忘却の刃、感情の残響
第一章 錆びついた記憶
カイの指先が、鈍く光る脇差の茎(なかご)に触れた。骨董市の隅で、埃を被っていた一振り。店主は「ただのなまくらですよ」と笑ったが、カイには分かっていた。この鉄の奥底に、消えかけた囁きが眠っていることを。
工房に持ち帰り、懐から細身の刀を取り出す。鞘から現れた刀身は、まるで水面のように澄み渡り、周囲の景色を歪みなく映し出す。師から受け継いだ『時の刃』。これだけが、忘れられた過去の扉を開く鍵だった。
カイは集中し、時の刃の切っ先を脇差の刀身にそっと重ねた。目を閉じる。途端に、冷たい鉄の匂いと共に、映像が脳裏に流れ込んできた。それは映像というより、感覚の洪水だった。雪の降る夜。凍てつく風が着物の隙間から肌を刺す。背後から迫る複数の足音。振り向きざまに脇差を抜く、若い武士の焦燥。しかし、残像はそこで途切れる。斬り結ぶ瞬間の激情も、血飛沫の熱さも、すべてが磨り減った砂絵のように朧げで、すぐに霧散してしまった。
「またか……」
カイはため息をついた。ここ数年、世界は緩やかに色を失っていた。人々は怒らず、深く悲しまず、心から笑うことも稀になった。争い事は減り、街は穏やかで満たされている。だが、その平穏はどこか薄っぺらで、まるで水で薄めた絵の具のようだった。
「感情の残像」を視るカイの能力にとって、それは死活問題だった。真の感情が込められた一太刀だけが、時を超えて情景を刻む。その感情が世界から失われれば、歴史そのものが、ただの文字の羅列と化し、やがてはそれさえも意味をなさなくなるだろう。師はそれを憂い、カイに時の刃を託した。「源流を探せ」と、そう言い遺して。
カイは立ち上がり、旅支度を始めた。このまま世界が静かな忘却に沈んでいくのを、ただ見ているわけにはいかなかった。失われた感情の、あの燃えるような熱を、もう一度この手で確かめるために。
第二章 時の刃の囁き
古文書の僅かな記述を頼りに、カイがたどり着いたのは、霧深い山中にひっそりと佇む古寺だった。本堂の奥、固く閉ざされた宝物庫に、その刀は祀られているという。住職の老僧は、感情の読めない穏やかな瞳でカイを見つめ、「あれは、あまりに多くの記憶を吸い過ぎた刀です。触れれば、心が壊れますぞ」とだけ告げた。
重い木の扉が開かれると、黴と古い木の香りが鼻をついた。薄闇の中、一本の太刀が静かにそこにあった。長い年月を経てもなお、その刀身は禍々しいまでの光を放っている。
カイは息を呑み、慎重に時の刃を抜いた。
切っ先が触れた瞬間、世界が爆ぜた。
轟音。怒号。刃と刃がぶつかり合う甲高い金属音。それは、かつてこの国を二分した大戦の記憶。城を守るため、友を斬り、敵を討った武将の絶望。血の鉄臭さ。焼ける肉の匂い。腕を斬り落とされた兵士の、声にならない絶叫。愛する者を護れた安堵と、多くの命を奪った罪悪感が、濁流となってカイの精神を飲み込もうとする。
「ぐっ……あ……!」
膝から崩れ落ち、胸を押さえる。情報量が多すぎる。感情が強すぎる。これが、世界が失ってしまったもの。この痛み、この苦しみ、そして、この烈しいまでの生の輝き。涙が頬を伝った。それは悲しみか、あるいは歓喜か、カイ自身にも分からなかった。彼は、この混沌とした感情の奔流の中に、確かに「心」と呼べるものの原風景を見たのだ。
第三章 無色の街
さらに旅を続け、カイは奇妙な街に足を踏み入れた。そこは完璧に整備され、塵一つ落ちていない。人々は互いに微笑み、道を譲り合う。争いも、諍いもない。しかし、その微笑みに色はなく、親切はただの記号に過ぎなかった。誰もが同じような服を着て、同じような時間に働き、同じような食事をとる。ここは、感情が完全に枯渇した、未来の世界の縮図なのかもしれない。
街の鍛冶屋を覗くと、職人が黙々と刃物を研いでいた。カイが手に取った包丁は、寸分の狂いもなく仕上げられ、恐ろしいほどの切れ味を秘めているのが分かった。だが、時の刃をかざしても、そこには何の残像も浮かばない。ただ、冷たい鉄の感触があるだけ。職人の手から、素材から、道具から、感情というものが完全に抜け落ちている。
「素晴らしい腕ですね」
カイが声をかけると、職人は無表情のまま顔を上げた。
「規格通りに作っているだけです。感情は、作業の妨げになりますから」
その言葉に、カイは背筋が凍るような寒気を感じた。効率化の果てにあるこの虚無。これが、師が恐れた世界の終着点なのだ。彼は一刻も早く、この静かな絶望から抜け出したかった。
第四章 虚ろな守護者
感情の源流を求めて、カイは再びあの古寺へと戻った。強烈な残像を放っていた太刀。あの記憶の奔流のさらに奥に、何かがあるはずだ。
彼は再び太刀に時の刃を触れさせ、今度は意識を失うまいと、荒れ狂う感情の濁流に深く深く潜っていった。憎悪と悲哀の渦を抜け、その中心にたどり着いた時、風景は一変した。
そこは、時の流れから切り離されたような、純白の空間だった。
そして、彼の前に一人の女が立っていた。銀色の髪を長く伸ばし、感情というものが一切感じられない、ガラス玉のような瞳をしている。
「よくぞ、ここまで来ましたね。時の残像を追う者」
女の声は、音というより思考が直接響くような、不思議な感覚だった。
「お前は、誰だ?」
「私はユラ。この世界に『穏やかな忘却』をもたらした者です」
ユラは淡々と語り始めた。感情こそが、人類が繰り返してきた争いと苦しみの根源であること。未来の人々は、その連鎖を断ち切るため、過去の世界に干渉し、感情という概念を少しずつ希釈していったこと。それが、この世界の平穏の正体なのだと。
「あなたが手にしている『時の刃』は、私たちのシステムが生み出してしまった唯一のバグ。過去の感情を増幅し、呼び覚ます危険な鍵。だから、あなたに会いに来たのです」
ユラの言葉は、カイの旅のすべてを根底から覆した。彼は世界を救おうとしていたのではない。未来がもたらした救済を、破壊しようとしていただけなのか。
第五章 選択の天秤
「世界を、どうしたいのですか?」
ユラは静かに問うた。その瞳に、カイへの非難の色はない。ただ、純粋な疑問だけが浮かんでいる。
「時の刃を使えば、『穏やかな忘却』のヴェールは破られます。世界は再び、色鮮やかな感情を取り戻すでしょう。しかしそれは同時に、人々が忘れ去ったはずの、ありとあらゆる苦痛と憎悪を蘇らせることを意味します。かつての大戦の記憶が、人々の心に生々しく蘇り、新たな争いの火種となるでしょう」
ユラはカイに選択を迫る。
「時の刃を、ここで破壊してください。そうすれば、世界は完全な平穏を手に入れます。誰も傷つかず、誰も苦しまない、永遠に穏やかな世界が完成するのです」
カイは唇を噛みしめた。無色の街の光景が脳裏をよぎる。あの虚ろな平穏。あれが理想郷だというのか。だが、感情の残像が叩きつけてきた、あの地獄のような苦痛もまた真実だ。愛する者を失う悲しみ、裏切られた怒り、人を殺める罪悪感。人々をそんな苦しみから解放できるのなら、それこそが救いなのではないか。
師の言葉が、耳の奥で木霊した。
『痛みを忘れれば、優しさも忘れる。喜びを知らねば、悲しみも理解できん。不器用で、愚かで、矛盾だらけだ。だが、それが人間というものだろう』
そうだ。師は、知っていたのだ。この世界の真実も、カイがこの選択を迫られることも。その上で、時の刃を託したのだ。信じて。カイという一人の人間が下す決断を。
第六章 響き渡る一太刀
カイは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もう迷いはなかった。
「俺は選ぶ。たとえそれが、地獄への道だとしても」
彼はユラに背を向け、時の刃を両手で握りしめた。
「平穏は、停滞だ。傷つくことを恐れて動けなくなった魂は、生きているとは言えない。俺は、痛みを抱きしめながら、それでも笑おうとする……そんな不器用な人間たちが生きる世界を選ぶ」
カイは時の刃を天高く掲げた。ユラは静かにそれを見つめている。世界を混沌に還す、破壊の一撃が放たれる。そう、彼女は思っただろう。
だが、カイの刃が向かったのは、虚空でも、ユラでもなかった。
彼は、自らの魂のすべてを、覚悟という名の「真の感情」を込めて、一気に刃を振り下ろした。切っ先は、純白の空間、その一点……時の刃の刀身そのものに叩きつけられた。
キィン、と高く澄んだ音が響き渡る。
時の刃の刀身に、一本の細い、蜘蛛の巣のような亀裂が入った。
それは破壊ではない。再生のための、ほんの小さな傷。忘却のシステムを完全に壊すのではなく、その完璧な調和に、ほんの少しの「ゆらぎ」を与える一太刀。人々が再び、自らの力で感情を育んでいくための、可能性の種を蒔く行為だった。
第七章 夜明けの色
純白の空間が、砂のように崩れていく。カイが気づくと、彼は元の古寺の宝物庫に立っていた。手の中の時の刃には、確かにあの時ついた小さな亀裂が残っている。
世界は、すぐには変わらなかった。街を歩いても、人々はまだ穏やかな表情のままだ。しかし、カイには変化の兆しが感じられた。
以前立ち寄った無色の街の広場で、一人の子供が空を見上げていた。
「……あお」
子供が、ぽつりと呟いた。その隣にいた母親が、はっとしたように空を見上げ、その瞳がわずかに潤んだように見えた。道端に咲く名もなき花に足を止め、その香りを確かめる老婆がいた。それは、あまりにも些細で、儚い変化。だが、それは間違いなく、世界が再び呼吸を始めた証だった。
カイの目の前から、ユラの気配が静かに消えていく。最後に、彼女の心がほんの少しだけ揺らいだような気がした。それは、寂しさ、あるいは羨望だったのかもしれない。
カイは、亀裂の入った時の刃を鞘に収めた。彼の旅はまだ終わらない。これから世界は、再び多くの痛みと悲しみを経験するだろう。しかし、それと同じだけの喜びと、愛と、希望を育んでいくはずだ。
彼は、忘れられた物語と、芽生え始めたばかりの感情の残響を拾い集めるため、再び歩き出す。東の空が、ほんの少しだけ、夜明けの色に染まり始めていた。