第一章 触れる余韻、虚ろな言葉
都の片隅、インクと古紙の匂いが染みついた仕事場で、シズマは指先を研ぎ澄ましていた。彼は筆耕士。だが、ただ文字を写すだけの男ではない。言葉を遺せずに逝った者の筆跡に触れ、その感情の『余韻』を読み取る稀有な力を持っていた。依頼人が求めるのは、故人の最期の想い。シズマはそれを美しい文字に起こし、遺された者たちの心を慰めるのであった。
しかし、その力には代償が伴う。一度『余韻』を読み取るたび、彼の五感は薄皮を剥がされるように、ひとつ、またひとつと鈍くなっていくのだ。かつて楽しんだ葡萄酒の芳香も、焼きたてのパンの香ばしさも、今では遠い記憶の彼方にある。
その日、訪れたのは旧知の仲である王宮書記官長のエリオットだった。彼の顔には、普段の温和さとはかけ離れた、深い憂慮の影が落ちていた。
「シズマ、頼みがある。いや、これは懇願だ」
エリオットが差し出したのは、分厚い革の表紙に覆われた日誌だった。持ち主は、先日急逝したばかりの宰相だという。
「また、なのか…」
シズマは呟いた。このところ都では、身分の高い者たちが相次いで謎の死を遂げていた。まるで存在そのものが希薄になるかのように、静かに命の火を消すのだ。そして、彼らの遺品からは、本来現れるはずの『結晶の記憶』が、ただの一つも見つからない。人々が抱いた『切なる願い』が死後、その想いの強さに応じて固形化するこの国で、それはあり得ないことだった。人々はそれを『無結晶の死』と呼び、不気味な疫病のように恐れていた。
シズマは日誌を受け取ると、そっと指を滑らせた。インクの染み、紙の質感、そして文字の窪み。そこから伝わってくるはずの、喜びも、怒りも、悲しみも、何一つ感じられない。ただ、指先を刺すような、底知れぬ『虚しさ』の感触だけが、彼の神経を冷たく侵食した。
ページをめくる。そこには、不自然な空白が点在していた。まるで、書き手が何かを記そうとして、その言葉を見失ってしまったかのように。歴史を綴るはずの宰相の日誌が、虫食いの古文書のように意味をなさなくなっていた。
「どうだ? 何か分かるか?」
エリオットの問いに、シズマは静かに首を振った。
「何も。ただ、虚ろなだけだ。まるで、言葉が生まれる前に死んでしまったような…」
その虚無に触れた代償か、窓の外で鳴り響く教会の鐘の音が、いつもより微かに、遠くに聞こえた。
第二章 虚空に集う墨
調査は暗礁に乗り上げた。犠牲者は増え続け、彼らの遺した筆跡はどれも同じように虚ろで、空白に満ちていた。同時に、王宮の書庫からは歴史を記した書物の一部が、まるで初めから存在しなかったかのように消え始めているという噂が流れた。
行き詰まったシズマは、埃っぽい自室の書庫で、禁書に近い古文書の束を解いていた。彼の失われつつある視力が、かろうじて古びた文字を追う。そこに、一つの記述を見つけた。
『虚空の墨。結晶を持たず、虚しさの中に消えゆく魂魄の澱を集め、練り上げし墨。失われし言葉を淡光にて現すが、その対価として、書き手の記憶を喰らう』
これしかない、とシズマは直感した。
彼は都の地下にある、所有者不明の遺品が集められる巨大な納骨堂へと向かった。『無結晶の死』を遂げた者たちの遺品が、静かに埃を被っている一角。そこに足を踏み入れた瞬間、シズマは肌を粟立たせるほどの濃密な『虚しさ』の気に満たされているのを感じた。それは、言葉になれなかった願いの残骸。存在を忘れられた哀しみの集合体だった。
彼は持参した小さな硯に、清らかな湧き水を注ぐと、虚空に漂う澱を、祈るように手でかき集め始めた。指先が冷え、感覚が麻痺していく。まるで、自身の存在までがその虚無に吸い取られていくようだ。集めた澱を硯の水に溶かし、ゆっくりと墨を磨り始めた。ゴリ、ゴリ、と重い音が響く。それは、誰かの失われた記憶が軋む音のようだった。
墨が漆黒の艶を帯びた時、シズマの耳に届いていた納骨堂の反響音が、ふつりと途絶えた。また一つ、彼の世界から音が消えたのだ。しかし、彼の瞳は、硯の中の黒い液体――『虚空の墨』を、確かな決意をもって見つめていた。
第三章 淡光が紡ぐ忘れ名
仕事場に戻ったシズマは、宰相の日誌の前に座した。震える手で筆をとり、完成したばかりの『虚空の墨』をたっぷりと含ませる。そして、不自然な空白が広がるページの上で、息を止めて筆を滑らせた。
筆が紙に触れた瞬間、シズマの脳裏に、幼い頃に母と交わした他愛ない会話の記憶が閃光のように浮かび、そして霧散した。温かな記憶のかけらが、墨に吸い取られていく。その代償として、空白だったはずの紙面から、淡い燐光を放つ文字が、ゆっくりと滲み出すように現れた。
それは、呪文のようでもあり、嘆きのようでもあった。
『…王家の血を汚す者、摂政バルドゥスは偽りの系譜…』
『建国王の盟友、真の守護者たる“アークライト”の名を奪い…』
『我らは真実の歴史を守る“盾”。だが、彼の秘術により、我らの存在と記憶が、この世から削られていく…』
光の文字は、儚く揺らめきながら、衝撃的な事実を告げていた。シズマは息を呑んだ。アークライト――それは、建国史のどこにも記されていない名前だった。
第四章 砕かれた忠誠の結晶
シズマは夜を待って、エリオットの屋敷を訪れた。浮かび上がった文字の内容を伝えると、老書記官長の顔は蒼白になった。
「アークライト…まさか、その名が…。それは、現摂政バルドゥスの家系が歴史から抹消した、正統な王家の血を引く一族の名だ」
エリオットの声は、恐怖と確信に震えていた。『無結晶の死』は、都合の悪い真実を知る者たちを、歴史そのものから消し去るための、バルドゥスによる計画的な犯行だったのだ。
その時だった。静寂を破り、窓ガラスがけたたましい音を立てて砕け散る。黒装束の男たちが、暗闇から姿を現した。摂政の私兵たちだ。
「シズマ、逃げろ!」
エリオットは叫び、杖を構えてシズマの前に立ちはだかった。だが、老人の抵抗は虚しく、凶刃が彼の胸を深く貫いた。
崩れ落ちるエリオットの身体を、シズマは必死に抱きとめる。
「…シズマ…王家の霊廟へ…建国王の…真実の…結晶を…」
それが、彼の最期の言葉だった。エリオットの体から温もりが失われていく。だが、彼の亡骸から『結晶の記憶』が現れることはなかった。忠誠に満ちた彼の『切なる願い』さえも、虚無の闇に飲み込まれてしまったのだ。
シズマは、燃え盛る屋敷を背に、闇の中を駆けた。頬を伝うのが涙なのか、降り始めた雨なのか、彼にはもう分からなかった。
第五章 無音の石碑、最後の触覚
追われる身となったシズマが向かった先は、歴代の王が眠る王家の霊廟だった。その最奥には、建国王が遺したという、巨大な『結晶の記憶』が安置されているはずだった。エリオットの言葉を頼りに、彼は最後の望みを懸けたのだ。
月明かりだけが差し込む荘厳な霊廟の奥で、シズマは信じがたい光景を目の当たりにする。祭壇の中心で、摂政バルドゥスが禍々しい光を放つ杖を、建国王の『結晶の記憶』に突き立てていた。虹色に輝いていたはずの巨大な結晶には、無数の亀裂が走り、その輝きは見る間に色褪せていく。歴史が、願いが、今まさに破壊され、偽りの物語に書き換えられようとしていた。
「愚かな筆耕士め。真実に触れるには、お前はあまりに無力だ」
バルドゥスが冷笑する。
だが、シズマは臆さなかった。彼は最後の力を振り絞り、祭壇へと駆けた。バルドゥスが新たな歴史を刻むため、傍らの石碑に手を伸ばした、その一瞬の隙。シズマは、書き換えられる直前の、建国王が遺したオリジナルの碑文に、その指先で触れた。
瞬間、世界から一切の光と音が消えた。
視覚と聴覚が、完全に奪われたのだ。
永遠に続くかのような闇と静寂の中、しかし、彼の魂に直接、温かく、そして力強い『余韻』が流れ込んできた。それは、建国王の真の願い。
――身分や血筋に関わらず、この国の全ての民が、等しく『切なる願い』を抱き、それを『結晶』として未来に遺せる、そんな世界を創りたい。
その純粋で強大な想いが、シズマの存在そのものを満たした。
第六章 その身を碑として
世界の真実を知った。だが、シズマにはもう、それを伝える術がない。五感の全てを失った彼の身体は、冷たい石像と何ら変わりはなかった。
しかし、彼の魂は、建国王から受け継いだ願いの炎で燃え盛っていた。
彼は、懐から最後の『虚空の墨』を取り出した。もはや見えず、聞こえず、感じることもない。ただ、魂が命じるままに、その墨を自らの指につけると、己の胸に、真実の言葉を刻み始めた。
彼の僅かに残った記憶、存在、命そのものが、墨に喰われ、聖なる言葉へと変わっていく。
『真実の王は、万民の願いをこそ、国の礎とした』
一文字、また一文字と刻むたびに、シズマの身体は内側から眩い光を放ち始める。皮膚は硬質化し、透き通った結晶へと姿を変えていく。それは、単色の結晶ではない。建国王の偉大な願い、エリオットの忠誠、名もなき犠牲者たちの無念、そして、真実を未来へ繋ごうとしたシズマ自身の『切なる願い』。その全てが溶け合い、無数の色を内包した、巨大な虹色の結晶体へと変貌を遂げていった。
摂政バルドゥスは、そのあまりに神々しい光景に恐怖し、霊廟から逃げ出した。
――数百年後。
都の中心には、いつからそこにあるのか誰も知らない、巨大な虹色の結晶が静かに佇んでいた。人々はそれを「名もなき筆耕士の碑」と呼び、その前で祈りを捧げると、不思議と心が温かくなると信じていた。
偽りの歴史が続く世界で、その結晶だけが、消されたはずの幾多の願いと真実の物語をその身に宿し、いつかその声に耳を傾ける者が現れる日を、永遠の静寂の中で待ち続けている。