第一章 辻謡いの色
江戸の夜は、無数の音で出来ている。行き交う人々の下駄の音は乾いた褐色、物売りの呼び声は快活な山吹色、そして家々から漏れる笑い声は温かな橙色。橘蒼馬(たちばな そうま)にとって、世界は常に音という絵の具で描かれた、絶え間ない色彩の洪水だった。
生まれつき、彼は音を色として認識した。この共感覚は、彼を常に孤独にした。幼い頃は気味悪がられ、長じてからは剣の道に進んだものの、刃と刃が交わる甲高い銀色や、肉を斬る鈍い赤黒い色が彼を苛み、人を斬ることを極端に嫌う風変わりな武士となった。結果、些細な不行跡を理由に藩を追われ、今では江戸の片隅で用心棒まがいのことをして糊口をしのいでいる。
その日、蒼馬が耳にした噂は、彼が知るどの音の色とも異なっていた。
「辻謡い、だそうだ」
馴染みの居酒屋で、男たちが声を潜めて話している。その声は、恐怖に染まった淀んだ紫色をしていた。
「夜道で奇妙な唄を聴いちまうと、魂を抜かれるらしい。傷一つないのに、次の日にはもう廃人のように、ただ虚空を見つめるだけになるって話だ」
馬鹿げた話だ、と蒼馬は思った。だが、その噂話が放つ異様な色の濃さが、彼の胸に小さな棘のように引っかかった。
数日後の夜。月も隠れた闇の中、蒼馬は依頼仕事を終えて長屋への帰路を急いでいた。しんと静まり返った路地に差し掛かった、その時だった。ふいに、空気が震えた。唄が聞こえる。男の声とも女の声ともつかぬ、地を這うような低い旋律。
そして、蒼馬の世界は一変した。
視界のすべてが、色に塗り潰される。それは、今まで見たこともない色だった。すべてを飲み込むような、底なしの漆黒。だが、ただの黒ではない。その漆黒の奥で、まるで溶かした金のような、禍々しくも悲痛な光が明滅している。その色は、直接脳髄を掴んで揺さぶるような、抗いがたい力を持っていた。
「ぐっ……!」
こめかみに激痛が走り、膝が折れる。耳を塞いでも意味がない。音は色となって、蒼馬の全身を貫いてくる。意識が遠のき、暗い色の奔流に引きずり込まれそうになる。これまで感じてきた孤独や絶望が、この漆黒の色に共鳴し、彼を内側から蝕んでいく。
だが、その時。脳裏にかすかに、今は亡き母が謡ってくれた子守唄の、淡く優しい水色がよぎった。蒼馬は最後の力を振り絞り、その小さな水色にしがみつくようにして、漆黒の支配から逃れた。
唄が止むと、漆黒の奔流は嘘のように消え去った。夜の闇には、いつもの静寂が戻っている。蒼馬は荒い息をつきながら、冷たい汗の滲む額を拭った。あれは何だ。人の心を壊すという噂は、真実だった。あの漆黒に金の混じる唄の色。その正体を突き止めなければならない。それは、己の身を守るためだけではない。あの色に込められた、計り知れないほどの絶望と悲しみの正体を知りたいという、抗いがたい衝動に駆られていた。
第二章 縁繋ぐ琵琶の音
蒼馬は辻謡いの調査を始めた。被害に遭ったという人々を訪ね歩いたが、彼らは皆、蒼馬が知る「虚ろな人間」そのものだった。瞳から光は消え、その存在から発せられる音は、まるで色褪せた和紙のように、かさかさと薄く弱々しい灰色をしているだけだった。被害者たちの間に身分や暮らしぶりの共通点は見いだせず、調査は難航した。
唯一の手掛かりは、被害者の一人が倒れる直前、「琵琶の音が……」と呟いていたという証言だけだった。蒼馬はそれを頼りに、江戸中の琵琶法師を訪ね歩いた。そして、ある貧しい長屋で、一人の少女に出会う。
「父に、何か御用でしょうか」
名を凛(りん)というその少女は、歳の頃は十五、六だろうか。陽の光を浴びて透けるような白い肌と、澄んだ黒い瞳が印象的だった。彼女の声は、汚れのない清水のような、清らかな青色をしていた。その側には、盲目の父親が静かに座っている。高名な琵琶法師、玄月(げんげつ)であった。
「辻に現れるという、奇妙な謡い手についてご存知ないかと」
蒼馬の問いに、玄月は静かに首を振った。その仕草から発せられる音は、穏やかな深緑色をしていた。だが、その色の奥に、ほんのかすかな揺らぎがあるのを蒼馬は見逃さなかった。
蒼馬が立ち去ろうとすると、凛がそっと後を追ってきた。
「あ、あの……」
凛は不安げに唇を噛みしめながら、声を絞り出した。その声色は、先ほどの青に、心配の色である淡い藤色が混じっている。
「実は、父の様子が近頃おかしいのです。ひと月ほど前、古い知人からだと言って、奇妙な楽譜を譲り受けてから……夜な夜な、誰もいない部屋で、聴いたこともない旋律を口ずさむようになりました。その楽譜を見せてほしいと頼んでも、決して見せてはくれません」
その言葉に、蒼馬は足を止めた。
「その楽譜は、どんなものか分かりますか」
「一度だけ、父が眠っている間に盗み見ました。ですが、ただの墨の染みのような、奇妙な記号が並んでいるだけで、とても楽譜とは思えませんでした」
これだ、と蒼馬は直感した。辻謡いの正体は、玄月が手にしたその禁断の楽譜にあるのかもしれない。蒼馬は、自分の持つ不思議な感覚のことを、ありのままに凛に打ち明けた。音を色として見てしまうこと、辻謡いが放つ禍々しい色のことを。
常人ならば眉をひそめるであろう告白に、凛は驚いた顔をしたが、やがて静かに頷いた。
「あなたは……世界を、私たちとは違う形で感じていらっしゃるのですね。父は目が見えませぬが、その分、誰よりも鋭い耳で世界を聴いております。あなたの力も、それと同じようなものなのでしょう」
偏見のない、ありのままの受容。その言葉が放つ温かな桜色が、蒼馬の孤独な心をじんわりと溶かしていく。彼は、この父娘を守ろうと、固く心に誓った。
第三章 漆黒の謡い手
数日後の夜。蒼馬の予感は的中した。玄月の家から、あの唄が漏れ聞こえてきたのだ。だが、いつもと違う。唄声は弱々しく、漆黒の色も薄い。まるで、何者かが玄月に無理やり謡わせているかのようだ。
蒼馬は家に飛び込んだ。すると、そこにいたのは能面をつけた長身の男。その手には抜き身の刀が握られ、切っ先が凛に向けられている。玄月は娘を人質に取られ、無理やり謡わされていたのだ。
「誰だ!」
蒼馬が叫ぶと、能面の男は玄月を突き飛ばし、蒼馬に斬りかかってきた。男の動きは速く、剣筋は鋭い。刃が空を切るたびに、殺意に満ちた鋭利な銀色の線が闇を裂く。
「凛さん、お父さんを!」
蒼馬は叫びながら、男の猛攻を受け止める。しかし、男は剣を交えながら、自らもあの唄を謡い始めた。今度は、あの夜に蒼馬を襲ったものと同じ、濃密で力強い漆黒の旋律だった。
視界が再び、あの禍々しい色に染まる。だが、今の蒼馬は一人ではなかった。背後で凛が必死に父を介抱している。彼女の不安げな呼吸が放つ藤色が、蒼馬の世界にかすかな光を灯していた。
(この色に、呑まれるな)
蒼馬は、音の色に意識を集中させた。男の剣戟の音、呼吸の音、足さばきの音。それら全てが、殺意の赤黒い色となって視界に飛び込んでくる。彼はもはや目で追うのではなく、色の流れを読んで男の動きを先読みした。漆黒の謡いが精神を蝕む中、蒼馬の剣は、まるで色の隙間を縫うように、正確に男の急所を狙う。
一瞬の静寂。蒼馬の刀が、男のつけていた能面を浅く切り裂いた。カラン、と乾いた音を立てて面が床に落ちる。
その下に現れた顔を見て、蒼馬は息を呑んだ。凛も、息を詰まらせた。
そこに立っていたのは、盲目のはずの琵琶法師、玄月その人だった。しかし、その目はらんらんと光を宿し、憎悪に歪んでいる。先ほどまで震えていた老人とは、まるで別人だった。
「な……ぜ……」
呆然とする蒼馬に、玄月は嘲るように笑った。
「驚いたか、若造。盲目のフリも、娘を人質に取られたフリも、全てはお前を油断させるための芝居よ」
「父さん……?」
凛の震える声は、信じられないという絶望の藍色に染まっていた。
玄月は語り始めた。彼の持つ「音霊(おとだま)」の力。それは、音で人の魂を癒し、また破壊することもできる、一族に伝わる禁断の術だった。そして、彼の復讐の動機を。
かつて彼の仕えた藩は、ある幕府の要人の奸計によって、無実の罪で取り潰された。その混乱の中で、彼は最愛の妻を失った。辻謡いの被害者たちは、その要人を追い詰めるための、術の実験台に過ぎなかったのだ。
そして、玄月は蒼馬をじっと見つめ、最後の真実を告げた。
「お前が藩を追われる原因となったあの不行跡……あれも、その要人が仕組んだ罠だったのだ。お前のような腕の立つ武士が、邪魔だったのだろう。我らは、同じ男に人生を狂わされた、いわば同志なのだ」
衝撃の事実に、蒼馬の世界が揺らいだ。自分の過去を縛り付けていた理不尽な追放劇。その元凶が、目の前の男が憎む相手と同一人物だったとは。復讐の炎が放つ濁った赤錆色が、玄月の周りだけでなく、蒼馬自身の心の中にも燃え広がっていくのを感じた。
第四章 悲しみの金色
復讐の同志。その言葉は、蒼馬の心を強く揺さぶった。玄月の怒りは、もはや他人事ではなかった。この男と共に、諸悪の根源である幕府要人を討つべきではないのか。剣を握る手に、力がこもる。蒼馬の視界で、玄月の放つ漆黒の色が、より一層濃くなった。
だが、その時。蒼馬は見た。
すべてを塗りつぶすような漆黒の奥で、明滅するあの金色の光。それは憎しみや怒りの色ではなかった。目を凝らせば凝らすほど、その金色は、悲しみの形をしていることが分かった。妻を失った嘆き。奪われた日々の輝き。そして、血に塗れた復讐の道を選んでしまったことへの、深い後悔。それは、玄月自身も気づいていない、魂の奥底からの叫びだった。
そして、蒼馬は自分の足元を見た。そこには、ただただ涙を流す凛の姿があった。彼女の流す涙の音は、心が張り裂けるような、痛々しい藍色をしていた。父を信じ、慕っていた純粋な心が、今まさに壊れようとしている。この色まで、復讐の炎で焼き尽くしていいはずがない。
蒼馬は、ゆっくりと剣を下ろした。
「……もう、お止めなされ」
その声は、静かだったが、確固たる意志の色である、曇りのない鋼色をしていた。
「あなたの謡いの色は、怒りの漆黒だけではない。その奥に……亡き奥方への想いであろう、悲しくも美しい金色が見える。その金色まで、憎しみで塗りつぶしてはなりませぬ。あなたの琵琶の音は、本来、人の心を癒すためのものではなかったのですか」
蒼馬の言葉は、音霊の術ではない。だが、それは玄月の心の最も柔らかな部分に、確かに届いた。
「金色……だと……?」
玄月は、はっとしたように目を見開いた。彼の瞳から、憎悪の光がすうっと消えていく。そして、堰を切ったように涙が溢れ出した。復讐のために忘れていた、いや、忘れようとしていた妻への愛情、そして娘への想いが、一気に込み上げてきたのだ。
「おお……おお……」
男の慟哭が、部屋に響き渡る。禍々しかった漆黒の音色は次第に薄れ、やがて悲しみの藍色と、後悔の灰色、そして、微かな愛情の温かな金色が入り混じった、複雑で、しかし人間らしい色へと変わっていった。
後日、玄月は自らの罪を償うため、奉行所に自首して出た。凛は、いつか戻る父を待ち続けると、涙を浮かべながらも気丈に蒼馬に告げた。
蒼馬は、江戸を離れることにした。
あの日以来、彼は自分の能力を呪わなくなった。音の色は、人の心の真実を映し出す鏡なのだと知ったからだ。それを正しく見つめ、受け止めること。それが、今の自分にできることだと感じていた。
旅立ちの朝。蒼馬が歩く江戸の町は、相変わらず無数の音と色で満ち溢れていた。しかし、もはやそれは彼を苛む混沌の洪水ではなかった。物売りの声、職人たちの槌音、子供たちのはしゃぐ声。その一つ一つの音が、それぞれの人生の色を奏でている。それらが混じり合って生まれる江戸という町の音景色が、今はただ、愛おしく感じられた。
蒼馬は、空を見上げた。朝の光が、彼の進む道を優しく照らしている。どこへ向かうという当てはない。だが、彼の心は不思議なほど晴れやかだった。己の景色を見つけた男の足取りは、確かで、力強かった。