記憶経師(きおくきょうじ)と白詰草の君

記憶経師(きおくきょうじ)と白詰草の君

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第一章 欠けた月の記憶

江戸の片隅、神田の裏通りに、弥一(やいち)の工房はあった。表向きは腕利きの経師(きょうじ)。破れた襖や屏風、古びた掛け軸を、まるで新品のように蘇らせるその手際は、知る人ぞ知る評判だった。だが、弥一にはもう一つの顔があった。それは、ごく限られた者しか知らぬ、「記憶師(きおくし)」という裏の稼業だ。

弥一の家系は代々、特殊な香と墨、そして精神を研ぎ澄ますことで、人の傷ついた記憶の深層へと入り込み、その欠落や歪みを「修復」する秘術を受け継いできた。それは神業に近いが、人の心という最も神聖な領域に土足で踏み入る行為でもある。弥一は誇りと共に、常に冷たい罪悪感を背負っていた。

ある雨の夜、工房の戸を叩く音がした。現れたのは、上質な絹の羽織を纏った武士。藩の勘定方を務める重臣、倉田左衛門(くらたさえもん)と名乗った。その顔には、地位にそぐわぬ憔悴の色が浮かんでいる。

「我が娘、千代を救っていただきたい」

倉田は深く頭を下げた。話によれば、一人娘の千代が、ひと月ほど前の蔵の火事を境に、心を固く閉ざしてしまったという。火事で懇意にしていた若者が命を落とし、その衝撃で娘は事件前後の記憶を失い、まるで魂の抜け殻のようになってしまった、と。

「ただの物忘れではない。娘の記憶は、まるで虫に食われた絵巻のように、所々が黒く欠け落ちておるのだ。記憶師殿の噂はかねがね。どうか、娘の記憶を元通りに修復してはいただけぬか」

弥一は、倉田の目の中に、娘を想う父の悲しみとは少し違う、焦りのような光を見た。まるで、何か都合の悪いものが、記憶の欠片と共に失われたことを安堵しているような、奇妙な光を。

「お引き受けいたしましょう。ただし、記憶の修復は、破れた紙を継ぎ合わせるのとは訳が違う。持ち主の心が拒めば、決して元には戻りませぬ」

弥一は静かに告げた。雨音だけが、二人の間の不穏な沈黙を埋めていた。この依頼が、ただの悲劇の修復で終わらないことを、弥一は予感していた。それは、彼の職人としての矜持そのものを揺るがす、危険な仕事の始まりだった。

第二章 白詰草の絵巻

倉田の屋敷は、主の地位を示すように広大だったが、空恐ろしいほどに静まり返っていた。通された一室で、弥一は千代と対面した。人形のように整った顔立ちの娘だったが、その黒い瞳はどこか遠くを見つめ、光を映してはいなかった。傍らには、彼女が摘んだのであろう、白詰草(しろつめくさ)の小さな花冠が置かれている。

弥一は工房から持参した道具を広げた。特殊な配合で練られた白檀の香を焚き、硯でゆっくりと墨をする。その墨は、人の記憶に作用する薬草を混ぜ込んだ秘伝のものだ。香の匂いが部屋に満ち、墨をする規則正しい音が静寂に溶けていく。弥一は千代に向かい、静かに語りかけた。

「お嬢様。これから、あなたの心の絵巻を拝見いたします。恐れることはない。ただ、美しい思い出だけを、心のままに思い浮かべてくだされ」

弥一は精神を集中させ、千代の意識の縁に触れた。そこは、霧に包まれた庭のようだった。少しずつ奥へ進むと、断片的な記憶の光景が、破れた絵のように浮かび上がっては消えていく。

――春の陽光が降り注ぐ桜並木。隣を歩く、凛々しい若武者の横顔。彼の名は藤次郎(とうじろう)。下級武士だが、剣の腕も学問も優れていた。

――縁側で、二人で白詰草の花冠を作る、穏やかな昼下がり。千代の笑い声が、鈴のように響いている。藤次郎が彼女の髪にそっと花冠を乗せる。その指先の温もり。

弥一は、まるで破れた和紙を繋ぎ合わせるように、慎重に記憶の断片を辿り、その意味を読み解いていく。藤次郎は千代の許嫁だった。二人は深く愛し合っていた。その幸せな記憶は、色鮮やかで温かい。だが、絵巻を読み進めるにつれ、不穏な影が差し始める。

――藤次郎の深刻な顔。「この藩は、根が腐っている。だが俺が必ず正す」。彼の瞳に宿る、正義の炎。

――倉田の冷たい声。「分不相応な望みは抱かぬことだ」。娘の恋を、快く思っていなかった父の姿。

そして、記憶の絵巻は、ある一点で無残に焼け焦げ、引き裂かれていた。炎の赤、立ち上る黒煙、誰かの絶叫。その先は、完全な虚無だった。弥一は、火事が起きた夜、二人が密会していたこと、そして藤次郎がその火事で命を落としたという事実を再確認した。千代の心は、愛する人を失った衝撃で、自らを守るために最も辛い部分の記憶に蓋をしてしまったのだ。

弥一は数日にわたり屋敷に通い、修復を続けた。千代は、弥一が記憶の断片を繋ぎ合わせるたびに、少しずつ表情を取り戻していった。ある日、彼女はぽつりと言った。

「弥一様の手は、温かいのですね。まるで、陽だまりのようです」

その言葉に、弥一の心は微かに揺れた。人の心に触れることに罪悪感を抱き続けてきた彼にとって、その一言は予期せぬ救いだった。彼は、この美しい娘を、偽りのない形で救いたいと、強く思うようになっていた。

第三章 灰燼に咲く真実

修復は最終段階に入っていた。焼け焦げた記憶の中心部、火事の夜の核心に、弥一は挑もうとしていた。これまでで最も深く精神を沈め、千代の心の最奥に触れた瞬間、彼は息を呑んだ。

そこに広がっていたのは、弥一の、そしておそらくは倉田の想像を遥かに超える、おぞましい真実だった。

火事の夜。藤次郎は、藩の不正――公金の横領と、それを隠蔽するための帳簿改竄の証拠を掴み、千代に打ち明けていた。その不正の中心にいたのが、他ならぬ彼女の父、倉田左衛門だったのだ。藤次郎は倉田に自首を迫るつもりだった。

「お嬢様、お許しください。ですが、これが武士としての道なのです」

その言葉を、物陰で倉田が聞いていた。

月のない闇夜、倉田は藤次郎を蔵に呼び出した。そして、口封じのために、配下の者に彼を斬り殺させたのだ。千代は、二人の逢瀬を待ちわびて隠れていた場所から、その全てを目撃してしまった。愛する人が、実の父の命令で殺される光景を。

絶望が千代の心を食い破った。正気と狂気の狭間で、彼女は一つの決断を下す。藤次郎が命を懸けて守ろうとした証拠の帳簿が隠されている蔵に、自ら火を放ったのだ。父の罪も、愛する人の無念も、そして自分自身の存在も、全てを灰にしてしまおうと。

だが、彼女は死にきれなかった。火事に気づいた者たちに助け出され、生き残ってしまった。そして彼女の心は、その耐え難い記憶から自らを守るため、固く、厚い殻を作り上げた。彼女が失ったのは、恋人の死の衝撃による記憶ではない。自分が「父殺しの罪を目撃し、全てを焼き尽くそうとした」という、あまりにもおぞましい真実の記憶だったのだ。

弥一は全身から血の気が引くのを感じた。倉田の依頼の真意を、今、骨の髄まで理解した。彼は娘の心を救いたいのではなかった。娘が「父の罪を知っている」という、自分にとって最も不都合な記憶だけを消し去り、事件を闇に葬りたかったのだ。記憶師の力を、己の保身のために利用しようとしていたのである。

弥一はそっと千代の意識から離れた。彼の目の前で、何も知らずに眠る千代の顔は、幼子のように無垢だった。この顔に、どうしてあの地獄を思い出させることができようか。だが、偽りの記憶を上書きし、父の罪に加担することなど、断じてできるはずがなかった。彼は、記憶師として、人間として、究極の選択を迫られていた。

第四章 修復師の選択

工房に戻った弥一は、何日も眠れずに過ごした。彼の前には、二つの道があった。一つは、倉田の望む通り、千代の記憶を改竄し、藤次郎の死をただの悲しい事故として完結させる道。そうすれば千代は、父を疑うことなく、表面的な心の平穏を取り戻せるかもしれない。もう一つは、真実をありのままに修復する道。しかしそれは、彼女を再び絶望の淵に突き落とし、父と娘の関係を修復不可能なまでに破壊することを意味した。

どちらも、彼が目指す「修復」ではなかった。人の心を弄ぶ傲慢さ。これまで漠然と抱いていた罪悪感が、今はっきりとした輪郭を持って彼の喉元に突きつけられていた。

数日後、弥一は意を決して倉田の屋敷を訪れた。彼の顔には、職人としての覚悟が宿っていた。

「お嬢様の記憶の修復、完了いたしました」

倉田は安堵の表情を浮かべた。「でかした。これで娘も……」

「しかし」と、弥一は言葉を遮った。「記憶とは、ただそこにあるだけの絵巻ではございませぬ。持ち主が自ら選び、背負い、そして未来へと繋いでいくもの。私ができるのは、破れた箇所を継ぎ合わせ、その先を読み進めるための手助けをすることまで」

彼はそう言うと、倉田が差し出した分厚い報酬の包みを、静かに押し返した。

「この仕事に、値はつけられませぬ」

倉田の顔から表情が消えた。弥一が何をしたのか、あるいは何をしなかったのかを悟ったのだろう。弥一はただ一礼し、屋敷を後にした。

弥一が千代の記憶の絵巻にした最後の仕事は、修復でも改竄でもなかった。彼は、焼け焦げた記憶の中心に、わざと一つの「不自然な継ぎ目」を残してきたのだ。それは、藤次郎が死の間際に千代に託した言葉の記憶だった。

「証の帳簿は、屋敷の…あの白詰草の庭に埋めた石の下に…」

この言葉を、弥一は完全に修復せず、夢と現の狭間にあるような、曖昧な断片として残した。いつか千代が自らの力で心の殻を破った時、その継ぎ目が彼女を真実へと導く「しるし」となるように。真実と向き合うか、見ぬふりをするか。その選択は、彼女自身に委ねたのだ。

季節が巡り、冬の足音が聞こえる頃、倉田左衛門の長年にわたる不正が白日の下に晒され、藩に大きな政変が起きた、という噂が江戸の町を駆け巡った。倉田家は取り潰しとなった。そのきっかけを作ったのが誰なのか、真相を知る者はいない。

弥一は工房で、古びた屏風の修復をしていた。金箔の剥げた雲の間に、新しい金箔を慎重に置いていく。その手元には、いつか倉田の屋敷から持ち帰った、一枚の白詰草の押し花が栞のように置かれていた。

彼はふと手を止め、窓の外の冬空を見上げた。

人の心を修復するのではない。人が、自らの足で再び立ち上がるための杖を、そっと差し出すこと。それが、記憶師としての自分の、本当の仕事なのかもしれない。

弥一の心には、温かい陽だまりのような安らぎと、冬空のように澄んだ、一抹の切なさが静かに広がっていた。

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