第一章 灰被りの略奪者
錆びついた雨が、アスファルトを叩いている。
視界を埋め尽くすのは、無限の灰色。空も、ビルも、人々の瞳さえも、色彩を失って久しい。
私は濡れたフードを目深にかぶり、路地裏を駆けた。
懐の中で、盗んだばかりの小瓶が熱を帯びている。
「待て! 泥棒!」
背後で怒声が響く。
警官の笛の音。泥を跳ね上げ、私は壁を蹴って屋根へとよじ登った。
息が切れる。肺が焼けるように熱い。
けれど、足を止めるわけにはいかない。
震える手で懐の小瓶を取り出す。
分厚いガラスの中で揺らめいているのは、鮮烈な『赤』。
さっき、恋人たちが交わしていた『情熱』から抜き取った色だ。
この街では、感情こそが唯一の色彩であり、そして最も高価な燃料だった。
「これがあれば……レオは、まだ助かる」
私は灰色の空を見上げ、強く小瓶を握りしめた。
第二章 ガラスの弟
地下の隠れ家は、カビと鉄の匂いがした。
「ただいま、レオ」
軋むベッドの上。
弟のレオが、薄いシーツに埋もれている。
彼の体は、もう半分以上が透けていた。
指先はガラスのように向こう側が透け、血管の代わりに淡い光が脈打っている。
「姉ちゃん……おかえり」
声は、枯れ葉が擦れる音に似ていた。
私は慌てて小瓶の蓋を開ける。
部屋の中に、目が痛くなるほどの赤色が溢れ出した。
「ほら、今日は上玉だよ。これを飲めば、身体の透明化も止まるはず」
スプーンに赤い液体を垂らし、彼の口元へ運ぶ。
けれど、レオは首を横に振った。
「いらないよ」
「な……何を言ってるの! 飲まないと、あんた消えちゃうんだよ!?」
「ううん。姉ちゃん、その色は重すぎるんだ」
レオは透き通った手で、私の手を押し返した。
「他人の幸せを盗んでまで、僕はここにいたくない」
「綺麗事言わないでよ! あんたが消えたら、私はどうすればいいの!」
小瓶が床に落ちた。
真っ赤な液体がこぼれ、床の亀裂へと吸い込まれていく。
私の叫び声だけが、虚しく反響した。
最終章 世界で一番美しい夜明け
その夜、レオの呼吸が浅くなった。
透明化は首元まで進み、もう彼がそこにいるのかどうかも、判別がつかなくなり始めていた。
「ごめんね、姉ちゃん」
「謝らないで……私が、もっといい色を持ってくればよかっただけだから」
私はレオの手を握った。感覚がない。まるで冷たい空気を握っているようだ。
「違うんだ」
レオが微笑んだ。
その笑顔だけは、昔と変わらない。
「僕が欲しかったのは、他人の情熱や幸福じゃない。……姉ちゃんの、その色だよ」
「え?」
レオの透き通った指が、私の頬を伝う涙に触れた。
「悲しみという色は、こんなにも透明で、綺麗なんだね」
彼は私の涙を、そっと指先で拭った。
その瞬間。
レオの体が、強烈な光を放ち始めた。
「レオ!?」
「ありがとう。これでお腹いっぱいだよ」
光の粒子が弾ける。
ガラスの体が砕け散り、部屋の天井を突き抜けて上昇していく。
「待って! 行かないで!」
私は光を追いかけて、外へ飛び出した。
見上げた空に、奇跡が起きていた。
レオだったもの――無数の光の粒が、灰色の雲を食い破っていく。
一粒一粒が、赤、青、黄色、緑、紫へと変化し、夜空に巨大な橋を架けた。
それは、この街が何十年も忘れていた『虹』だった。
『泣かないで。世界はこんなに綺麗だよ』
空から、あの子の声が降ってきた気がした。
私の涙は止まらない。
けれど、その涙に映る世界はもう、灰色ではなかった。
街の人々が窓を開け、空を見上げている。
彼らの瞳に、レオが残した七色が鮮やかに反射していた。
私は虹を見上げながら、初めて、心の底から笑った。
「馬鹿だなぁ、レオは……」
サヨナラは、こんなにも眩しい。