第一章 色彩の洪水
結城新兵衛の世界は、常人には視えぬ色彩で溢れていた。
御勘定方として算盤を弾く日々。その指先から生まれるパチパチという乾いた音は、黄土色の砂粒となって宙に舞い、帳面の上でさらさらと消えていく。上役である大久保様の、ねっとりとしたお呼びの声は、粘り気のある墨色となって新兵衛の肩に垂れかかり、息が詰まるようだった。
音に、色が付いて視える。
物心ついた頃から、新兵衛はこの特異な感覚と共に生きてきた。鳥のさえずりはきらびやかな金糸となり、市井の喧騒は様々な絵の具をぶちまけた混沌の濁流となる。人の声は、その感情によって千変万化の色を宿した。怒りは燃えるような緋色、喜びは弾ける山吹色、そして嘘は、淀んだ沼のような緑色を帯びて揺らめいた。
この感覚は、祝福であると同時に呪いでもあった。人の心の裏側が、望まずとも視えてしまう。故に新兵衛は、次第に人と深く関わることを避けるようになった。黙々と算盤を弾き、数字という色のない世界に没頭することが、唯一の安らぎだった。
その静かな日常が破られたのは、卯月の朝のことだった。城内が、常ならぬざわめきに満ちている。その音は、焦りと困惑が混じり合った、落ち着かない錆色となって空気を満たしていた。
「聞いたか、御金蔵のこと」
「ああ、夜陰に紛れて千両箱が一つ、そっくりそのまま……」
同僚たちの囁き声は、不安げな灰色の煙となって新兵衛の周りを漂う。
御金蔵破り。しかも、奇怪なことに、現場には侵入の痕跡が一切なかったという。錠は破られておらず、厳重な見張りの誰もが、怪しい物音一つ聞いていないと口を揃えた。まるで、千両箱が煙のように消え失せたかのようだった。
「音も無く、気配も無く、か。狐か天狗の仕業じゃあるまいし」
嘲るような声には、棘のある茜色が混じっていた。
新兵衛は、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。城内に渦巻く色彩の洪水が、彼の心をかき乱す。ただの盗難事件ではない。その音の響きには、藩の根幹を揺るがすような、不吉な亀裂の色が滲んでいた。
その日の夕刻、新兵衛は思いがけず、筆頭家老である間部様から直々の呼び出しを受けた。滅多に顔を合わせることのない雲の上の存在だ。間部の書斎に満ちる沈香の香りは、落ち着いた鳶色をしていた。
「結城新兵衛、相違ないな」
間部の声は、深く、磨き上げられた黒檀のような色をしていた。だが、その表面には、微かに紫色のさざ波が立っている。尋常ならざる気配。
「はっ」
「そなた、人の声色から真偽を嗅ぎ分ける才があると聞く。御金蔵の一件、内密に探ってほしい」
予期せぬ言葉に、新兵衛は息を呑んだ。自分の能力を知る者は、ごく僅かなはずだ。
「なぜ、私めに……」
「蔵番頭の黒田が、そなたを推薦した。あの実直な男が言うのだ、間違いあるまい。これは公の吟味ではない。事が露見すれば、藩の威信に関わる。ゆえに、そなたの『耳』、いや『眼』を借りたいのだ」
黒田様。白髪の、実直な老武士だ。彼の声は、いつも曇りのない空のような青色をしていた。その彼が、なぜ。
新兵衛は、逃れることのできない巨大な奔流に巻き込まれていくのを感じていた。彼の呪われた感覚が、今、藩の命運を左右する舞台へと引きずり出されようとしていた。
第二章 鉛色の声
調査は密かに始まった。新兵衛は勘定方の仕事の傍ら、事件に関わった者たちと顔を合わせ、その「声の色」を慎重に探った。
見張りの番士たちの声は、一様に恐怖と自己弁護の入り混じった、濁った茶色をしていた。彼らは何かを隠しているわけではない。ただ、己の失態に怯えているだけだ。
疑いの目は、当然ながら蔵の管理を司る者たちに向けられた。新兵衛はまず、蔵番頭の黒田源内を訪ねた。源内はやつれた様子で、深く刻まれた皺がさらにその陰りを増していた。
「この黒田、生涯の不覚にございます。いかなる罰も覚悟の上……」
絞り出すようなその声は、深い、深い藍色をしていた。それは後悔の色であり、絶望の色でもあった。しかし、新兵恵が最も警戒していた「嘘の緑色」は、一片たりとも混じってはいない。ただ、その藍色の奥底に、まるで硬い意志の結晶のような、一点の煌めきが視えた気がした。
「黒田様、何かお気づきの点はございませんか。どんな些細なことでも」
「……何もない。物音一つ、聞こえなんだ。静かな、夜であった」
源内の言葉は、静かな湖面のようだった。新兵衛は、この実直な老人が犯人だとは到底思えなかった。
次に新兵衛は、藩の財政を牛耳る重役たちに話を聞いて回った。彼らは口々に事件の重大さを説き、犯人への怒りを露わにした。
だが、新兵衛は奇妙な違和感を覚えていた。
勘定奉行の杉田は、怒りの緋色をほとばしらせながらも、その声の輪郭には冷たい鉛色が縁取るように纏わりついていた。
作事奉行の堀も同様だった。嘆きの言葉を口にしながら、その声の芯は感情のない鉛色に染まっている。
一人、また一人と重役たちの声を聞くうちに、新兵衛は愕然とした。彼らの声は、表面的な感情の色こそ違え、その根底に流れる響きが、まるで申し合わせたかのように、同じ無機質な「鉛色」をしていたのだ。それはまるで、同じ旋律を、違う楽器で奏でているかのようだった。
個々の感情ではなく、集団としての、隠された意図。鉛色の不協和音。
藩の財政が火の車であることは、勘定方にいる新兵衛も知っていた。しかし、この重役たちの声の色は、単なる財政難への憂いとは異質だった。何か巨大な、隠された仕組みが存在する。千両箱の消失は、その巨大な仕組みの、ほんの表層に現れた綻びに過ぎないのかもしれない。
新兵衛は再び御金蔵へ向かった。夕暮れの光が、静まり返った蔵の白壁を淡く染めている。彼は目を閉じ、意識を集中させた。聴覚を、そしてそれに連なる色彩の感覚を、極限まで研ぎ澄ます。
風の音。遠くで鳴く鳥の声。城壁を叩く微かな音。
その無数の音の色彩の中に、彼は違和感を探した。事件の夜、番士たちは「何も聞こえなかった」と言った。完全な静寂。だが、完全な静寂などあり得るだろうか。
その時だった。耳の奥で、何かが微かに軋むような音がした。それは音と呼ぶにはあまりに小さく、色彩と呼ぶにはあまりに淡い。しかし、確かにそこにある。
絹をゆっくりと引き裂くような、冷たく、そして規則正しい響き。
視界に、一条の「白銀の線」が走った。
音は、蔵の床下から聞こえてくるようだった。新兵衛は息を殺し、床板の隙間にそっと耳を寄せる。間違いない。この音は、自然の音ではない。人の手によって作られた、精巧な機械の音だ。
「音も無く」ではなかったのだ。常人には聞こえぬほど微かな「音」が、確かに存在したのだ。
第三章 白銀の旋律
新兵衛はすぐに行動を起こさなかった。白銀の音の正体を突き止めるには、周到な準備が必要だった。彼は数日をかけ、蔵の図面を取り寄せ、その構造を頭に叩き込んだ。そして、月のない闇夜を選び、再び御金蔵へと忍び込んだ。
昼間確認した床板に、彼は注意深く手製の道具を差し込む。音を立てぬよう、息を詰め、ゆっくりと板をこじ開けた。黴と土の匂いが、暗褐色の靄となって立ち上る。
床下には、彼の背丈ほどの空間が広がっていた。松明の覚束ない光が照らし出したのは、信じがたい光景だった。
無数の歯車と滑車、そして固く張られた何本もの鋼の線。それらが複雑に絡み合い、床下全体に巨大な「からくり装置」を形成していた。それはまるで、巨大な時計の内部に迷い込んだかのようだった。千両箱が置かれていた場所の真下には、箱を寸分違わず乗せるための台座が設えられている。
これが、千両箱を「音も無く」消し去ったものの正体だった。犯人は、この装置を使い、千両箱をゆっくりと床下へ引きずり込み、別の場所へ移動させたのだ。その動作音こそが、新兵衛だけが捉えた「白銀の旋律」だった。
これほど大規模で精巧なからくりを、誰が、何の目的で。新兵衛の脳裏に、様々な人物の顔が浮かんだ。作事奉行の堀か? いや、彼の声は鉛色に染まっていた。
その時、背後に微かな気配がした。振り返ると、暗がりに一つの人影が立っている。松明の光が、その顔を照らし出した。
「……黒田様」
そこにいたのは、蔵番頭の黒田源内だった。その手には、からくりの一部と思われる歯車が握られていた。彼の表情は、驚きも怒りもなく、ただ静かな諦観に満ちていた。
「やはり、お主には聞こえておったか。あの、白銀の音が」
源内の声は、いつもの澄んだ青色ではなく、静かに輝く、白銀そのものの色をしていた。
「これは、一体……」
「わしが、全て仕組んだことじゃ」
源内は静かに語り始めた。彼は若い頃、からくり細工に没頭した時期があったという。そして、彼もまた、新兵衛ほどではないが、人並外れた鋭い聴覚の持ち主だった。
「この藩は、腐っておる。杉田様や堀様をはじめとする重役たちは、藩の財を私物化し、その帳尻を合わせるために、帳面を改竄し、ありもしない支出を計上しておった。御金蔵の中身は、とうの昔に帳簿の半分にも満たぬ」
彼らの声が、一様に鉛色をしていた理由が氷解した。彼らは共犯者だったのだ。
「わしは、彼らの会話の不協和音に気づいておった。だが、下級武士のわしが何を言っても、握り潰されるだけ。ならば、この手で、藩の膿を白日の下に晒すしかなかった」
千両箱を消し去ることで、大掛かりな吟味を誘発し、御金蔵の矛盾を暴き出す。それが源内の狙いだった。彼は自らの命を捨て石にする覚悟で、この大仕掛けな計画を実行したのだ。
「なぜ、私を推薦したのです」
「お主の噂は聞いておった。音に色を視る男、と。ならば、わしの仕掛けたこの静かなる旋律に、いつか気づいてくれるのではないかと、一縷の望みを託したのじゃ。わしが捕らえられた後、真実を解き明かす者がいなければ、この計画はただの盗人騒ぎで終わってしまうからの」
源内の声にあった深い藍色は、藩を憂う悲しみの色。そして、その奥にあった一点の煌めきは、全てを賭けた覚悟の色だったのだ。
新兵衛は言葉を失った。彼は、これまで自分の感覚を、他者と自分を隔てる壁だと、呪わしいものだと思ってきた。しかし、この老武士は、その同じ感覚の先に、真実を見通し、己の全てを賭けていた。
第四章 決意の音色
書斎に戻った新兵衛は、一人、深い葛藤に苛まれていた。
黒田源内の計画通り、このからくり装置を家老の間部様に報告すれば、重役たちの不正は暴かれるだろう。しかし、藩の威信は地に落ち、大混乱は避けられない。源内も、主犯として重罪に問われる。
一方、この真実を胸に秘めれば、藩の体面は保たれる。だが、それは一人の忠義の士の覚悟を無に帰し、腐敗を温存させることに他ならない。
これまで新兵衛は、世界の色彩をただ傍観してきた。流れ来る音の色を、自分とは無関係な絵画のように眺めてきた。だが、今は違う。源内の白銀の旋律が、彼の心に深く突き刺さっている。あの音は、ただの現象ではない。藩を想う、一人の男の魂の叫びだった。
自分のこの力は、壁ではない。他者の魂に触れるための、架け橋なのではないか。
初めて、新兵衛の中で、自分の能力を肯定したいという強い感情が芽生えていた。
夜が明け、新兵衛の心は決まっていた。彼の足は、間部家老の屋敷へと向かっていた。
「間部様。御金蔵の件、真相が掴めました。しかし、事が事だけに、まずは内密にご覧いただきたいものがございます」
新兵衛の声は、普段の彼からは考えられないほど、凛とした響きを持っていた。その音色は、迷いのない、鋼のような銀色をしていた。
その夜、間部家老は、杉田、堀をはじめとする重役たちを、御金蔵に集めていた。表向きは、改めて現場を検証するため、という名目だった。
皆が揃ったところで、新兵衛が静かに口を開いた。
「皆様、この度の事件、犯人は狐でも天狗でもございませぬ。この、蔵そのものにございます」
怪訝な顔をする重役たちを前に、新兵衛は隠しておいた仕掛けを作動させた。ギ、という微かな音と共に、床板の一部がゆっくりと沈み始める。その上には、事前に用意しておいた米俵が乗っていた。
重役たちの顔色が変わった。どよめきが、濁った赤茶色の塊となって広がる。
「黒田源内が、全ての罪を認めております。彼は、藩の財政を憂うあまり、このような凶行に及んだと」
新兵衛は、あえて源内一人の犯行であると告げた。だが、その視線は、まっすぐに杉田と堀を射抜いていた。
「しかし、不思議なことに、千両箱一つ分の重さが消えたところで、この藩の財政が揺らぐはずもない。帳簿の上では、ですが」
杉田の喉が、ひゅっと嫌な音を立てた。それは、恐怖に染まったどす黒い紫色だった。
「蔵の中身と帳簿の間に、大きな隔たりがあったとすれば……話は別でございましょうな」
新兵衛の言葉は、静かだが、刃のように鋭く重役たちの胸を抉った。彼らの声にならない動揺が、不快な色の斑点となって、蔵の空間を汚していく。
間部家老は、黙ってその様を見つめていた。その眼は、全てを理解していると告げていた。
新兵衛は、自分の力が、初めて世界に意味のある「音」を響かせたのを感じていた。それは、真実を照らし出す、力強い音色だった。
第五章 瑠璃色の雨
事件は、内々に処理された。
杉田、堀をはじめとする重役たちは、病を理由に次々と役を退き、その財産は藩に返上された。表向きは、黒田源内が一人で起こした前代未聞の盗難事件として片付けられ、彼は遠島の刑に処された。死罪を免れたのは、間部家老による最大限の温情だった。
藩政は刷新され、新しい勘定奉行の下、財政の健全化が図られることになった。その立て直しには、新兵衛の正確無比な算術の才が、大いに役立てられた。
新兵衛の世界は、変わらず色彩で溢れていた。だが、その色の見え方は、以前とはまるで違っていた。
一つ一つの音の色に、人々の想いや人生が宿っていることを、彼は知った。同僚たちの何気ない会話の音色にも、その日の体調や家族への想いが滲んでいることが視える。彼はもう、それをただの洪水だとは思わなかった。世界は、無数の魂が奏でる、壮大な交響曲なのだと知った。
ある雨の日、新兵衛に一通の文が届いた。遠島へ向かう黒田源内からだった。厳重な監視を潜り抜け、誰かが届けてくれたのだろう。
文には、短い言葉が一つ、記されているだけだった。
『君の視る音は、美しかったか』
新兵衛は、文をそっと畳んだ。縁側に出て、庭に降り注ぐ雨を眺める。
雨粒が地面を叩き、葉を濡らす音。それは、無数の小さな粒となり、澄み切った瑠璃色となって、世界を優しく満たしていた。
美しい、と新兵衛は思った。
自分の呪われた感覚が、一人の忠義の士を救い、藩の未来を僅かでも良い方向に導いた。その事実が、彼の孤独な世界に、確かな意味を与えてくれていた。
彼はもう、孤独ではなかった。世界のあらゆる音と、その色彩と共に生きている。
瑠璃色の雨音に包まれながら、新兵衛は、遠い海の先で同じ空を見上げているであろう老武士に、心の中で静かに語りかけた。
はい、黒田様。この世界は、かくも美しい音色に満ちておりました。