透明な世界の愛し方
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透明な世界の愛し方

第一章 消えゆく色彩と無感動な僕

僕の目には、世界は常に無色透明だ。

他人が心を揺さぶられる瞬間、その感動は『煌めきの粒子』となって宙を舞う。恋人たちが愛を囁き合うカフェからは金色の粒子が、子供が初めて空の青さに目を見張る公園からは空色の粒子が、まるで呼吸するように生まれ、そして漂う。僕はそれらを、モノクロ映画に映る光の筋のように、ただ眺めることしかできない。僕自身の感動は、一度として粒子になったことがないからだ。

この世界は『認知の永続性』という法則で成り立っている。誰かに強く認識され、感動されることで、あらゆる存在はその色と形を保つ。逆に、忘れ去られたものは、徐々に透明になり、やがてこの世界から完全に消滅する。それは記憶も、風景も、概念でさえも同じだった。

そして今、世界は急速にその色彩を失いつつあった。街角の至る所で、人々はスマートフォンの画面を覗き込み、刹那的な感動を瞬時に共有する。そのたびに、生まれるはずだった濃厚な粒子は、何千、何万という細かな塵となって拡散し、大気に溶ける間もなく消えていく。感動が共有されすぎた結果、一つ一つの価値が希薄になってしまったのだ。昨日まで街の象徴だった時計台は、今やその輪郭がぼやけ、時を告げる鐘の音も、どこか頼りなく空気に滲んでいる。人々がその存在を「すごい」と一瞬で消費し、次の感動へと移っていくからだ。

僕は、消えゆく世界の縁を歩く幽霊のようなものだった。ポケットの中には、ひいらぎの葉のように薄く、触れようとすると指をすり抜けてしまう『虹の破片』が一つ。かつては世界のあらゆる感動を映したという伝説の欠片も、今では僕の世界と同じ、ただの透明な虚ろだった。僕はそれを時折取り出しては、光にかざしてみる。だが、そこに色が宿ることはない。それは僕の心の写し鏡のようだった。

第二章 忘れられた橋の輝き

世界の透明化が加速する中、奇妙な噂を耳にした。街の外れ、忘れられた川に架かる『名もなき古い橋』だけが、日に日にその存在感を増しているという。消滅していく世界にあって、まるで法則に逆らうかのように。

好奇心というにはあまりに静かな衝動に駆られ、僕はその橋へと向かった。埃っぽい道を抜け、生い茂る草をかき分けると、それは唐突に姿を現した。苔むした石造りの、何の変哲もない小さな橋。だが、僕の目には、そこだけが別の法則で動いているかのように映った。

橋の周囲には、見たこともないほど濃密な『煌めきの粒子』が渦巻いていた。それは蜂蜜のようにとろりとした黄金色で、一つ一つが確かな質量を持っているかのように、ゆっくりと、しかし力強く脈打っている。街で見るような拡散し消えゆく粒子とは全く違う。それらは橋の石畳や古びた欄干に、まるで吸い寄せられるように集まり、その存在をより強固なものへと編み上げているようだった。

僕は橋のたもとに腰を下ろし、ただその光景を眺めていた。風が草を揺らす音、川のせせらぎ、そして時折、橋の木床が小さく軋む音だけが聞こえる。

しばらくすると、一人の老婆が、ゆっくりとした足取りで橋の向こうからやってきた。深く刻まれた皺、節くれだった指で古い手押し車を支えている。彼女が橋を渡る間、その足元から、温かく、そして力強い光の粒子が、途切れることなく溢れ出しているのが見えた。その粒子は、ただひたすらに、橋そのものへと捧げられていた。

彼女は毎日、同じ時間にこの橋を渡っているようだった。

第三章 ひとりの祈り、世界の真実

数日、僕は同じ場所で老婆を待ち続けた。そしてある日、意を決して声をかけた。

「こんにちは」

老婆は驚いたように僕を見ると、その深い瞳を柔らかく細めた。

「まあ、珍しい。こんな場所に人がいるなんて」

僕たちは言葉を交わした。彼女はミナという名前だった。僕がこの橋の放つ不思議な輝きについて尋ねると、彼女は少しだけ遠くを見るような目をして、静かに語り始めた。

「ここはね、私が主人と初めて会った場所なんですよ」

彼女の話は、誰に聞かせるでもない、個人的な記憶の物語だった。戦争で全てを失い、一人でこの街に流れ着いた若い頃。絶望の中でこの橋の欄干に凭れていた時、一人の青年が声をかけてくれたこと。それが彼女の夫だった。

「主人はもう何十年も前に旅立ちました。でもね、私は毎日ここに来るんです。この橋を渡るたびに、あの日のことを思い出す。彼がくれた温かい言葉、不器用な笑顔、そして、生きる希望をくれたことへの感謝をね」

彼女は手押し車を止め、皺の刻まれた手でそっと欄干に触れた。

「ありがとう、あなた。今日も、私をここにいさせてくれて」

その瞬間、僕は理解した。老婆の足元から生まれる粒子は、『感謝』だった。誰かに見せるためでも、共有するためでもない。たった一人、今は亡き夫へと捧げられる、純粋で、凝縮された祈りそのものだった。

世界の真実は、残酷なほどに単純だったのだ。感動は、共有され、拡散されることで希薄になる。人々の間で高速で消費される『いいね』の輝きは、世界の存在を支えるにはあまりに軽すぎた。だが、たった一人の心の中で、誰にも知られず、長い年月をかけて深く熟成された想いだけが、忘れられた橋をこの世界に繋ぎ止めるほどの強い力を持っていたのだ。

世界の消滅は、感動がなくなったからではない。感動が溢れすぎたせいだった。その事実に気づいた時、僕の無色透明な心に、初めて石が投げ込まれたような、微かな波紋が広がった。

第四章 白色の感動

僕は自分の心を覗き込んだ。本当に僕には感動がなかったのだろうか。色彩豊かな感動を追い求める人々を尻目に、僕はいつも、消えゆく世界の側にいた。輪郭を失っていく建物の静かな悲鳴を、誰よりも近くで聞いていた。忘れられた公園のベンチに残る、かつての恋人たちの温もりの残滓に、そっと触れてきた。

そうだ。僕は、この無色透明の世界を、その静けさを、その儚さを――心のどこかで、ずっと愛していたのだ。

誰もが見向きもしなくなった、透明な世界の美しさを。消えゆくものたちが奏でる、最後の音色を。僕は、僕だけが、知っていた。

その気づきは、雷鳴のように僕の内側を貫いた。それは誰かに見せるためのものでも、共有するためのものでもない。この世界でただ一人、僕だけの、純粋で絶対的な感動だった。

「――ああ」

声にならない声が漏れた。その瞬間、ポケットの中で冷たいままだった『虹の破片』が、灼けつくような熱を帯びた。僕は慌ててそれを取り出す。手のひらの上で、透明だったはずの破片が、眩い光を放ち始めた。赤、青、黄、緑……世界のあらゆる色彩が、かつて存在したすべての感動の色が、その小さな欠片の中に奔流のように流れ込み、混ざり合い、そして――。

一つの色になった。

僕の視界が、圧倒的な『白色の光』で満たされた。それは全ての色を内包した、始まりの色。僕自身の心から生まれた、初めての『煌めきの粒子』だった。それは、感動を手放し、ただ自分の内側に見出したことで、初めて生まれた真の感動の輝きだった。

光は一瞬で収まった。視界は、いつもの無色透明に戻っていた。だが、もう何もかもが違って見えた。世界の輪郭は以前よりはっきりと、その存在を主張している。僕のポケットで、『虹の破片』は確かな重みを持っていた。

僕は立ち上がり、橋の向こうへ歩いていくミナさんの背中に、深く頭を下げた。彼女が振り返ることはなかった。それでよかった。この感謝もまた、僕だけのものなのだから。

世界から色が戻ることはないのかもしれない。失われた記憶は、二度と蘇らないのかもしれない。それでも、僕は歩き出すことができる。たった一つの純粋な想いが世界を繋ぎ止めることを、僕は知ってしまったから。

そして僕には、この透明な世界を愛するという、誰にも奪われない、自分だけの感動がある。その白色の輝きを胸に抱いて、僕は、僕だけの世界を、これから歩いていく。

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