忘却の彩度

忘却の彩度

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第一章 灰色の依頼人

俺の仕事は、忘れることだ。

事務所の窓から見える街は、いつも薄い霧に包まれたように色褪せていた。人々は俯き、足早に過ぎていく。彼らの傍らには、かつては主人の感情を映して鮮やかに揺れていたはずの「感情の影」が、今は水で薄めたインクのように頼りなく漂っているだけだ。世界規模で進行する「影離れ」。影が主人から離れ、虚空に溶けて消えるその現象は、世界の彩度を確実に奪い続けていた。

ドアベルが、錆びた音を立てた。入ってきた女性の影は、ほとんど透明に近かった。

「あなたが、追想士のカイさん?」

リナと名乗る彼女の声は、ひどく乾いていた。亡くした恋人、奏(かなで)の影が消えたのだという。彼はヴァイオリニストで、その才能は万人が認めるところだった。

「彼が…奏が、最後に何を感じていたのか知りたいんです。彼の影は、まるで叫ぶようにして…消えてしまったから」

彼女の瞳は、助けを求めるように揺れていた。俺は黙って頷く。この仕事は、常に喪失から始まる。依頼人の喪失、そして俺自身の喪失から。

俺の能力は、自らの「感動の記憶」を消去することで、他者の「失われた感動」を一時的に追体験できるというもの。一度消した感動は、二度と俺の心に戻ることはない。胸に穿たれた空洞が、またひとつ増えるだけだ。

「わかりました。代償は、俺の記憶です」

そう告げると、リナは息を呑んだ。俺は目を閉じ、意識を過去へと沈める。指先が冷たくなっていく。選ぶのは、取るに足らない、だが確かに俺の一部だった記憶。

――そうだ、あれは初めて補助輪なしで自転車に乗れた日。転んで擦りむいた膝の痛みと、それを追い越していった風の匂い。世界が自分の力で広がっていく、あの万能感。

その記憶が脳裏で白く燃え尽きる。代わりに、胸の空洞に流れ込んできたのは、知らないはずの感覚だった。

第二章 触れた残響

それは、音だった。

完全な静寂。真空の宇宙に放り出されたような無音の世界で、たった一音、澄み切ったヴァイオリンの音が響き渡る。その音は波紋のように広がり、冷え切った空間を震わせ、星屑のようにきらめいた。完璧な調和。究極の孤独の中で見つけた、唯一無二の響き。

これが、奏が最後に追い求めていた感動の断片か。

「……何か、わかりましたか?」

リナの不安げな声で、俺は現実へと引き戻される。

「音です。とても純粋な、たった一つの音の記憶が」

俺の言葉に、彼女は唇を噛んだ。

「奏はいつも言っていました。『世界から音が消えていく。僕の音楽も、いつか誰にも届かなくなるんじゃないか』って…」

その言葉は、俺の心に小さな棘となって突き刺さった。影離れは、単に影が消える現象ではない。それは、感動そのものが世界から蒸発していく過程なのだ。奏は、人より鋭敏にその予兆を感じ取っていたのかもしれない。世界の色彩が失われるように、世界から音が、匂いが、温もりが失われていく。

「彼のアトリエに、何か手がかりがあるかもしれません」

リナの提案に、俺は頷いた。奏の失われた感動を追うことは、この色褪せた世界の謎に繋がっている。そんな予感が、消去した記憶の跡地で冷たく疼いていた。

第三章 涙の結晶

奏のアトリエは、主を失った楽器のように静まり返っていた。壁には楽譜が散乱し、床には松脂の甘く切ない香りが微かに残っている。彼の影が消えたのは、この場所だという。俺たちは、彼が遺したものを一つひとつ丁寧に手にしていく。そのどれもが、彼が生きた証であり、失われた感動の残骸だった。

リナが、ヴァイオリンケースの隅で小さな何かを見つけた。

「これ……」

彼女の指先で光る、指の爪ほどの大きさの結晶。それはまるで、凍りついた涙のようだった。影が零す涙の結晶。影離れを起こす寸前の、極限の感情が固まったものだと古い書物で読んだことがある。実物を見るのは初めてだった。

俺がそれに触れた瞬間、激しい奔流が思考を飲み込んだ。

歓喜、絶望、焦燥、そして純粋な愛。

無数の感情が渦を巻き、一つのメロディを奏でようとしている。それは、奏一人のものではない。もっと巨大な、名もなき人々の声なき声の集合体。彼らの影が消える瞬間の、最後の叫び。

「うっ……!」

思わず結晶を落とす。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

「カイさん、大丈夫!?」

リナが駆け寄ってくるが、彼女の声は遠い。俺は悟った。奏が感じていたのは、世界の不協和音だ。彼は、自分の音楽でこの世界の崩壊を止めようとしていたのではないか。そして、その重圧に耐えきれず、彼の影は砕け散ったのだ。

第四章 世界の不協和音

この謎を解くには、もっと深く潜らなければならない。俺は、より大きな代償を払う覚悟を決めた。

事務所に戻り、俺は再び目を閉じる。次に消すのは、幼い頃の、かけがえのない記憶だ。

――病気がちだった母が、一度だけ、俺が描いた拙い絵を見て微笑んでくれた。その手の温もりと、「上手ね」という優しい声。俺の世界が、初めて肯定された瞬間。

その温かい光景が、無慈悲に掻き消されていく。胸の空洞が絶望的なまでに広がり、冷たい風が吹き抜ける。そして、流れ込んできたのは、もはや個人の感動と呼べるものではなかった。

それは、人類という種が積み重ねてきた、途方もない時間の地層だった。初めて火を見た驚き、愛する者と出会った喜び、星空を見上げた畏怖。それら無数の強烈な感動が、飽和し、圧縮され、互いに押し合い、悲鳴を上げていた。

世界は、感動で満たされすぎていたのだ。

処理能力を超えた感情の洪水。人々が日々消費する物語、音楽、映像――それらが生み出す膨大な感情のデータが、人類の集合意識という巨大なサーバーを圧迫していた。

「影離れ」は、その臨界点が生み出した自己防衛本能だった。あまりに強すぎる「感動」の記録は、魂にとって猛毒となりうる。だから、影は主人を守るために、最も危険で純粋な感動の記録を抱えたまま、自ら消滅することを選んでいたのだ。

俺は、その真実に慄然とした。世界から色彩が失われていくのは、感動がなくなったからではない。むしろ逆だ。感動が溢れすぎた結果、世界が自らを守るために感覚のボリュームを下げているのだ。

第五章 飽和する魂

どうすればいい? このままでは、世界はいずれ完全な無感動、色のない無音の世界に行き着いてしまう。

答えは、俺自身の能力の中にあった。

俺が感動を消去する度に、他者の失われた感動が流れ込んでくる。これは単なる追体験ではない。俺の心に開いた空洞は、飽和した集合意識から封印された感動を少しずつ引き抜き、外部へと逃がすための「排出口」だったのだ。俺は、この世界が生み出した、名もなき安全弁だった。

だが、小さな穴から水を抜くようなこの行為では、もう間に合わない。ダムが決壊する寸前なのだ。

やるべきことは、一つしかなかった。

「リナ」

俺は、震える声で彼女の名を呼んだ。

「俺の、一番大切な記憶を消す」

リナの顔から血の気が引いた。「だめ、それだけは……!」

俺の一番大切な記憶。それは、この灰色の世界で、初めてリナに出会い、彼女の憂いを帯びた笑顔にどうしようもなく心を奪われた、あの日の記憶だった。それを失えば、俺が俺である理由は、もう何も残らない。

「止めないでくれ。これが、奏が、そして世界中の消えていった影たちが望んでいることなんだ」

リナの瞳から、大粒の涙が零れた。俺は、その涙を拭うこともできず、ただ彼女の顔を目に焼き付けた。これが、俺が見る最後のリナの顔になる。

俺は、目を閉じた。

ありがとう、リナ。君に出会えたことが、俺の人生最高の感動だった。

その光が、俺の中で静かに、永遠に消えた。

瞬間、世界が砕け散るような衝撃が俺を貫いた。俺の意識は個の境界を越え、人類の集合意識の最深部――封印された感動の海へと溶けていく。

第六章 最後の一滴

そこは、言葉を絶する光と音の奔流だった。全ての始まりの感動、全ての終わりの感動が渦巻く、感情の銀河。俺は、自らの存在の全てを賭けて、この封印の扉を内側からこじ開ける。

俺の身体が、魂が、光の粒子となって霧散していく。

これまで消してきた全ての記憶――自転車の風も、母の温もりも、そしてリナの笑顔も――全てが触媒となり、巨大なエネルギーとなって爆発した。俺はもはやカイではない。俺は、世界に感動を還すための、巨大な扉そのものになった。

ああ、これが、奏が見ていた景色か。

これが、全ての影が守ろうとした、あまりにも美しく、あまりにも危険な光か。

俺の影が、俺という存在が消え去る最後の瞬間に、ぽつりと一粒、涙の結晶を零した。それは、リナの元へと落ちていく。

さようなら。

俺が愛した、色褪せた世界。

第七章 君がいた世界の色

世界に、色が戻った。

空は突き抜けるように青く、街路樹の緑は目に染みるほど鮮やかで、人々の笑い声は音楽のように響き渡った。まるで、分厚いフィルターが取り払われたかのように、世界は本来の輝きを取り戻していた。人々は空を見上げ、隣の人と微笑み合い、忘れていたはずの温かい感情が胸に込み上げてくるのを感じていた。透明だった影たちも、主人の心に呼応するように、それぞれの色を取り戻していく。

リ-ナは、アトリエの窓辺に佇んでいた。

なぜだか、涙が止まらなかった。悲しいわけではない。むしろ、世界がこんなにも美しいことに、胸が震えるほど感動していた。

ふと、自分の掌に、小さな光る結晶が握られていることに気づく。いつから持っていたのだろう。まるで、大切な誰かからの贈り物のような気がした。

彼女がその結晶にそっと触れると、脳裏に一つの光景が流れ込んできた。

それは、信じられないほど美しい色彩に満ちた世界で、一人の女性が微笑んでいる姿だった。

その女性は、自分自身だった。

そして、その光景を、とても優しい、愛おしむような眼差しで見つめている誰かの存在を感じた。その誰かの名前を、思い出せない。顔も、声もわからない。

けれど、その温もりだけは、確かにリナの心に残っていた。

彼女は空を見上げた。世界に満ちる無数の光の粒のひとつひとつが、その誰かさんの優しい眼差しのように思えた。リナは、もう一度、今度は微笑みながら涙を流した。

救世主の名を、覚えている者は誰もいない。

ただ、世界はかつてないほどの感動に満ち、新たな物語を紡ぎ始めていた。

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