第一章 時雨の訪問者
深川の路地裏に、しとしとと雨が降っている。
軒先を叩く雨音が、古びた長屋の静寂を一層深くしていた。
「……ごめんくださいまし」
湿った風と共に、遠慮がちな女の声が障子越しに届く。
源次郎は、手元の漆刷毛(うるしばけ)を止めた。
皺深く刻まれた目元が、わずかにピクリと動く。
「今日は仕舞いだ。帰ってくれ」
低い声でそう吐き捨て、再び作業に戻ろうとする。
だが、気配は消えない。
「どうしても、見ていただきたい品がございます」
「他をあたってくれと言っている」
「……源次郎様でなければ、直せぬのです」
その声の震えに、源次郎はふと手を止めた。
頑固一徹、偏屈者と疎まれるこの「金継ぎ師」の名を、わざわざ指名してくる客など稀だ。
源次郎は溜息を一つ吐き、重い腰を上げる。
「……開いてるぞ」
障子が静かに開いた。
冷気と共に現れたのは、三十路半ばと思しき女だった。
質素だが品のある紬(つむぎ)の着物。
濡れた髪が、白い項(うなじ)に張り付いている。
女は土間に膝をつき、抱えていた桐箱を丁寧に差し出した。
「これを……お願いしとうございます」
源次郎は無言で箱を受け取り、蓋を開ける。
中には、無惨に砕け散った黒楽茶碗の欠片が、布に包まれて横たわっていた。
ただの割れ方ではない。
床に叩きつけられたような、激情の痕跡。
源次郎の指が、その欠片の一つに触れた瞬間。
ドクリ、と心臓が跳ねた。
見覚えがある。
いや、忘れようはずもない。
土の肌触り、釉薬(ゆうやく)の垂れ具合。
そして何より、高台(こうだい)の裏に刻まれた、未熟な刀傷のような「源」の字。
「……どこで、これを」
源次郎の声が、かすれた。
「主人が、大切に持っていたものでございます」
「主人?」
「はい。……榊原(さかきばら)と申します」
源次郎の全身から、血の気が引いた。
榊原。
五年前に死んだ一人息子、壮太(そうた)を斬り殺したとされる、旗本の姓だ。
指先が震え、欠片がカチリと音を立てる。
「帰れ」
「源次郎様」
「帰れと言っている!」
源次郎は桐箱を突き返そうとした。
だが、女は動かない。
畳に額を擦り付けんばかりに平伏し、声を絞り出す。
「主人は……病で明日をも知れぬ身。死ぬ前に、どうしてもこの茶碗を直したいと。……あの方への詫びとして」
「詫びだと……?」
「どうか、お願い申し上げます。金はいかようにも」
源次郎は奥歯を噛み締めた。
息子は、この茶碗を叩き割って家を出て行った。
『親父のつくる直し物は、ただの誤魔化しだ! 傷を隠して何になる!』
そう叫んだ壮太の背中が、今も瞼に焼き付いている。
その直後だ。
壮太が、辻斬りの凶刃に倒れたという知らせが届いたのは。
下手人と噂されたのが、榊原だった。
だが、証拠不十分でお構いなし。
源次郎は五年間、憎しみだけを糧に生きてきた。
それなのに。
その男の妻が、息子が割った茶碗を直せと言う。
「……置いていけ」
源次郎は、唸るように言った。
「直すとは言わん。だが……見るだけは見てやる」
女は深く頭を下げ、逃げるように去っていった。
残されたのは、雨音と、砕けた息子の形見だけだった。
第二章 錆漆の記憶
夜が更けても、雨は止まない。
源次郎は作業台に向かい、茶碗の破片を並べていた。
漆の独特の匂いが、鼻孔をくすぐる。
麦漆(むぎうるし)で欠片同士を接着する。
単純だが、最も神経を使う工程だ。
少しでもズレれば、元の形には戻らない。
(壮太……)
欠片を繋ぎ合わせるたび、息子の記憶が蘇る。
不器用な子だった。
職人には向かないと、何度も叱責した。
あの日、壮太は言った。
『俺は、傷を隠すんじゃねえ。傷ごと愛せるような、そんな生き方がしてえんだ』
源次郎はそれを、未熟者の戯言だと切り捨てた。
その結果が、この粉々の茶碗だ。
「……馬鹿野郎が」
ポツリと漏れた言葉は、誰に向けたものか。
接着した茶碗を「室(むろ)」と呼ばれる湿度の高い箱に入れ、乾くのを待つ。
数日後。
再び女――志乃(しの)が現れた。
「進み具合は、いかがでしょうか」
やつれた顔で、しかし目は強い光を宿している。
源次郎は、接着し終えた茶碗を取り出した。
継ぎ目からは、黒い漆がはみ出している。
まだ、傷は痛々しいままだ。
「……なぜ、あいつはこれを持っていた」
源次郎は問うた。
志乃は視線を落とし、静かに語り始めた。
「あの日……主人は、お役目の帰りに暴漢に襲われました」
「……なに?」
「多勢に無勢。もはやこれまでと覚悟した時、一人の若者が飛び込んできたのです」
源次郎の手が止まる。
「若者は、主人の盾となり……背中を斬られました。その懐から落ちたのが、この茶碗の包みだったのです」
息ができない。
喉がヒューヒューと鳴る。
「嘘だ……。世間では、榊原様が壮太を……」
「主人は、若者の名誉を守りたかったのです」
志乃の声が強くなる。
「若者は、禁じられていた賭場の喧嘩沙汰に巻き込まれたことになっていました。ですが、真実は違う。主人の命を救い、立派に散ったのです。しかし、当時のお家事情で、主人が襲われた事実を公にするわけにはいかず……」
「それで、息子を……あいつを、ただの犬死ににさせたのか!」
源次郎は立ち上がり、掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。
志乃は動じず、涙を流しながら言葉を続ける。
「主人は悔やんでおりました。毎日、この欠片に向かって手を合わせ……いつか立派に直して、ご遺族にお返ししたいと。それが、武士としての、せめてもの誠だと」
源次郎は、膝から崩れ落ちた。
壮太。
お前は、逃げ出したんじゃなかったのか。
自分の信念を貫いて、誰かを守ろうとしたのか。
『傷ごと愛せるような生き方』
それが、これか。
源次郎は、継ぎ合わされた茶碗を抱きしめた。
冷たい陶器の肌が、今は温かく感じられた。
第三章 黄金の景色
仕上げの日が来た。
源次郎は、早朝から作業場に籠もっていた。
継ぎ目を平らに研ぎ、その上から弁柄漆(べんがらうるし)を塗る。
そして、真綿に金粉を含ませ、そっと撫でるように蒔(ま)いていく。
息を止める。
心臓の鼓動すら邪魔になる。
黒い器の上を、金色の川が流れていく。
割れた痕跡が、傷ではなく、新たな「景色」へと変わっていく。
(隠すのではない……)
源次郎は、筆先を見つめながら心の中で呟いた。
(この傷こそが、お前の生きた証だ)
粉々に砕けた過去。
埋まらない喪失。
それら全てを受け入れ、繋ぎ合わせ、光を与える。
それが、金継ぎ。
「……できたぞ、壮太」
最後の金を蒔き終えた時、西の空から夕日が差し込んだ。
埃舞う作業場が、黄金色に輝く。
その光の中で、茶碗は、以前よりも強く、美しく、堂々とした姿で鎮座していた。
第四章 雪解け
翌日。
志乃がやってきた。
その後ろには、駕籠(かご)が一つ。
中から現れたのは、病み衰え、杖をついた武士、榊原だった。
榊原は源次郎の前に進み出ると、土間に手をついて頭を下げた。
「……申し訳、なかった」
枯れ木のような背中が震えている。
源次郎は何も言わず、桐箱を差し出した。
志乃が震える手で蓋を開ける。
そこには、稲妻のように走る金色の継ぎ目が、黒い肌に鮮烈な美しさを放つ茶碗があった。
「ああ……」
榊原の目から、涙が溢れ出した。
「なんと……なんと美しい……」
源次郎は、静かに言った。
「割れたからこそ、美しくなれるものもありやす。……倅(せがれ)も、そう教えてくれた気がいたしまして」
榊原は茶碗を押し頂き、嗚咽した。
源次郎は、その姿に息子の面影を重ねていた。
もう、憎しみはない。
ただ、静かな誇りが胸に満ちていた。
「代金は、いただきません」
「な、何故……」
「それはもう、あんた様の茶碗じゃねえ。……いや、倅のものでもねえ」
源次郎は、入口の障子を開け放った。
外は快晴。
雨上がりの空に、虹がかかっている。
「それは、『我々の』絆の証でさぁ。大事に使ってくだせえ」
榊原と志乃は、何度も何度も頭を下げて去っていった。
源次郎は一人、作業場に戻る。
刷毛を洗う水が、冷たくて心地よい。
「さて……」
新しい仕事にかかるとするか。
源次郎の顔には、職人の、そして一人の父としての穏やかな笑みが浮かんでいた。