因縁喰らいの舌
第一章 鉄錆の町
蒼介の舌の上で、また一つ感情が死んだ。
それは、まるで味のしない水を飲むような、虚しい感覚だった。往来を行く人々は皆、能面のような顔をしている。彼らの背には本来、目には見えぬ『因縁の紐』が幾重にも伸びているはずだった。だが今の蒼介には、その気配すら感じられない。ただ、舌の上に広がる無味無臭の空虚だけが、この町の異常を告げていた。
蒼介は、他人の過去の感情を『味覚』として感知する奇妙な体質を持った浪人だった。行き交う人々の肩が触れ合うたび、その者の記憶の欠片が、味となって彼の舌を打つ。激しい口論の記憶は熱した鉄の味、密やかな恋慕はとろりとした蜜の味、深い後悔は喉にひりつく煙の味。彼はそうして他人の人生の味を盗み見ては、日々の糧を得ていた。
だが、この町に来てからというもの、彼の舌はほとんどの時間を沈黙させていた。感情の味がしないのだ。人々は笑わず、怒らず、ただ決められた刻限を生きる人形のようだった。因縁の紐が消え、人々から感情が失われていく――そんな噂が、乾いた風に乗って彼の耳に届いたのは、三日前のことだ。紐の絡まりが引き起こすという『業病』よりも、この感情の喪失は、はるかに静かで根深い病に見えた。
蒼介は懐から干し柿を取り出し、ゆっくりと噛んだ。人工的な甘みだけが、鈍くなった舌を慰める。彼は空を見上げた。灰色一色の空は、まるで町の住人たちの心を写した鏡のようだった。その時、ふと、彼の鼻腔を微かな、しかし無視できない匂いが掠めた。それは、ありとあらゆる味が凝縮されたような、濃密な気配だった。町外れの、禁足地の方角から吹いてくる風に乗って。
彼の舌が、ぴくりと疼いた。飢えた獣のように、その味の源を求めていた。
第二章 潮騒の記憶
町の片隅にある寂れた長屋で、蒼介は一人の老婆を見舞っていた。老婆は『業病』に臥せっているといい、その身体には、もはやほどけようもないほど複雑に絡み合った因縁の紐の気配がまとわりついていた。老婆は虚空を見つめ、時折、意味のない言葉を小さく呟くだけだった。
蒼介が老婆の皺だらけの手にそっと触れる。その瞬間、彼の舌に、打ち寄せる波のような味が広がった。冷たく、しょっぱい、どうしようもない悲しみの味。遠い昔、幼子を海で亡くしたという記憶の残滓。潮の味が、彼の喉を焼いた。この町で、これほどはっきりとした味を感じたのは久しぶりだった。
「これしか、残っておらんのです」
老婆の世話をしていた娘が、力なく言った。彼女の指差す先、軒先に古びた風鈴が一つ、かろうじて吊るされていた。赤錆の浮いた、みすぼらしい鉄の風鈴だ。
「祖母が言うには、この音色を聞いていると、少しだけ心が晴れる、と…」
その時、風が吹き抜け、風鈴がちり、と掠れた音を立てた。錆びた金属同士が擦れ合うような、決して美しいとは言えない音。だが、その音色が響いた瞬間、蒼介の舌の上で、潮の味がふわりと輪郭を濃くした。まるで、味に色がつくような不思議な感覚だった。虚ろだった老婆の瞳に、一瞬だけ、微かな光が宿ったように見えた。
風鈴の音色が、失われた感情の『残滓』を呼び覚ます。蒼介は、その古びた鉄塊に、ただの飾り物ではない、特別な力を感じ取った。そして同時に、あの町外れから漂ってくる濃密な味の気配が、この風鈴の音色とどこかで繋がっているような、奇妙な予感に襲われたのだった。
第三章 蜜の残滓
蒼介の足は、吸い寄せられるように町外れの禁足地へと向かっていた。古びた石段を登りきると、そこには廃寺が一つ、静かに佇んでいた。風が木々を揺らす音以外、何も聞こえない。だが、彼の舌は絶え間なく悲鳴を上げていた。
怒りの鉄錆、悲しみの潮、喜びの蜜、嫉妬の酸、後悔の煙――無数の感情の味が、この寺の床下から奔流となって溢れ出している。町から消えた全ての味が、ここに集められているかのようだった。それはあまりに強烈で、近づくだけで眩暈がするほどだった。
蒼介は、腐りかけた本堂の縁側に腰を下ろし、息を整えた。なぜ、感情がここに? 誰が、何の目的で? 疑問が渦巻く。もしこの味の奔流を口に含めば、常人なら一瞬で正気を失うだろう。彼とて無事では済まないかもしれない。
彼は懐から、老婆の娘に頼んで譲ってもらった、あの錆びた風鈴を取り出した。手のひらに乗せると、ひやりと冷たい。彼はそれをそっと揺らしてみた。
ちり、と微かな音が鳴る。
その瞬間、寺の床下から溢れ出る味の奔流が、ほんの少しだけ、その猛威を和らげたように感じられた。混沌としていた味の洪水に、一瞬、秩序のようなものが生まれた気がした。蒼介は確信する。この風鈴が、謎を解く鍵だ。彼は意を決し、軋む床板に手をかけ、暗く湿った床下への入り口をこじ開けた。
第四章 蠢く情念
床下は、想像を絶する光景だった。
そこには、無数の『因縁の紐』が、巨大な一つの塊となって蠢いていた。赤、青、黒、金、様々な色に光る紐が、巨大な心臓のように脈動している。町中の人々から奪われた因縁が、ここで一つの生命体として生きているのだ。
蒼介が息を呑んだ瞬間、その塊から伸びた一本の紐が、彼の頬を掠めた。途端に、舌の上に燃えるような味がほとばしる。誰かの嫉妬だ。愛する者を奪われた、骨まで焼くような憎悪の味。蒼介は思わず膝をついた。一口味わっただけで、意識が飛びそうになる。
「…っぐ…!」
だが、彼は逃げなかった。このままでは、この『感情の塊』は町を飲み込み、いずれ世界中から感情を吸い尽くすだろう。彼は覚悟を決め、震える手で塊に触れた。
その瞬間、彼の全身を、数千、数万の人生が駆け巡った。生まれたばかりの赤子の喜び、初めての恋の甘酸っぱさ、友との別れのしょっぱさ、裏切りの苦さ、老いて死ぬことへの恐怖。ありとあらゆる感情の味が、彼の魂を直接すり潰すように流れ込んでくる。彼の意識は、巨大な味の奔流の中で、今にも消えそうな灯火と化した。
第五章 風鈴の律べ
もう駄目だ。意識が闇に飲まれる。そう思った瞬間、懐から滑り落ちた風鈴が、からん、と乾いた音を立てた。
ちりん、ちりん、と。
床下の淀んだ空気を震わせ、その掠れた音色が響き渡る。すると、蒼介を苛んでいた味の奔流が、嘘のように静まり始めた。混沌としていた無数の味が、まるで調律されるかのように、それぞれの音階を見つけていく。風鈴の音色が、感情の渦に秩序を与えているのだ。
意識を取り戻した蒼介の舌は、かつてないほど研ぎ澄まされていた。風鈴の音色に導かれ、彼は巨大な『感情の塊』の、そのさらに奥深く、中心にあるたった一つの味を捉えた。
それは、悲しみだった。
しかし、誰かの個人的な悲しみではない。もっと巨大で、純粋で、根源的なもの。寄る辺のない孤独の味。無数の星々が生まれては消える宇宙の中で、たった一人でいるような、静かで、どこまでも深い哀切の味。
『原初の悲しみ』。
蒼介の脳裏に、その言葉が響いた。この世界が生まれ、意識が芽生えた、その瞬間の悲しみ。因縁という法則を生み出し、人々を繋げ、そして苦しめてきた、全ての始まり。この塊の正体は、世界の涙そのものだったのだ。風鈴の音色は、その悲しみを慰めるための、鎮魂の律べだった。
第六章 神の舌
蒼介は、静かに立ち上がった。為すべきことは、もう分かっていた。彼は、巨大な塊の中心で静かに佇む『原初の悲しみ』へと、ゆっくりと歩み寄る。
これを、味わう。味わい尽くす。
それが、この世界を悲しみの連鎖から解き放つ、唯一の方法なのだ。彼はそっと目を閉じ、その悲しみの核心に唇を寄せた。それはまるで、生まれたばかりの海を飲むような、深く、清らかな塩味だった。
彼がその味を飲み干した瞬間、世界が変わった。
蒼介の身体は、足元から光の粒子となって崩れ始める。彼の舌は、もはや一個人のものではなかった。町の片隅で泣く子供の涙の味、遠い国で交わされる愛の誓いの甘い味、風にそよぐ草木の安らぎの味、流れゆく雲の無垢な味――世界に存在する全ての感情、全ての因縁の味が、一つの交響曲となって彼の感覚を満たしていく。
彼は『神の舌』となった。
しかし、それは同時に、彼という個の消滅を意味した。彼の『因縁の紐』は世界そのものと結びつき、彼自身が、因縁の絡まりを優しく解きほぐす、新しい法則の一部となったのだ。人間・蒼介としての存在は、もうどこにもない。
鉄錆の町に、色が戻っていた。人々は笑い、怒り、愛し合っていた。誰もが、自分の背中が少しだけ軽くなったような気がしたが、その理由を知る者はいない。浪人が一人、この町から姿を消したことにも、誰も気づかなかった。
ただ、時折、どこからともなく、優しい風鈴の音が聞こえてくることがあった。それは、錆びた鉄が奏でる、どこか掠れた音色。
その音は、世界の片隅で生まれる新たな悲しみに、そっと寄り添い、その味を和らげているようだった。