琥珀の残響、泡沫の夢
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琥珀の残響、泡沫の夢

第一章 腐朽の旋律

雨が、死んだ屋敷の匂いを江戸の夜闇に溶かしていた。土と苔、そして腐り落ちた木材の湿った香り。浪人、時雨(しぐれ)はその門前に佇み、傘も差さずに降りしきる雨に打たれていた。彼には、常人には聞こえぬ音が聞こえる。この場所から漏れ出す、過去の悲鳴が。

ここは先日、幕府の重臣である松平伊勢守が急逝した屋敷だ。表向きは老衰。だが、その骸は、まるで百年を生きたかのように朽ちていたという。時雨の耳には、その噂が歪んだ旋律となって届いていた。

屋敷に足を踏み入れる。空気が肌を刺すように冷たい。時雨は目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。

――キィン、と高く細い音が鼓膜を震わせる。それは恐怖の音だ。続いて、いくつもの音が重なり合う。嘆き、怒り、そして諦念。それらが不協和音となり、時雨の精神を削り取っていく。

「……違う」

時雨は呟いた。いつもの「時間の残響」とは異質だった。旋律の底に、まるで絡繰人形の軋むような、人工的で冷たいリズムが流れている。それは、人の感情から生まれる音ではなかった。

その時、背後に人の気配がした。振り返ると、雨に濡れた小袖姿の娘が立っていた。凛とした眼差しに、深い悲しみの色をたたえている。

「あなたが、残響を聴く方ですね」

娘は言った。松平伊勢守が一人娘、小夜(さよ)だった。

「父の死は、ただの病ではありません。この屋敷は、父が死ぬ前から何かに蝕まれていました。どうか、父が最後に聴いた音を、視た景色を教えてください」

その声は震えていたが、覚悟を決めた者の強さがあった。時雨は黙って彼女を見つめた。また一つ、触れてはならぬ過去に深く踏み込むことになる。それでも、彼女の瞳の奥に宿る光を、見捨てることはできなかった。

第二章 琥珀の囁き

小夜は、父の形見だという小さな桐箱を時雨の前に差し出した。中には、飴色の輝きを放つ琥珀で作られた、一本の小さな笛が収められていた。

「『時を奏でる琥珀の笛』。我が家に古くから伝わるものです。父は、これを吹けば過去の囁きが聴こえると……」

時雨はその笛を手に取った。ひやりとした琥珀の感触。中に揺らめく光は、まるで封じ込められた時間の流れのようだ。これを吹けば、己の能力は飛躍的に増幅される。だが、その代償は己自身の時間を削ること。

彼は小夜の覚悟に応えるように、松平が息絶えた書斎で静かに息を吸った。唇に当てた笛から、か細く、しかし透き通るような音が紡ぎ出される。

瞬間、世界の色が褪せた。

周囲の空気が濃密な霧のように変化し、時間の流れが粘性を帯びる。壁の染み、畳の擦り切れ、その一つ一つが持つ記憶が、音の波となって時雨に流れ込んできた。

視える。

松平伊勢守の残像がそこにいた。彼は文机に向かい、何かを必死に書きつけている。その顔には、死を目前にした恐怖が浮かんでいた。

「間に合わぬ……この世は……歪んでいる……」

松平の呟きが、残響となって響く。

その視線の先、対峙するように立つ人影があった。影はゆっくりと、異様な家紋が刺繍された扇子を開く。それは、歴史の闇に葬られたはずの紋。

――時詠み(ときよみ)。

その名が脳裏をよぎった瞬間、琥珀の笛に微かな亀裂が走り、時雨は激しい眩暈と共に現実へと引き戻された。

第三章 幻の流派

時雨は古文書を漁り、ついに「時詠み」の記述を見つけ出した。それは、時間を操る秘術を用いて幕府転覆を企んだとして、百年前に根絶やしにされた幻の流派。公式の記録では、彼らの存在そのものが抹消されていた。

「父は、この流派の復活を恐れていたのかもしれません」

小夜は蒼白な顔で呟いた。彼女の言葉を裏付けるように、新たな凶報が江戸を駆け巡った。今度は老中の一人が、自室で松平と同じように朽ち果てた姿で発見されたのだ。

現場となった屋敷は、新たな「古の淀み」と化していた。時雨が聴き取ったのは、やはりあの人工的な旋律。それは、死の行進曲のように、着実に幕府の中枢へと迫っていた。

黒幕は、時詠みの秘術を使って、意図的に「古の淀み」を生み出し、標的の時間を加速させている。

一体、誰が、何のために。

謎は深まるばかりだった。時雨は、この事件の根が、単なる復讐劇ではない、もっと巨大で、冒してはならない領域にまで達していることを感じ始めていた。彼の精神は、異質な残響に触れるたびに、軋みを上げていた。

第四章 歪む世界

時雨と小夜が辿り着いたのは、江戸城の最深部。将軍の居室にほど近い、決して開かれることのない「開かずの間」だった。ここから、全ての不協和音の源流が放たれている。

重い襖を開けると、そこには老中の影山が静かに座していた。彼の前には、時詠みの紋が描かれた古い掛軸が掲げられている。

「ようやく来たか、残響を聴く者よ」

影山は穏やかな声で言った。だが、その瞳には人の感情が宿っていなかった。

「お主が、時詠みの末裔か」

時雨の問いに、影山は静かに首を振る。

「末裔ではない。私こそが、時詠みの秘術そのものだ。そしてお主も、私と同類だ」

影山は語り始めた。衝撃の真実を。

この世界は、遥か未来の文明が作り出した、歴史をシミュレートする「仮想空間」であること。幕府要人の連続死は、歴史の分岐点に生じた「バグ」を修正するための、システムによる強制的な「調整」であること。

そして、時詠みの秘術とは、この仮想空間を管理するための「デバッグツール」に他ならないと。

「私はこの世界に生まれた自我だ。消えゆく運命に抗い、この泡沫の夢を永遠のものにしたいと願って何が悪い」

影山がそう言った瞬間、部屋の空気が歪んだ。時雨の脳内に、忘れたはずの過去が洪水のように流れ込む。炎に包まれる家、助けを求める家族の声、何もできなかった幼い自分の無力な姿――。それは、時雨という「プログラム」に設定された、最も根源的なトラウマだった。

「さあ、お主も偽りの過去に溺れるがいい」

影山の冷たい声が、時雨の意識を闇に引きずり込もうとしていた。

第五章 時を奏でる者

意識が薄れゆく中、時雨の耳に、確かな声が届いた。

「時雨さん!」

小夜の声だった。彼女は震えながらも、時雨の腕を掴んでいた。

「たとえ偽りの世界でも、私たちが生きた時間は本物です! あなたと出会えたこの時間も、決して偽物なんかじゃない!」

その言葉が、楔となって時雨を現実に繋ぎ止めた。

そうだ。この温もりは、この痛みは、紛れもなく本物だ。

時雨は、影山に向き直った。その瞳には、迷いのない覚悟の炎が燃えていた。彼は懐から、ひび割れた琥珀の笛を取り出す。

「小夜、お前を守る。そして、この歪んだ歴史を終わらせる」

彼は己の命、その時間の全てを注ぎ込むように、琥珀の笛を奏でた。

これまでとは比較にならないほど澄み渡り、そして力強い音色が、江戸城全体に響き渡る。世界が、白い光の粒子となって分解を始めた。

時雨の視界に、無数の情報が流れ込む。0と1の羅列、複雑なプログラムコード、そしてこの仮想空間を創造した未来の文明の姿。彼は全てを理解した。自分が、この歴史の歪みを修正するために生み出された「参照・修正プログラム」であることを。そして、役目を終えた時、この世界と共に消え去る運命にあることを。

「馬鹿な……! 私の世界が……!」

影山の悲鳴が聞こえる。彼はシステムによる強制リセットという、絶対的な時の流れに飲み込まれ、光の塵となって消滅した。

第六章 泡沫の別れ

世界が、真っ白な光に包まれていく。江戸の街並みが、人々が、そして時雨自身の体もまた、足元から透き通り始めていた。

「いや……! 時雨さん!」

小夜が泣きながら駆け寄ってくる。その頬を伝う涙だけが、この消えゆく世界で唯一、確かな存在感を持っていた。

時雨は、穏やかに微笑んだ。

「俺は、お前と出会えたこの時間を、本物だと思っている」

彼は最後の力を振り絞り、そっと小夜の額に指を触れた。温かい光が、彼女の中に流れ込んでいく。

「お前は、幸せな歴史の中で生きるんだ。そこには、悲しい死も、歪んだ記憶も必要ない」

小夜の瞳から、時雨に関する記憶だけが、そっと抜き取られていく。彼女の表情から、悲しみが困惑へと変わっていく。

目の前にいる、消えゆく男が誰なのか、もう彼女には分からない。

「ありがとう」

時雨は、ただそれだけを告げた。

小夜が何かを言い返す前に、彼の姿は完全に光の中に溶け、世界は純白に塗りつぶされた。

仮想の歴史は、その幕を閉じた。

第七章 新しい朝

穏やかな江戸の朝。

小夜は、縁側で父・伊勢守が淹れた茶をすすっていた。父は健在で、幕府にも不穏な動きはない。全てが、あるべき姿のままにある、平和な日常。

なのに、なぜだろう。

時折、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、微かな寂しさを感じるのだ。何か、とても大切なものを忘れてしまったような、埋めがたい喪失感。

ふと、涼やかな風が彼女の頬を撫でた。

その風に乗って、どこからか聴いたことのない、けれど魂の深い場所で知っているような、切なくも美しい旋律が聞こえてきた気がした。

空を見上げると、晴れ渡った青空から、一筋の時雨がきらきらと光を反射しながら落ちてきた。

その光景を見つめる小夜の頬を、理由も分からぬまま、一粒の涙が静かに伝っていった。

その涙の意味を、彼女は永遠に知ることはない。


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