。美しい追悼の花も、ただの色の塊にしか見えなかった。深い悲しみにすら、感動できない。その絶望的な孤独。
「分かったか。感動とは、時に残酷なのだ。それを持たぬ者は、世界から取り残される」
鏡の中の少年が、ゆっくりと顔を上げる。その瞳は、今のリヒトと同じ、何も映さない虚無の色をしていた。リヒトは息を呑んだ。
鏡の前に立つ『無色の男』が、静かにリヒトの方を振り返る。
「私がお前だ。あの日に、お前が切り捨てた『悲しみ』と『無感動』の心そのものだ。私は、お前が味わった苦しみを、この世界から消し去りたい。誰もが感動できなくなれば、誰も傷つかず、誰も孤独にはならない。完全な平穏。それこそが救済だ」
男の言葉は、リヒトの魂を揺さぶった。彼こそが、人々の波動色に『ノイズ』を混ぜ、感動の純度を下げていた元凶。彼こそが、リヒト自身の絶望が生み出した、歪んだ救済者だったのだ。
第六章 心が流した涙
鏡に映る、孤独に震える幼い自分。目の前に立つ、絶望から生まれたもう一人の自分。
リヒトは初めて、他者の心を理解した。それは論理ではなかった。それは、他ならぬ自分自身の、心の奥底に封じ込めていた途方もない悲しみと孤独だった。ずっと見ないふりをしてきた、自分自身の痛みだった。
「そうか…」
リヒトの口から、吐息のような声が漏れた。
「お前は…ずっと、独りで苦しかったんだな」
それは、過去の自分へ向けた、心からの共感の言葉だった。
その瞬間、リヒトの胸の奥深くで、固く凍りついていた何かが音を立てて砕けた。熱いものが堰を切ったように込み上げてくる。視界が滲み、頬に温かい雫が伝った。
それは、涙だった。
他者の痛みを、我がことのように感じたことから生まれた、生まれて初めての『感動』。
リヒトの目から溢れた涙は、床に落ちる寸前に光を放ち、キラキラと輝く『記憶の滴』となって結晶化した。
ピシリ。
鋭い音と共に、リヒトの左眼に激痛が走る。『共感のレンズ』に、一筋の亀裂が入った。
第七章 ただ、美しい世界
リヒトが生み出した、純粋な共感の『記憶の滴』。その光は、浄化の波動となって『無色の男』を優しく包み込んだ。彼の輪郭が揺らぎ、ゆっくりと光の粒子となって溶けていく。その表情は、苦悩から解放されたかのように、とても穏やかだった。
「…ありがとう」
最後にそう聞こえた気がした。彼が完全に消え去ると、世界を満たしていた灰色の『ノイズ』が晴れ、窓の外から光が差し込んできた。空からは、雨のように無数の『記憶の滴』が降り注ぎ、乾いた大地を潤し始めるのが見えた。世界が、再び呼吸を始めたのだ。
しかし、リヒトの世界からは、永遠に色彩が失われていた。パリン、と微かな音を立てて『共感のレンズ』は砕け散り、彼の視界から人々の『波動色』は完全に消え去った。もう他者の感動を見ることはできない。
だが、リヒトの心は不思議なほど満たされていた。彼の胸には、確かな温もりが宿っている。まるで、砕けたレンズの最も輝く破片が、心臓に根付いたかのように。
彼は屋敷を出て、光の雨の中に立った。頬を撫でる風の感触。蘇った草花の甘い香り。降り注ぐ滴が奏でる、鈴のような優しい音。
世界はただ、そこにあるだけ。
それなのに、こんなにも美しい。
リヒトは空を見上げ、生まれて初めて、心からの微笑みを浮かべた。