時繪師(ときえし)

時繪師(ときえし)

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第一章 枯れ桜と墨の香り

玄斎(げんさい)は、墨の匂いの中で生きていた。彼の小さな庵は、江戸の喧騒から切り離されたように静かで、そこには古びた硯と使い込まれた筆、そして積み上げられた和紙の山だけがあった。彼は絵師だったが、その絵を求める者はほとんどいない。描くのは、名もなき川の流れ、風にそよぐ雑草、雨に濡れる石ころ。命の煌めきから目を背けるように、ただ静かで、時の止まったようなものばかりを描いていた。

その日、庵の障子を叩く音は、ひどく場違いに響いた。玄斎が戸を開けると、そこに立っていたのは、上質な絹の羽織をまとった武士だった。歳は五十がらみ、日に焼けてはいるが、その目つきは剃刀のように鋭い。

「あなたが、玄斎殿か」

男は名乗った。城下の家老、倉田宗衛門(くらたそうえもん)と。場末の絵師の庵に、藩の重臣が何の用か。玄斎は訝しみながらも、男を中に招き入れた。

倉田は部屋の隅に積まれた絵を一瞥し、ふっと鼻を鳴らした。嘲りとも感心ともつかない、奇妙な響きだった。

「噂に違わぬ。あなたの絵には……時が視える」

その言葉に、玄斎の心臓が冷たい手で掴まれたように跳ねた。彼の最大の秘密。誰にも明かしたことのない、呪いにも似た力。

玄斎の筆は、ただ形を写すだけのものではなかった。彼が墨に込めるのは、色や光ではない。「時」そのものだった。研ぎ澄まされた精神で対象と向き合うとき、彼はそのものが経てきた時間の流れを、揺らめく陽炎のように視ることができた。そして、その一瞬を切り取り、和紙の上に定着させることができるのだ。それは、過去の姿を寸分違わず再現する、神をも畏れぬ所業だった。

「ご冗談を。拙者はただの絵師でござる」

玄斎は努めて平静を装った。この力を知られてはならない。かつて、病に伏せる母を救いたい一心で、若く健康だった頃の母の姿を描いたことがあった。絵は神がかり的な出来栄えだった。しかし、その翌朝、母は床から起き上がったものの、玄斎が誰であるかすら忘れてしまっていた。過去の姿を呼び戻す代償に、母は現在までの記憶という「時」を失ったのだ。以来、玄斎は生命の躍動するものを描くことを己に禁じ、力を封印してきた。

だが、倉田は動じなかった。彼は懐から小さな袋を取り出し、畳の上に置いた。ずしり、と重い音が響く。

「城の奥庭にある桜の木をご存知かな」

「……枯れて久しい、あの木でございますか」

「うむ。あの桜を、描いていただきたい。かつて、最も見事に咲き誇っていた、満開の姿で」

依頼は奇妙を通り越して、不気味ですらあった。なぜ、枯れ木を。なぜ、満開の姿で。まるで、玄斎の力を試すかのように。

「お断り申す。拙者には、そのような絵は描けませぬ」

「いいや、あなたなら描ける」

倉田の目が、暗い炎を宿して玄斎を射抜いた。「藩主様が、いたくお望みなのだ。亡き姫君がこよなく愛した桜。その思い出の姿を、今一度、と」

断れば、この男は力ずくで秘密を暴きかねない。その威圧感が、肌を粟立たせた。そして何より、玄斎の心の奥底で、忘れかけていた絵師としての業が、疼き始めていた。枯れ果てた木に、満開の花を咲かせる。それは、破滅を招く禁忌の力であると同時に、抗いがたい創造の誘惑でもあった。墨の香りが、ひときわ濃く、庵に満ちた。

第二章 筆先に宿る時

城の奥庭は、訪れる者もなく静まり返っていた。その中央に、問題の桜の木はあった。天を突くように伸びた幹は黒くひび割れ、枝は枯れ枝となり、まるで骸(むくろ)のように寒空を掻いていた。生命の気配は、どこにもない。

玄斎はその前に座し、画材を広げた。傍らには、倉田が用意させた上質な松煙墨と、端渓(たんけい)の硯。冷たい水で墨をすると、凛とした香りが立ち上り、玄斎の精神を研ぎ澄ませていく。

目を閉じ、意識を集中させる。雑念を払い、己の存在を消し、ただ、目の前の枯れ木と一体になる。すると、ゆっくりと世界が歪み始めた。風の音が変わり、光の色が褪せていく。玄斎の目にだけ視える、時の陽炎が立ち上り始める。

それは、無数の記憶の奔流だった。春の柔らかな日差しを浴びて芽吹く姿。夏の嵐に耐え、枝を揺らす姿。秋には葉を落とし、冬には雪を冠る姿。何十年、何百年という時間が、一瞬の幻となって玄斎の脳裏を駆け巡る。そして――視えた。

それは、十数年前の、ある春の夜。月光に照らされ、薄紅色の花弁がこぼれるように咲き乱れている。枝という枝が、生命の喜びに満ち溢れ、甘い香りが夜気となって庭を満たしている。一本の木が持つ、生涯で最も輝かしい瞬間。その美しさは、玄斎の心を震わせた。同時に、あの日の母の、虚ろな目が脳裏をよぎり、筆を持つ手が微かに震える。

(これは、呪いか、それとも天啓か)

迷いを振り払うように、彼は筆を取った。墨をたっぷりと含ませ、息を止める。そして、一気に筆を走らせた。

和紙の上に、まず、力強い幹が生まれる。時の流れに耐えた、荒々しい樹皮の質感を、かすれた墨線で描き出す。次に、天に向かって伸びる枝々を。濃淡を巧みに操り、遠近と立体感を生み出していく。

彼の周囲で、奇妙な現象が起きていた。描くほどに、枯れ木の周りに、桜の甘い香りが幻のように漂い始める。耳の奥で、風に花びらが舞う、さらさらという音が聞こえる気がした。和紙の上の桜は、もはやただの絵ではなかった。それは、失われた「時」そのものを宿し始めていた。

玄斎は、描くことに没頭した。恐怖も、後悔も、今はなかった。ただ、絵師としての純粋な歓喜が、彼を突き動かしていた。失われた美を、己の手で現世に呼び戻す。これほどの悦びがあろうか。花びら一枚一枚に、命を吹き込むように、繊細な筆致で点を打っていく。

三日三晩、彼はほとんど休むことなく筆を動かし続けた。そして、最後の花びらを描き込もうとした、その時だった。

背後に、人の気配がした。振り返るまでもない。倉田宗衛門だった。

「……見事なものだ、玄斎殿」

倉田の声は、以前とは違う、乾いた響きを帯びていた。

「これで、準備は整った」

その言葉の意味を玄斎が測りかねていると、倉田はゆっくりと懐に手を入れた。引き抜かれたのは、筆ではない。鞘から放たれた、鈍い光を放つ短刀だった。

第三章 満開の夜の真実

切っ先が、玄斎の喉元に突きつけられた。ひやりとした鋼の感触が、彼の没頭していた熱い意識を、一瞬で氷点下まで引きずり下ろした。

「倉田殿……これは、一体……」

「動くな、絵師よ」倉田の声は、憎悪と悲しみが混じり合った、聞いたこともないような色をしていた。「お主には、最後まで仕上げてもらう」

倉田の目が、狂気ともいえる光を宿して、完成間近の絵を見つめていた。その視線は、もはや芸術を愛でるものではない。ある目的のための、道具を見る目だった。

「藩主様が、お望みだと……」

「藩主だと?」倉田は唾を吐き捨てるように言った。「あの男は、ただ己の感傷に浸りたいだけだ。姫君を失った悲劇の父を気取り、慰められることしか考えておらん」

彼の言葉は、堰を切ったように溢れ出した。

「我が息子は、あの桜のせいで死んだのだ」

倉田の息子は、藩主の娘である姫の遊び相手だった。ある冬の日、病で床に伏していた姫が「桜が見たい」とわがままを言った。息子は姫を喜ばせようと、雪の積もる桜の木に登り、無理やり枝を揺らして雪を花びらのように降らせて見せた。しかし、足を滑らせて枝から落ち、頭を強く打って、二度と目を覚ますことはなかった。

「藩主は、その死を『不慮の事故』として隠蔽した。病の姫君の心を乱さぬため、とな。息子の存在そのものが、初めからなかったことにされたのだ。……そして今、あの男は、息子の命を奪った桜を見て、亡き娘を偲んでいる。許せるものか」

玄斎は、全身の血が凍るのを感じた。では、この絵の真の目的は。

「あなたも薄々気づいていよう。お主の絵は、ただの絵ではない。描かれた『時』を、この現し世に、束の間だけ『再現』する力を持つ」

倉田は、玄斎の力を正確に見抜いていた。

「今宵、藩主は月見の宴と称して、この庭にやってくる。この絵を完成させ、満開の桜の幻を咲かせるのだ。亡き姫の思い出に心を奪われ、無防備になった瞬間……私が、息子の無念を晴らす」

玄斎は愕然とした。自分の力が、ただの復讐の道具として使われようとしている。美しい過去を描き出す力が、新たな血を呼ぶための舞台装置にされようとしている。母の記憶を奪ったあの日と同じ、いや、それ以上の過ちを犯そうとしているのだ。力への恐怖が、再び巨大な闇となって彼を飲み込もうとした。

「さあ、描け。最後のひと筆を入れろ」

短刀が、皮膚に食い込む。生と死の選択が、彼の震える手に委ねられた。筆を止めれば、ここで殺される。筆を動かせば、藩主が殺され、倉田もまた殺人者となる。どちらに転んでも、待っているのは悲劇だけだった。

絶望の淵で、玄斎は和紙の上に広がる、満開の桜を見つめた。美しく、そして残酷な、時の残像を。その時、彼の脳裏に、時の陽炎の中で見た、もう一つの光景が閃いた。

第四章 描かれなかった未来

玄斎は、覚悟を決めた。彼はゆっくりと頷き、震える手で再び筆を取った。倉田は満足げに頷き、短刀を喉元に添えたまま、その動きを監視している。

玄斎は硯の海に筆先を浸した。しかし、彼が見つめていたのは、描きかけの花びらではなかった。絵の中央、満開の桜の根元にある、空白の空間だった。

彼は息を吸い込み、筆を走らせた。それは、倉田の予想を完全に裏切る一筆だった。

桜の幹に寄り添うように、小さな人影が描き加えられていく。無邪気な笑顔で空を見上げる、幼い童(わらべ)。その隣には、少しはにかみながら、同じように桜を見上げる少女の姿。それは、倉田の息子と、幼き日の姫君の姿だった。時の陽炎の中で垣間見た、二人がまだ何の悲劇も知らず、ただ共にいることを喜んでいた、温かな一瞬。

「なっ……貴様、何を描いている!」

倉田が怒声を発したのと、玄斎が最後の点を打ち終えたのは、ほぼ同時だった。

その瞬間、世界が変わった。

和紙から淡い光が溢れ出し、庵全体が月光に照らされた春の夜のような空気に包まれた。黒い骸のようだった枯れ木が、目の前でみるみるうちに薄紅色の花をまとい始める。幻の花びらが、辺り一面に舞い散り、甘い香りが現実となって鼻腔をくすぐった。倉田が望んだ通り、満開の桜の「時」が、現世に再現されたのだ。

しかし、そこに現れたのは、藩主を討つための復讐の舞台ではなかった。

桜の木の下に、ふわりと二つの人影が浮かび上がった。絵に描かれたそのままの、幼い少年と少女の幻影。二人は楽しそうに笑い合い、舞い散る花びらを手で追いかけている。

「わあ、きれい……」

「もっと降らせてやろう!」

屈託のない声が、幻となって響き渡る。

倉田は、その光景に言葉を失った。目の前にいるのは、彼が愛し、そして失った息子の、最も幸せだった頃の姿。憎しみと復讐心で凝り固まっていた彼の心が、息子の無邪気な笑顔によって、音を立てて砕けていく。彼は、自分が何をしようとしていたのかを、ようやく思い出した。息子のための復讐が、いつしか息子が愛したはずの姫君への憎しみにすり替わり、ただの破壊を望んでいたことを。

「あ……あぁ……」

倉田の手から、短刀が滑り落ちた。彼はその場に崩れ落ち、子供のように声を上げて泣き始めた。桜の幻は、彼の涙を隠すように、静かに舞い続けていた。

「私が描くのは、ただの時の姿」

玄斎は、静かに言った。

「憎しみに染まった時もあれば、このような温かな時もある。どちらを心に残し、未来へ繋ぐか。それは、残された者の心次第でござる」

やがて、幻は光の粒子となって消え、庭は元の静寂を取り戻した。残されたのは、泣き崩れる倉田と、一枚の絵、そして、自分の力の本当の意味を知った玄斎だった。

事件の後、玄斎は庵を引き払い、筆を置いた。しかし、それは絶望からではなかった。彼は、自分の力が時を操る傲慢なものではなく、忘れられた温かい記憶を呼び覚まし、人の心を救うためのものだと知ったのだ。

彼は再び旅に出た。名もなき人々の、失われた、あるいは忘れ去られた「温かな時」を探して。それを一枚の絵として描き残し、そっと手渡すために。彼が背負う画箱は、かつて感じていた呪いのような重さはなく、ささやかな希望の分だけ、少しだけ軽く感じられた。

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