言ノ葉の市場(いちば)

言ノ葉の市場(いちば)

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第一章 零点の言ノ葉

アスファルトから立ち上る陽炎が、灰色の高層ビル群をぐにゃりと歪ませる。俺、水無月響(みなづきひびき)は、空調の効きすぎた「中央言価(げんか)観測局」の自席で、目の前のモニターに映し出される無数の光の波形を眺めていた。かつて詩人を目指していた指は、今やマウスを無感情にクリックするだけだ。

この世界では、言葉に値段がつく。「愛」「感謝」「希望」。そういった社会貢献度の高いポジティブな単語を発すれば、『言価ポイント』が加算される。ポイントは電子マネーのように使え、税金や公共サービスの割引にもなる。逆に「憎悪」「絶望」「不公平」といったネガティブな言葉はマイナス査定。ポイントが枯渇すれば、住む場所も、食べるものも制限される。人々は皆、口角を上げて、心にもない美辞麗句を並べ立てることで、日々の糧を得ていた。なんとも空虚で、よくできた社会システムだ。

俺の仕事は、この言価の変動を監視し、システムのバグや異常値を報告すること。大抵は、地方の祭りで「祝福」の言価が一時的に高騰したとか、そんな退屈な報告書を上げるだけの一日だ。

だが、その日は違った。

広域マップの一点、都市の第十三廃棄区画――通称「沈黙区」と呼ばれるスラム街で、奇妙な信号が点滅していたのだ。ノイズのように微弱だが、確かな存在感を放っている。俺はデータを拡大し、その発信源から記録された言ノ葉を解析した。

『悲しい』

マイナス50ポイント。社会不安を助長する、忌むべき言葉。本来なら、発信者のIDは即座に特定され、警告とペナルティが課されるはずだ。しかし、この信号にはマイナスポイントが付与されていない。それどころか、奇妙なことに、プラス0.001ポイントという、あり得ないほどの微細な価値が、まるで陽炎のように揺らめきながら計測されていた。

システムのバグか? あるいは、未知の現象か?

報告すれば、すぐに専門チームが調査して、この「異常」は修正されるだろう。それが正しい。それが、俺の仕事だ。

しかし、俺の指は報告ボタンを押さなかった。心の奥底で、とうの昔に死んだはずの詩人の魂が、囁きかけるのを感じた。

零点に限りなく近い、プラスの価値を持つ『悲しい』という言葉。

それは、この完璧に管理された偽善の世界で、たった一つだけ本物の輝きを放っているように見えた。俺は無意識に、非番の日のスケジュールを確認していた。あの沈黙区へ、自分の足で向かうために。

第二章 沈黙の街の画家

沈黙区は、その名の通り、音がなかった。ポイントを失い、高価な言葉を発することを諦めた「無言者(むごんしゃ)」たちが、亡霊のように彷徨う街。聞こえるのは、風が埃を巻き上げる音と、遠くで響く中央区の喧騒だけだ。ポジティブな言葉で満たされた世界の、巨大なゴミ捨て場。それがこの街の正体だった。

俺はスマートフォンのマップを頼りに、信号の発信源へと向かった。錆びついた鉄の階段、落書きだらけのコンクリート壁。やがて、目的地の古いアトリエに辿り着く。ドアは半開きになっていて、隙間から甘く懐かしい、絵の具の匂いが漏れ出ていた。

「……ごめんください」

声をかけると、奥から一人の若い女性が顔を覗かせた。使い古した作業着に、絵の具の染みが点々と付いている。歳は俺と同じくらいだろうか。警戒心と好奇心が入り混じった、黒曜石のような瞳が俺を射抜いた。

「観測局の人?」

「いや……ただの、通りすがりだ」

咄嗟に嘘をついた。彼女はしばらく俺を値踏みするように見ていたが、やがて諦めたようにドアを大きく開けた。

「見るだけなら、どうぞ」

アトリエの中は、言葉を失うほどの光景だった。壁一面に、大小様々なキャンバスが掛けられている。しかし、そこに描かれているのは美しい風景でも、微笑む人物でもなかった。

黒く、濁った、底なしの沼のような『絶望』。

赤く、焼け付くように痛々しい『怒り』。

青く、凍てつくように冷たい『孤独』。

全てが、この社会で禁じられたネガティブな感情そのものだった。だが、不思議なことに、それらの絵から感じるのは不快感ではなかった。むしろ、その圧倒的な「真実」の前に、心が安らぐような感覚さえあった。

「どうして、こんな絵を……」

俺の問いに、リアと名乗る彼女は、パレットナイフでキャンバスの絵の具を削りながら、静かに答えた。

「この街の人たちは、言葉を捨てたじゃない。感情を捨てるしかなかったの。でも、捨てられた感情は、どこにも行けないで彷徨っている。私はそれを拾って、ここに描いているだけ」

彼女は、壁に掛けられた一枚の絵を指差した。それは、ただひたすらに深い、深い藍色で塗りつぶされたキャンバスだった。

「あれが、あなたの言っていた『悲しい』よ」

その絵の前に立つと、胸の奥が締め付けられた。涙が出そうになるのを、必死で堪える。それは、俺自身がずっと心の奥底に押し込めてきた感情の色だった。詩人になる夢を諦めた日、父の葬式で泣けなかった日、愛した人に別れを告げられた日。全ての悲しみが、その藍色の中に溶け込んでいるようだった。

「本当の感情を押し殺す社会は、偽物よ」

リアの声が、聖堂に響く祈りのように聞こえた。

「悲しみも、苦しみも、ちゃんと見つめて、感じてあげないと。そうしないと、その先にある本当の光なんて、見つけられない」

俺は、彼女の言葉に、彼女の絵に、完全に心を奪われていた。この偽善に満ちた世界で、たった一人、真実と向き合おうとしている彼女の存在そのものが、俺にとっての希望に思えた。その日から、俺は足繁く彼女のアトリエに通い、密かに彼女の活動を手伝うようになった。観測局のデータを少しだけ改竄し、彼女の存在がシステムに検知されないようにしながら。

第三章 管理された反逆

リアとの日々は、俺の灰色の世界に色彩を取り戻してくれた。彼女が描くネガティブな感情の絵は、不思議と沈黙区の人々の心を癒し、少しずつだが、街には生気が戻り始めていた。人々は絵の前で静かに涙を流し、言葉にならない言葉を交わし始めた。俺は、自分たちが世界を変える、ささやかな革命の同志なのだと信じていた。

その幻想が、木っ端微塵に砕け散ったのは、ある雨の日のことだった。

観測局に出勤すると、俺のデスクは見知らぬ男たちに囲まれていた。屈強な体つき、感情の読めない瞳。中央保安局の人間だ。そして、その中心には、苦虫を噛み潰したような顔をした俺の上司が立っていた。

「水無月響。君を、国家システムに対する重大な背任行為の容疑で拘束する」

抵抗する間もなく、俺は別室に連行された。冷たい金属の机を挟んで、上司が重い口を開いた。

「全て、お見通しだよ。第十三区の画家、リア……だったかな。彼女との共謀も、データの改竄も」

「……」

「君は、自分が何か大きなことを成し遂げているとでも思ったかね? 革命家気取りか?」

上司は嘲るように笑い、そして、信じがたい事実を告げた。

「あの画家は、我々が用意した『安全弁』だ」

頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。理解が追いつかない。

「……何、を……?」

「考えてもみろ。不満を無理やり押さえつければ、いつか必ず大爆発を起こす。だから、ガス抜きの穴が必要なのだよ。社会からこぼれ落ちた連中の不満や悲しみを、あの女に『アート』という無害な形に変換させ、消費させる。そうすることで、体制に対する本当の反逆を防ぐ。彼女の活動は、この社会を維持するための、極めて高度な統治システムの一部なのだ」

リアが発していた『悲しい』という言葉の、あの微弱なプラス価値。それは、システムエラーなどではなかった。彼女が「安全弁」としての役割を果たしていることに対して、システムが支払っていた「報酬」だったのだ。

「彼女自身も、全て知っている。自分が『管理された反逆者』であることを理解した上で、我々に協力している。君が信じた純粋な抵抗など、最初から存在しない。君はただ、巨大なシステムの掌の上で、滑稽に踊らされていただけだ」

世界が、音を立てて崩れていく。

リアの顔が浮かんだ。彼女の黒曜石のような瞳。俺に向けられた、あの静かな微笑み。全てが嘘だったというのか。俺が感じた感動も、取り戻しかけた希望も、全ては巧妙に仕組まれた、壮大な欺瞞だったというのか。

絶望が、黒く濁った絵の具のように、俺の心を塗りつ潰していった。

第四章 自由の価格

独房の冷たい壁に背を預けながら、俺は何度もリアの言葉を反芻していた。

『本当の感情を押し殺す社会は、偽物よ』

その言葉さえも、システムにプログラムされた台詞だったのだろうか。

数日が過ぎ、俺は処分を待つ身だった。だが、不思議と恐怖はなかった。ただ、深い虚無感が全身を支配していた。

そんな時、ふと、リアが言った別の言葉が蘇った。あれは、彼女のアトリエで、ある男が彼女の絵を見て泣き崩れた後のことだ。俺が「君はすごいな」と言うと、彼女は少し寂しそうに笑って、こう言ったのだ。

『私がすごくなんかない。……たとえこの活動が、誰かに管理された偽物だったとしても、あの人の涙が、あの人の心が、偽物だなんて、誰にも言わせない』

そうだ。

システムの意図がどうであれ。リアの行動が欺瞞だったとしても。

彼女の絵を見て、俺の心が震えたのは事実だ。凍てついていた感情が溶け出したのも、真実だ。沈黙区の人々が、失ったはずの心を取り戻しかけたのも、紛れもない現実だ。

受け取る側の心が本物なら、それはもう、偽物なんかじゃない。

俺の中で、何かが決壊した。それは怒りでも悲しみでもない。もっと静かで、もっと純粋な、一つの意志だった。

処分が下される前夜、俺は監視の隙をついて、観測局の中央サーバー室に侵入した。幸い、俺はシステムの構造を熟知している。追っ手が来るまでの時間は、わずかしかない。

俺はキーボードを叩き、言価変換システムの根幹にアクセスした。そして、たった一つの言葉の価値定義を書き換える。あらゆるポジティブな言葉を上回り、測定不能なほどの価値を持つように。

その言葉は、『自由』。

エンターキーを押した瞬間、観測局の全てのモニターが真っ赤なエラー表示で埋め尽くされた。建物の外から、地鳴りのような喧騒が聞こえ始める。

街中の言価スピーカーが、壊れたように叫んでいた。

『緊急警報! 言価システムに致命的エラー発生!』

『言ノ葉「自由」に、無限の価値が付与されました!』

人々は、何が起きたか分からぬまま、恐る恐る、あるいは歓喜と共に、その言葉を口にし始めた。

「……自由?」

その瞬間、彼らのポイントメーターは振り切れ、見たこともない数値が加算されていく。

もう、誰もポイントを気にする必要はなくなった。人々は堰を切ったように、心の奥に溜め込んでいた本当の言葉を叫び始めた。

「こんな社会はクソだ!」

「ずっと、会いたかった!」

「悲しい! 苦しい! でも、愛してる!」

怒号、泣き声、笑い声。ポジティブもネガティブも関係なく、あらゆる感情が剥き出しの言葉となって、街中に溢れかえる。それは混沌であり、破壊だった。だが、俺の耳には、世界で最も美しい交響曲のように響いていた。

俺は追われる身となった。もう二度と、日の当たる場所は歩けないだろう。

だが、雑踏に紛れ、ビルの屋上から生まれ変わった街を見下ろした時、俺の心は不思議なほど晴れやかだった。

冷笑家でもなく、観測者でもなく、管理された反逆者でもない。

俺は、たった一つの言葉を世界に放った。

それだけで、十分だった。

空には、様々な色の言ノ葉が、オーロラのように舞っている。その光景を静かに見つめながら、俺は誰にも聞こえない声で、自分のための詩を、初めて紡いだ。

偽りの楽園は終わり、真実の荒野が始まる。

その始まりに、俺は確かに立ち会ったのだ。

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