零れ落ちた木馬の行方

零れ落ちた木馬の行方

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第一章 褪せた記憶の輪郭

古書店『時紡ぎ堂』の空気は、いつも紙とインク、そして微かな黴の匂いで満ちていた。悠人(ゆうと)は、その静謐を愛していた。客のいない午後の時間は、彼のものだ。背表紙の擦り切れた文庫本を手に取り、指先でその歴史をなぞる。彼の周りでは、時間がゆるやかに澱んでいるようだった。

悠人が書架の整理を終え、店の前の歩道に出る。陽光が眩しく、目を細めた。彼が通り過ぎた後、足元で転がっていたはずの小さな錆びたナットが、まるで最初からそこになかったかのように消え失せる。悠人は気づかない。彼の意識の網の目から零れ落ちたものは、いつも静かに日常から姿を消すのだ。

彼がもう何年も探し続けているものがある。幼い頃、今は亡き祖父が彫ってくれた、手のひらサイズの木馬の模型。白木の体に、少しだけ掠れた青い鞍。そのざらついた手触りと、片耳の先端にあった小さな傷だけが、記憶の中で妙に生々しい。しかし、その実物はどこにもなかった。実家の物置を何度ひっくり返しても、母親に尋ねても、彼女は困ったように眉を寄せるだけだった。「そんな玩具、あったかしらねぇ……」。まるで、悠人だけの幻だったかのように。

友人たちも誰も覚えていない。その木馬の存在を証明するものは、彼の心に焼き付いた不確かな輪郭だけ。その喪失感は、静かな店内のように、彼の日常に深く澱んでいた。

第二章 日常の浸食

街は絶えずその姿を変えていく。だが、近頃のそれは少し奇妙だった。悠人がよく立ち寄っていた角の煙草屋が、ある日忽然と姿を消し、そこにはただの更地が広がっていた。近所の人に尋ねても、「さあ、前から空き地でしたよ」と曖昧な顔をするばかり。誰もが、その場所に店があったという確かな記憶を持っていなかった。

「日常の浸食」。いつしか、ネットの片隅で囁かれるようになった言葉だ。誰からも意味を見出されなくなったモノや場所が、少しずつ半透明になり、やがて世界から完全に消滅する現象。人々は時折、胸の内に微かな違和感を覚える。「あれ、ここに何かあったような……」。だが、その感覚は風に吹かれた煙のように、すぐに霧散してしまう。

悠人は、自分の木馬もその現象に飲み込まれてしまったのではないかと考えていた。誰からも忘れられ、意味を失い、世界の片隅で静かに空気へと還っていったのではないか。そう思うと、胸の奥に冷たい隙間風が吹く。自分が覚えてさえいれば、消えずに済んだのだろうか。いや、自分一人の記憶では、世界の忘却の力には抗えないのかもしれない。

彼は今日も街を歩く。何かを見落とすまいと、必死に風景を目に焼き付けながら。だが、彼の足元では、ひび割れたアスファルトの隙間に根を張っていた名もなき雑草が、その緑を失い、静かに透明になっていくのを、彼は知る由もなかった。

第三章 手の中の空虚

「まだ探してるの? その木馬」

時紡ぎ堂のカウンターで、同僚の沙耶(さや)が呆れたように言った。彼女の明るい声は、店の澱んだ空気をわずかに揺らす。

「うん……。どうしても忘れられないんだ」

「でも、誰も覚えてないんでしょ? 悠人の思い込みってことはないの?」

沙耶の言葉はいつも現実的で、少しだけ鋭い。だが、彼女なりに悠人を心配しているのが伝わってくる。悠人は、持っていた古書を棚に戻しながら、小さく首を振った。

「手触りを覚えてるんだ。木の温もりと、指に引っかかった傷の感触を。あれは絶対に、ただの夢じゃない」

彼の脳裏に、祖父の節くれだった太い指が蘇る。彫刻刀を巧みに操り、ただの木片に命を吹き込んでいく姿。完成した木馬を渡された時の、胸の高鳴り。その記憶に嘘はないはずだった。それなのに、なぜ世界はそれを否定するのだろう。

悠人が黙り込むと、沙耶はため息をつき、温かいハーブティーを彼の前に置いた。湯気が立ち上り、レモングラスの爽やかな香りが鼻をくすぐる。

「大事なものなら、見つかるといいね」

その優しい言葉が、かえって悠人の孤独を際立たせた。誰もが忘れてしまった世界で、たった一人、存在しないはずのものの手触りを追い求めている。その空虚さが、まるで自分の両手が空っぽであることを突きつけられているようで、彼はそっと拳を握りしめた。

第四章 公園の老人

祖父の面影を求めて、悠人は古びた公園に足を運んだ。錆びたブランコと、塗装の剥げた滑り台。祖父が好きだった藤棚の下のベンチには、一人の老人が座り、黙々と木片を削っていた。

悠人がそばに立つと、老人は顔を上げ、深い皺の刻まれた目元を和ませた。

「何か探し物かね、若いの」

「……ええ、まあ」

悠人は戸惑いながらも、つい木馬の話を口にしていた。誰にも理解されなかった、自分だけの思い出の話を。老人は、時田と名乗った。彼は相槌を打ちながら静かに耳を傾け、やがて彫刻刀の手を止めた。

「ふむ。なくなったものか。それとも、形を変えただけかのう」

その言葉に、悠人は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。

「形を、変えた?」

「うむ。役目を終えたものは、消えてなくなるわけじゃない。ただ、別の役目を見つけて、違う姿になるだけのことじゃ」

時田は、自身の手の中にある彫りかけのフクロウを悠人に見せた。

「この木もな、元は古い橋の欄干じゃった。大勢の人が寄りかかり、街の景色を眺めたもんじゃ。橋が新しくなって役目は終えたが、こうして誰かの心を温める役目が、まだ残っとったんじゃよ」

老人の言葉は、悠人の凝り固まった思考に、小さなひびを入れた。失われたのではない。形を変えただけ。その考えは、今まで一度も思いつかなかった光の筋だった。

第五章 橋の上の旋律

時田の言葉に導かれるように、悠人は街の外れを流れる小さな川に架かる、古い木製の歩道橋に来ていた。祖父と何度も手を繋いで渡った、思い出の場所だ。橋は一部が新しい木材で補修されており、その傍らには交換された古い木材が積み上げられていた。

悠人は何かに引かれるように、その古材の山に近づいた。湿った土と、古い木の匂いが混じり合う。そして、彼は見つけた。橋の強度を保つために打ち込まれていたであろう、見慣れない形の木製の部品。しかし、その木目と色合いには、強烈な既視感を覚えた。

そっとそれに触れる。

指先に、懐かしいざらつきが伝わった。

目を凝らすと、部品の隅に、記憶と寸分違わぬ小さな傷跡があった。片耳の先端にあった、あの傷だ。

全身に鳥肌が立った。木馬は、ここにあったのだ。自分が大人になり、「もう遊ばない」と心の引き出しの奥にしまい込んだ瞬間、それは玩具としての意味を終え、この橋を渡る人々を守るという新しい役目を与えられて、再構築されたのだ。

その時、橋の向こうから、澄んだオルゴールの音色が聞こえてきた。小さな女の子が、大切そうにオルゴールを抱えている。その旋律は、なぜかひどく懐かしく、悠人の記憶の扉を叩いた。

第六章 再構築される世界

あれは、祖父が木馬と一緒に作ってくれたオルゴールと同じ音色だ。悠人は思い出した。木馬の腹部には小さな空洞があり、そこにこのオルゴールが隠されていたのだ。木馬を手放した時、オルゴールの存在も一緒に忘れてしまっていた。

きっと、あのオルゴールの小さな歯車も、どこかで役目を終えた誰かの『忘れ物』だったのだろう。そして今、女の子の手に渡り、新しい音色を奏でている。

悠人は全てを悟った。

自分の能力は、何かを消し去るための呪いなどではなかった。世界から零れ落ちそうになる『意味』を拾い集め、別の形で世界に還すための、世界の均衡を保つためのシステムだったのだ。自分が『認識しない』ことで手放したモノたちは、消滅したのではない。最も必要とされる場所で、最もふさわしい姿に形を変え、この世界の日常を静かに支え続けていたのだ。

街角から消えた煙草屋も、きっとどこかの誰かが「ここに小さな休憩所があったら」と願った場所に、小さなベンチとして生まれ変わっているのかもしれない。アスファルトから消えた雑草は、鳥の巣を作るための一本の藁になっているのかもしれない。

悠人は、積み上げられた古材にそっと手を置いた。それはもう、彼だけの木馬ではなかった。この街の、人々の日常の一部だった。喪失感は消え、代わりに温かい感謝の念が胸に満ちていく。ありがとう。さようなら、僕の木馬。

第七章 見えない手触り

時紡ぎ堂に戻った悠人の表情は、以前とはどこか違っていた。彼を取り巻いていた静かな哀愁の影は薄れ、その目には穏やかな光が宿っていた。

彼は書架の最も薄暗い隅に向かった。そこには、誰からも手に取られることなく、忘れ去られかけていた一冊の古い絵本があった。表紙は色褪せ、角は丸くなっている。悠人はその本をそっと手に取り、埃を優しく指で拭った。

この本も、いつか誰かの心を照らす、新しい物語に生まれ変わるのかもしれない。あるいは、この紙の一枚一枚が、遠い国の子供が空に飛ばす凧になるのかもしれない。世界は失われたもので満ちているのではなく、形を変えながら絶えず生まれ変わり続ける、豊かで美しいタペストリーなのだ。

窓の外では、街が夕暮れの優しい光に包まれていた。車のヘッドライト、家々の窓から漏れる灯り、人々の笑い声。その全てが、無数の『形を変えた思い出』たちの囁きで編まれているように感じられた。悠人はもう、失われたものを探さない。代わりに、これから生まれ変わっていく、世界の見えない手触りを、心で感じていこうと決めた。

彼はそっと目を閉じる。そこにはもう空虚はなく、ただ、世界との温かいつながりだけが、確かに存在していた。

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