残像と砂のクロニクル
1 4577 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:
表示モード:

残像と砂のクロニクル

第一章 揺らぐ石畳

橘楓(たちばな かえで)の世界は、常に揺らいでいた。

父の構える木剣の切っ先が、陽光を弾いてきらめく。その一瞬、楓の眼前に幾筋もの未来が残像となって迸った。右へ踏み込めば、父の胴打ちを喰らい、土埃に塗れる己の姿。左へ捌けば、喉元に切っ先を突きつけられ、冷たい汗が首筋を伝う感覚。そのどちらでもない、一歩退いて機を窺う未来もある。残像はどれも生々しい手触りを伴って、彼の思考をかき乱す。

「迷うな、楓! 剣の道はただ一つぞ!」

父の叱咤が飛ぶ。楓は歯を食いしばり、無数に枝分かれする未来の中から、最も傷の浅い一本を無理矢リ手繰り寄せた。乾いた木と木がぶつかる硬質な音が、道場に響き渡る。結果は、相打ち。父の眉間に深い皺が刻まれたが、最悪の未来は回避できた。これが、楓の日常だった。選択のたびに押し寄せる可能性の奔流は、彼の魂を少しずつ削り取っていく。

稽古を終え、城下へ向かう。肌を撫でる風に、ふと違和感を覚えた。いつも通る大路の石畳。その敷かれ方が、昨日の記憶と微かに異なっている。亀甲模様であったはずが、今は無骨な方形の石が並んでいるだけ。楓は足を止め、周囲を見渡した。商人たちの威勢のいい声、行き交う人々の草履の音、醤油の香ばしい匂い。誰も、何も気づいていない。彼らにとって、この石畳は最初からこの形なのだ。

まただ、と楓は心の中で呟いた。世界が、歴史が、またその貌(かたち)を変えたのだ。この言いようのない孤独感に、彼はとうに慣れていた。

その時、神社の鳥居の陰で、一人の巫女が古文書を片手に眉をひそめているのが見えた。小夜(さよ)だった。彼女は楓に気づくと、困惑したような笑みを浮かべた。

「橘様。また、おかしなことを見つけてしまいました」

彼女が指し示す古文書の一節には、『亀甲の石畳、城下の繁栄を寿ぐ』と記されている。

「けれど、この道の歴史を古老に尋ねても、皆、昔からこの四角い石だったと申します。私の記憶が、おかしいのでしょうか……」

不安げに揺れる彼女の瞳の中に、楓は初めて、自分と同じ孤独の色を見た気がした。

第二章 古の砂時計

小夜が抱える違和感は、一つや二つではなかった。神社の祭事の日付、数代前の藩主の名、些細な言い伝え。その悉くが、彼女が管理する古い記録と、人々の「現在の記憶」との間で齟齬をきたしていた。

「まるで、世界そのものが嘘をついているようです」

彼女のか細い声に、楓は己の秘密を打ち明けるべきか迷った。だが、言葉は喉の奥でつかえ、ただ頷くことしかできない。

二人は、歴史の変質の謎を解く鍵を求め、神社の裏手にある、誰の立ち入りも許されぬ「開かずの蔵」へと足を踏み入れた。黴と古い木の匂いが鼻をつく。月明かりが格子窓から差し込み、埃を被った無数の骨董品をぼんやりと照らし出していた。

その奥に、それは静かに鎮座していた。黒檀の枠に収められた、人の背丈ほどもある巨大な砂時計。中の砂は、星屑のように微かな光を放ちながら、時の流れとは無関係に、一粒、また一粒とゆっくり落ちていた。

『古(いにしえ)の砂時計』。

小夜が古文書で読んだことがある、という。千年の時を刻み、世界の理を司るとされる伝説の品。楓が恐る恐るそのガラスに手を触れた、その瞬間だった。

カラン。

乾いた音を立てて、一粒の砂が落ちた。刹那、楓の脳裏に灼けつくような光景が流れ込む。今とは違う意匠の社殿。見たこともない装束を纏い、神楽を舞う小夜の祖先らしき女性。そして、城下を埋め尽くす、亀甲模様の石畳。それは、改変される前の「真実の歴史」の断片だった。

「うっ……!」

短い眩暈に襲われ、楓は砂時計から手を離した。掌を見ると、先ほど落ちたはずの砂が一粒、そこにあった。だが、それはすぐに淡い光となり、指の間から霧のように消えてしまった。

「今のは……」

「橘様、ご無事ですか?」

小夜の心配そうな声が遠くに聞こえる。楓は、消えゆく光の残滓を見つめながら確信していた。この砂時計こそが、狂った世界の中心にある、と。

第三章 影法師の囁き

砂時計の力を探る日々が始まった。時折こぼれ落ちる砂に触れるたび、楓は失われた過去の断片を垣間見た。それは、彼の能力が示す「未来の可能性」とは似て非なる、確固たる「過去の真実」だった。

ある夜、砂時計の前で瞑想していた楓の背後に、音もなく気配が立った。振り返ると、そこにいたのは、夜の闇そのものを引き延ばしたような、のっぺりとした顔の影法師だった。体温も、匂いも感じられない。ただ、圧倒的な存在感だけが、空間を歪めていた。

「お前が、この時代の『観測者』か」

影法師は、人の声とは思えぬほど平坦な声で言った。

「私は『時の統治者』。この世界を、終わりなき悲劇から救うために、歴史の流れを修正している者だ」

統治者は語った。本来の世界は、度重なる戦乱と飢饉の果てに、緩やかに滅びへと向かう運命にあったのだと。彼は『歴史の綻び』――時の流れに生じた僅かな亀裂――を利用し、この砂時計を使って、より多くの命が救われる平和な現在へと、歴史を少しずつ書き換えてきたのだ、と。

「お前のその眼、未来の分岐を視る力は、我々の偉業を完成させるためにある。私に協力しろ、若き武士よ。共に、数多の犠牲の上に成り立つ『最悪』を避け、『最善』の未来を築くのだ」

影法師の言葉は、悪意のない、純粋な理想論に聞こえた。楓は、己の能力に初めて意味を与えられた気がして、心が揺れた。未来の重圧に苛まれるだけの日々から、解放されるのかもしれない。だが、その「最善」のために、どれだけの「真実」が砂のように消されてきたのだろうか。楓の心に、新たな葛藤の種が蒔かれた。

第四章 分岐する未来

影法師との邂逅から数日後、藩を揺るがす大きな事件が持ち上がった。藩主の後継者争いだ。穏健派と急進派が対立し、城下には不穏な空気が流れ始める。楓の父もまた、藩の指南番として、その渦中へと否応なく巻き込まれていった。

その夜、楓の前に、かつてないほど鮮明で、そして残酷な未来の残像が現れた。

一つは、父が急進派の刺客に暗殺され、血の海に沈む姿。その死をきっかけに藩は内乱状態に陥り、城下は炎に包まれる。多くの民が死に、小夜もまた、燃え盛る神社と運命を共にする。

もう一つは、楓が刺客の襲撃を事前に察知し、父を救う未来。しかし、その結果、矛先を変えた急進派は穏健派の重鎮を血祭りにあげ、その罪を小夜の一族に着せる。彼女は濡れ衣で捕らえられ、楓の手の届かぬ場所で命を落とす。

どちらを選んでも、待っているのは地獄だった。どちらも、影法師が言うところの「小さな犠牲」の上に成り立つ、「より大きな破滅を避けるための選択肢」。

「ふざけるな……!」

楓は道場の床を拳で殴りつけた。掌から血が滲む。影法師の言う「最善」など、所詮は誰かの命を天秤にかける欺瞞に過ぎない。父も、小夜も、失うことなどできはしない。

残像が明滅する。血の匂いと、焼け焦げた木の匂いが鼻をつくようだ。楓は立ち上がった。

どちらも選ばない。誰の犠牲も許さない。

未来の残像でも、書き換えられた過去でもない。俺が選び取るべき「今」を、この手で掴み取る。彼の眼に、迷いはもうなかった。

第五章 綻びの中心で

古の砂時計が、微かな光の道筋を示していた。それは、この世界の物理法則から外れた、時の淀む場所――『歴史の綻び』の源流へと続いていた。楓は、小夜に短い別れを告げ、光の導きに従った。

辿り着いたのは、あらゆる時代の光景が蜃気楼のように揺らめく、奇妙な空間だった。そこには、影法師が静かに待ち受けていた。

「愚かな選択をしたな、観測者よ。お前が選んだのは、全てが破滅する道だ」

「違う。俺は、お前が用意した選択肢を拒絶しただけだ」

剣を交える。影法師の太刀筋は、過去の偉大な剣士たちの動きを完璧に再現し、未来のあらゆる可能性を予測していた。楓は、未来を視る力と、砂時計の砂から得た真実の歴史の剣技を組み合わせ、辛うじてその猛攻を凌ぐ。

激しい打ち合いの中、楓は気づいた。この空間の中心で、巨大な砂時計が虚空に浮かび、静かに砂を落とし続けている。あれこそが綻びの核。あの砂時計を破壊、あるいは封じることさえできれば。

「無駄だ!」影法師が叫ぶ。「それをすれば、全ての修正が無に帰る! 私が救った幾万の命も、お前がこの歴史で築いた絆も、全てが泡沫の夢と消えるぞ!」

その言葉は、楓の胸を抉った。小夜の顔が浮かぶ。彼女と共に過ごした時間、交わした言葉。それら全てが、消え去るというのか。

空間を離れる前、小夜は不安げに言った。

「もし、明日になったら、私があなたのことを忘れてしまっていても……どうか、あなたのことを覚えていてください」

その言葉が、楓の最後の迷いを断ち切った。

「たとえ世界が俺を忘れても」楓は己の持つ小さな砂時計を強く握りしめる。「俺がお前を、お前たちと生きた時間を、決して忘れはしない」

彼は全ての力を込め、時の源流たる巨大な砂時計に向かって、手の中の『古の砂時計』を投げつけた。

第六章 ただ、風の音だけが

世界が、白一色に染まった。

次に楓が意識を取り戻した時、彼は父の道場で木剣を握っていた。激しい稽古の後らしく、汗が顎を伝い、畳に染みを作っている。父が満足げに頷き、彼の肩を叩いた。穏やかな、いつもの昼下がりだった。

ただ一つ、決定的に違うことがあった。彼の眼に、もう未来の残像は映らなかった。目の前にある、揺るぎない一つの現実。それだけが、ただそこにあった。選択の重圧から解放された心は、驚くほどに軽かった。

城下を歩く。石畳は、美しい亀甲模様を描いていた。藩の後継者争いなど起こった気配もなく、人々は穏やかな笑みを浮かべて行き交っている。これが、本来あるべきだった「真の歴史」の姿なのだろう。

神社の前を通りかかった。掃き掃除をしていた巫女が、彼に気づき、静かに会釈をした。その顔は、紛れもなく小夜だった。だが、彼女の瞳に、かつてのような親しみの色はなく、ただ見知らぬ武士に向ける儀礼的な光だけが宿っていた。二人の間にあったはずの、深く、かけがえのない絆は、この安定した歴史の中では、そもそも存在しなかったのだ。

胸の奥が、ぎしりと軋むような痛みに襲われる。失ったものの大きさは、計り知れない。だが、この平和こそが、自分が全てを賭して選んだ未来だった。楓は、空を見上げた。どこまでも青く、澄み渡っている。

時折、ふとした瞬間に、胸の奥底に微かな熱が蘇ることがあった。それは、燃え盛る城下町の残像であったり、誰かと笑い合った記憶の断片であったりした。それが、彼だけが知る、壮大な物語の痕跡。失われた可能性と、失われた絆の、消えない残響。

楓は、その誰にも語れぬ痛みを抱きしめ、ただ、前を向いて歩き出す。耳を澄ませば、穏やかな風の音だけが、彼の周りを通り過ぎていった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る