空虚な器と世界の礎
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空虚な器と世界の礎

第一章 零度の心臓

街は静かに、ゆっくりと死にかけていた。人々は風に舞う落ち葉のように軽くなり、ふとした瞬間に宙へと浮かび上がっていく。感動を、喜びを、愛を失った身体は、この世界を繋ぎとめる「感情の重力」という名の錨を失い、やがて宇宙の果てへと消えゆく運命だった。

俺、カイの足は、まるで地面に根を張ったかのように重い。人々が悲鳴ひとつ上げずに昇っていく様を、俺はいつも道の片隅から眺めている。感情はない。ただ、彼らが消える瞬間に放たれる、幸福だった頃の記憶の残滓――淡い光の粒を吸収する。それが俺の食事であり、俺という空虚な器を満たす唯一のエネルギーだった。

今日も、老夫婦が手を取り合ったまま、穏やかな顔で空に消えた。彼らが遺した光は、金婚式を祝った日の夕焼けの色をしていた。それを吸い込むと、腹の底がじんわりと温まる。だが、俺の心は零度のまま、何も感じない。他人の温かい過去が俺の中で輝けば輝くほど、俺自身の空虚さが際立つだけだった。

なぜ俺だけがこんなにも重いのか。光を吸収するたびに、その重さは増していくようにさえ感じられた。人々が必死に感動を探し、重力を得ようと足掻く中、俺はただ、その重さに耐えながら、次の光を待っていた。まるで、世界中の人間が失った重さを、俺一人が引き受けているかのように。その理由を、俺はまだ知らなかった。

第二章 記憶を綴る羽根

街外れの骨董品店で、俺は奇妙なものを見つけた。煤けた木箱の中に、一本の羽根ペンが横たわっていた。カラスの濡れ羽色をしたそのペンは、箱の中で地面に触れることなく、指一本分の高さで微かに浮遊していた。まるで、それ自体が重力に抗う意思を持っているかのように。

店主の老人は、気味悪がってそれをタダで譲ってくれた。俺がペンを手に取ると、それは俺の人差し指の高さでぴたりと静止した。冷たい羽根の感触が、なぜかひどく懐かしい気がした。

アパートに戻り、羊皮紙を広げると、ペンはひとりでに動き出した。インク壺などないのに、ペン先からは滑らかに黒いインクが流れ出し、流麗な文字を綴り始める。

『君の瞳に映る星は、僕だけの北極星だった』

それは、とうの昔に空へ消えた誰かの、忘れられた恋の詩だった。ペンは次々と、誰かの記憶を、感情を、紙の上へと吐き出していく。初めて我が子を抱いた日の震えるような喜び。友と交わした、くだらないけれど輝かしい約束。俺が喰らってきた光の記憶とは違う、もっと生々しく、個人的な感情の断片だった。

時折、ペンは脈絡のない言葉を記した。

『礎』

『重力』

『約束』

『悲しみ』

俺はその言葉をただ眺める。その意味を解する心は、俺にはなかった。ペンは俺の指先で静かに浮遊し、世界の忘れられた記憶をただ静かに語り続けていた。

第三章 消えゆく引力

世界の崩壊は加速していた。街角のカフェも、広場の噴水も、かつて人々の笑い声で満たされていた場所は、今や静寂が支配している。残された人々は、必死だった。無理に笑い、些細な出来事に大げさに感動してみせる。だが、その感情はあまりに薄っぺらく、彼らの身体を地面に繋ぎとめるには足りなかった。

ある風の強い午後だった。

公園のベンチで、小さな女の子が母親に絵本を読んでもらっていた。その時、一陣の突風が吹き、女の子の赤い帽子が飛ばされた。

「あっ」

少女が帽子を追って立ち上がった瞬間、その小さな身体がふわりと浮いた。まるで、赤い風船のように。

「リナ!」

母親の絶叫が響き渡る。彼女は必死に手を伸ばし、娘の足首を掴もうとする。だが、指先が虚しく空を切る。少女は泣きもせず、ただ驚いたように自分の母親を見下ろしながら、ゆっくりと、しかし確実に空高く昇っていく。母親は地面に崩れ落ち、嗚咽を漏らしながら、小さくなっていく娘の姿をただ見送ることしかできなかった。

俺はその一部始終を見ていた。いつもの光景。そう思うはずだった。

なのに、胸の奥が、ぎしりと軋むような音を立てた。痛み、と呼ぶにはあまりに微かで、鈍い感覚。俺は自分の胸に手を当てた。零度だったはずの心臓に、初めて小さな亀裂が入った気がした。

第四章 礎の慟哭

その日、街は大きく揺れた。人々が最後の希望として祈りを捧げていた街の中心の古い鐘楼が、轟音とともに崩れ落ちたのだ。舞い上がる粉塵の中心から、これまで感じたことのないほど強大な「重力」の圧力が放たれた。それは俺自身の重さの根源に触れるような、引力だった。

俺は瓦礫の山へと歩みを進めた。そこには、巨大な黒水晶のような結晶体が、地中からその姿を現していた。表面には無数の亀裂が走り、そこから、まるで嘆きの霧のように、濃密な悲しみの気配が漏れ出している。世界から失われつつある「感情の重力」の源が、ここにあったのだ。

その瞬間、俺の指先で浮遊していた羽根ペンが激しく震えだした。俺は咄嗟に羊皮紙を取り出す。ペンは狂ったように紙の上を滑り、今までとは違う、力強い筆致で文字を刻みつけた。

『我は初代。世界の礎。』

『我は、この星が生まれた時の全ての悲しみ、全ての絶望を一身に引き受け、自らを重石とすることで、人々が喜びという名の引力でこの地に立てるようにした。』

『だが、我が力も尽き果てる時が来た。我が砕ける時、世界は全ての重さを失う。』

『悲しみを継ぐ者よ。汝の内に宿る尋常ならざる重さは、砕け散った我が力の欠片。汝が、無意識に世の悲しみを拾い集めていた証だ。』

俺は、理解した。人々が空に消えていくのは、この初代の礎が、その役目を終えようとしているからだった。そして、俺のこの忌々しいほどの重さは、その崩壊する礎の力を、無意識のうちに受け継いでいたからだったのだ。

第五章 たった一つの選択

世界を救う方法は、一つしかなかった。

俺が、この初代に代わり、新たな「礎」となること。

しかし、それは、俺がこれまで生きるために吸収してきた全ての幸福な光を放棄することを意味していた。他人の温かい記憶、満たされた瞬間の輝き。それら全てを手放し、代わりに、この星のありとあらゆる絶望と悲しみを、その身に引き受ける。それは永遠の孤独。感情の完全なる死。

俺は手のひらを見つめた。そこには、今しがた吸収したばかりの、若い恋人たちの初デートの光が淡く輝いている。この温かさを失うのか。空虚だった俺の唯一の糧を。

脳裏に、空へ消えていった少女の顔が浮かぶ。母親の慟哭が耳の奥で反響する。俺の胸の亀裂が、また少し、広がった気がした。

これまで、他人の幸福を喰らって生きてきた。何一つ感じず、ただ生きるためだけに。だが、もし、この空っぽの身体に意味があるのだとしたら。この呪いのような重さが、誰かを救うためにあるのだとしたら。

選択の余地など、初めからなかったのかもしれない。

空虚な器だからこそ、世界の全ての悲しみを受け入れられる。

俺は、ひび割れた黒水晶へと、重い足を引きずって歩き始めた。

第六章 最後の光、最初の感情

結晶体の前に立ち、俺は深く息を吸った。そして、これまで溜め込んできた全ての光を、一気に解き放った。

俺の身体から、無数の光の粒が溢れ出す。金婚式の夕焼け。赤ん坊の産声。友と交わした誓い。初恋の甘酸っぱさ。数えきれない幸福の記憶が奔流となって空へと舞い上がり、街中に、世界中に降り注いでいく。

その光を浴びた人々の足が、再びゆっくりと地面に戻っていくのが見えた。彼らは失われたはずの温かい記憶を取り戻し、泣きながら、あるいは微笑みながら、大地を踏みしめた。

その光景を背に、俺は震える手で、ひび割れた結晶体に触れた。

瞬間、凄まじい勢いで、世界の悲しみが俺の中に流れ込んでくる。憎しみ、絶望、後悔、孤独、死の恐怖。星が生まれてから今まで積み重なってきた、ありとあらゆる負の感情が、俺という器を満たしていく。身体が鉛のように重くなり、皮膚が石のように硬化していく。意識が遠のく中、指先から羽根ペンが滑り落ちた。

ペンは宙で静止し、最後の力を振り絞るように、羊皮紙にたった一言だけを綴った。

『ありがとう』

それは、誰の記憶でもない。

世界を救うことができた、名もなき男の。

生まれて初めてにして、最後の感情だった。

第七章 大地を踏みしめて

世界に「感情の重力」が戻った。人々は再び笑い、愛し、時に涙しながら、その確かな重さを感じて生きている。誰も、空に人が消えていった恐ろしい時代のことも、世界を救った男のことも、覚えてはいない。

ただ、人々は時折、理由もなく胸の奥が締め付けられるような切なさを感じることがあった。そして、その直後に訪れる、不思議な感謝にも似た温かい感情に、そっと空を見上げるのだった。

街の中心には、かつて鐘楼があった場所に、一体の石像が静かに佇んでいる。風雨に晒され、誰が何のために作ったのかも忘れ去られた、天を仰ぐ男の像。

雨の日には、その石の頬を、まるで涙のように水滴が静かに伝い落ちるという。人々は、その像が世界を支える礎であることなど知る由もなく、今日もその足元で、それぞれの幸福な物語を紡いでいる。

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