偽りの天秤、希望の言の葉

偽りの天秤、希望の言の葉

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第一章 鉛の沈黙

カイの朝は、いつも身体の重さを確かめることから始まる。指先一本を動かす。瞼を押し上げる。昨夜読んだ偽史のせいで、四肢はまだ微かに鉛を帯びていた。彼は書物鑑定士。その身に宿る奇妙な体質が、彼の生業を支え、そして苛んでいた。嘘偽りの文字に触れれば、その重みに比例して身体は沈み、真実に触れれば羽のように軽くなる。

だが、その日の朝は、何かが決定的に違っていた。

窓の外、いつもなら陽光を浴びてきらきらと舞うはずの『真実の言の葉』が、一つも見当たらなかった。代わりに空を覆っているのは、煤のように黒く、澱んだ『偽りの言の葉』。それらが雪のように静かに、だが執拗に降り注いでいる。

街のざわめきが、カイの耳朶を打った。悲鳴ではない。それよりもっと質の悪い、ひそやかな囁きと、疑心に満ちた視線が交錯する音だ。パン屋の店主が、隣の八百屋を睨みつけている。昨夜まで笑い合っていた恋人たちが、互いの言葉を信じられずに背を向けていた。偽りの言の葉が降り積もる大地では、麦の穂は黒く枯れ、井戸の水は濁り始めていた。

カイはベッドから起き上がろうとして、呻いた。足が、まるで床に縫い付けられたかのように動かない。世界から真実が消えた。その途方もない喪失感が、物理的な重力となって彼を地の底へ引きずり込もうとしていた。このままでは、身動き一つ取れない石像になってしまう。彼は歯を食いしばり、壁を伝いながら、唯一の希望が眠る場所へと歩き出した。

第二章 真偽の天秤

王立図書館の巨大な扉は、重々しく軋みながら開いた。内部は静寂に包まれていたが、そこには安らぎではなく、死んだような空気が漂っていた。書架に並ぶ無数の書物が、その価値を、その真実を失い、ただの紙束として沈黙している。

「カイさん……!」

声の主は、この図書館の若き司書、リラだった。彼女の瞳には、世界の終わりを映したかのような絶望が浮かんでいたが、カイの姿を認めると、そこに微かな光が灯った。

「やはり、あなたの身体にも……」

「ああ。世界中の真実が、どこかへ消えてしまったようだ」

カイは息を切らしながら答えた。一歩進むごとに、見えない鎖が足に巻き付くようだった。

リラは彼を支えながら、古びた羊皮紙の巻物を広げてみせた。そこには、震えるような筆跡で、世界の均衡を保つとされる遺物の絵が描かれていた。一つの支柱に、二つの皿が吊るされた、簡素な天秤。

「『真偽の天秤』。伝説では、あらゆる言葉の真実を測ることができると記されています。しかし、その代償として……」

「代償?」

「世界から、一片の真実を削り取る、と」

その言葉に、カイは息を呑んだ。真実を測るために、真実を消費する。なんという皮肉な道具だろう。だが、今はそれに賭けるしかなかった。リラが指し示したのは、図書館の最も古く、そして最も深い場所。忘れられた書物が眠る『澱の書庫』だった。

第三章 剥がれ落ちる真実

『澱の書庫』の空気は、黴と古いインクの匂いが濃密に混じり合い、まるで呼吸そのものが重みを持っているかのようだった。リラが掲げるランタンの光が、埃を纏った天秤を照らし出した。それは青銅でできており、長い年月の間に緑青が浮いていたが、不思議なことに皿の上だけは一点の曇りもなく磨き上げられていた。

カイが震える指で天秤に触れた瞬間、彼の身体を縛り付けていた重みが、僅かに和らいだ。天秤が、彼の体質に共鳴している。

「試してみよう」

彼は書庫の片隅から、歴史書を手に取った。それは英雄の偉業を綴った、誰もが真実だと信じてきた物語だ。だが、カイがページに触れた途端、身体はさらに重くなった。これは偽りだ。

おそるおそるその書物を左の皿に乗せると、天秤はゆっくりと、しかし確実に左へと傾いた。その時だった。カイは、世界のどこか遠くで、ガラスが砕けるような微かな音を聞いた気がした。そして、天秤の右の皿の底に、砂粒ほどの小さな光の結晶が一つ、ぽつんと現れた。

「これが……削り取られた真実……」リラが囁いた。

天秤は真実を測るのではない。偽りを証明するために、世界のどこかにある真実を犠牲にする装置だったのだ。カイは愕然とした。この天秤を使えば使うほど、世界から光は失われていく。それでも、彼は進むしかなかった。この異変の源を突き止めるには、より大きな偽りを、より多くの真実を犠牲にして暴き出す必要があった。天秤は、かすかな光を放ちながら、王国の中心、天を突く『始まりの塔』を指し示していた。

第四章 空っぽの玉座

『始まりの塔』の頂には、風の音しか響いていなかった。そこにあるのは、歴代の王が座ったとされる巨大な玉座だけ。だが、そこに王の姿はなかった。衛兵一人いない、空っぽの空間。世界が偽りに覆われているというのに、この国の心臓部は静まり返っていた。

カイが玉座の前に『真偽の天秤』を置くと、天秤が激しく振動を始めた。皿の上で、これまで集めた真実の結晶が共鳴し、眩い光を放つ。空間がぐにゃりと歪み、玉座の上に人ならざるものの影が揺らめいた。

『――なぜ、真実を求める?』

直接脳に響く、性別も年齢も超越した声。影は、自らを『時の管理者』だと名乗った。

「なぜ、世界から真実を奪った!」カイは叫んだ。身体は限界まで重く、立っているのがやっとだった。

『奪ったのではない。保護したのだ』と、時の管理者は静かに告げる。『お前たち人間は、あまりに多くの真実を語りすぎた。絶対的な正しさは、時に刃となる。互いの真実をぶつけ合い、傷つき、がんじがらめになった世界は、崩壊寸前だった。だから、一度すべてを無に還したのだ。偽りの静寂の中で、お前たちが本当に必要なものを見つけ出すために』

時の管理者が指を鳴らすと、カイの目の前に幻影が広がった。真実の言の葉に満ちていた頃の世界。人々は光り輝く言葉を振りかざし、互いを断罪し、争っていた。真実は、彼らを幸福にはしていなかった。それはただ、心を縛り付ける重い枷でしかなかったのだ。

「そんな……」

絶句するカイに、時の管理者は続けた。

『偽りの中にこそ、物語は生まれる。フィクションという、新たな真実を創造する力が、お前たちにはあるはずだ』

第五章 最後の重み

時の管理者は、カイに選択を突きつけた。

『その天秤に残った真実の結晶。それらすべてを使えば、私が時の狭間に封印した、かつての真実の言の葉をこの世界に呼び戻すこともできよう。そうすれば、お前のその忌まわしい体質からも解放される。身体は羽のように軽くなり、どこへでも飛んでいけるだろう』

その言葉は、悪魔の囁きのように甘美だった。この鉛の身体から解放される。真実の光が戻る。

『だが、世界はまた同じ過ちを繰り返す。真実という名の刃で、互いを切り刻み合うだろう。さあ、選ぶがいい。絶対的な真実がもたらす破滅か、それとも――』

カイは天秤の皿に溜まった、数えるほどしかない光の結晶を見つめた。これを解放すれば、自分は救われる。だが、世界は?隣に立つリラは?彼女は恐怖に震えながらも、カイの手を強く握っていた。その指先の温もりから、言葉にならない想いが伝わってきた。信じたい、と。ただ、明日を信じたい、と。

彼は悟った。人々が本当に求めていたのは、すべてを白日の下に晒す絶対的な真実ではない。暗闇の中で寄り添い、凍える心を温める焚き火のような、ささやかな希望。たとえそれが、作り話だったとしても。

重力の底で、カイは静かに顔を上げた。その瞳には、迷いはなかった。

第六章 物語が生まれる時

「俺たちが欲しいのは、絶対の真実じゃない」

カイの声は、重さに喘ぎながらも、塔の頂に凛と響いた。彼は天秤から手を離し、懐から携えていた万年筆と、白紙の羊皮紙を取り出した。

「信じることのできる、希望の物語だ」

彼は、その場で物語を紡ぎ始めた。偽りの言の葉が降り注ぐ、荒廃した世界。人々が疑心暗鬼に陥る中で、それでも小さな善意を信じ、手を取り合って明日を築こうとする者たちの物語。それは真実ではなかった。かといって、誰かを陥れるための偽りでもない。それは、カイが、人々がこうあってほしいと願う、祈りそのものだった。

彼が綴る文字から、言葉が生まれる。その言葉は、光り輝くのでも、闇を纏うのでもない、温かな黄金色を帯びた『願いの言の葉』となって、ふわりと宙に舞い上がった。

一つ、また一つと、黄金の言の葉が空へと昇っていく。すると、不思議なことが起きた。カイの身体を縛り付けていた鉛の重みが、すっと消えていく。かといって、浮き上がるような軽さでもない。大地にしっかりと足をつけ、自らの意志で立てる、心地よい均衡。

時の管理者は、満足したように静かに微笑むと、影の中へと溶けるように消えていった。

空を見上げると、世界を覆っていた黒い偽りの言の葉の雲間から、いくつもの黄金色の光が差し込み始めていた。それはまだ、夜明け前の微かな光に過ぎない。世界は、まだ始まったばかりなのだ。

カイはリラと手を取り合い、塔の上から生まれ変わろうとする世界を見下ろした。これから、無数の物語が紡がれていくだろう。悲しい物語も、楽しい物語も。そのすべてが、この世界を少しずつ照らしていく希望の光となるのだ。カイは、その最初の語り部となった自分を、少しだけ誇らしく思った。

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