言の葉の質量

言の葉の質量

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***第一章 鉛の謝罪***

液晶画面の向こう側で、男が深々と頭を下げた。フラッシュの白い閃光が、彼の整えられた黒髪を無慈悲に照らし出す。世間を騒がせた食品偽装問題。その企業のCEOである男の口から、澱んだ謝罪の言葉が紡がれる。
「この度は、弊社の不行き届きにより、多大なるご迷惑とご心配をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます」
その瞬間、水野響(みずの ひびき)はソファの上で身を固くした。見えないはずの圧力が、彼の肩に、胸に、ずしりとのしかかる。まるで鉛の板を幾重にも重ねられたかのような、息の詰まる重圧。男が言葉を続けるたびに、部屋の空気が密度を増し、響の肺を締め付けた。
「……再発防止に、全社を挙げて取り組む所存でございます」
その一言は、とりわけ重かった。コンクリートブロックが、響の鳩尾に直接叩きつけられたような衝撃。彼は思わず「うっ」と呻き、リモコンを掴んでテレビの電源を消した。途端に圧迫感は霧散し、彼は荒い息を繰り返しながら額の汗を拭う。

これが、水野響の持つ呪いであり、そして武器だった。彼は「言葉の重さ」を物理的に感じ取ることができる。
嘘、欺瞞、悪意に満ちた言葉は、その深刻さに比例して、鉛や鉄のように重く彼にのしかかる。逆に、誠実で、真心のこもった言葉は、鳥の羽根のように軽く、時には温もりさえ感じさせた。
幼い頃、この能力は彼を苦しめた。友達の些細な嘘に傷つき、大人の建前に吐き気を催した。人々が軽々しく口にする言葉の裏にある、どす黒い質量に耐えられず、彼は次第に寡黙な青年へと成長した。
だが、フリーライターとなった今、彼はこの能力を社会の不正を暴くための羅針盤としていた。彼の告発記事は、他の誰にも書けない異様な説得力を持っていた。なぜなら、彼は憶測で書いているのではなかったからだ。政治家の空虚な公約、企業の隠蔽工作。彼はその言葉が孕む「嘘の質量」を、その身で受け止め、告発していた。

ソファから立ち上がった響は、ノートパソコンを開く。指先が少し震えていた。先ほどのCEOの言葉の重みが、まだ身体の芯に残っている。あれは単なる謝罪ではない。組織的な隠蔽と、反省のかけらもない欺瞞の塊だ。
『鉛の謝罪、その重さに民衆は気づいているか』
彼はタイトルを打ち込み、キーボードを叩き始めた。彼の言葉は、彼自身が感じた重圧を、読者の胸に突き刺すような鋭さで綴られていく。世界に満ちる嘘の重さを、少しでも軽くするために。それが自分の使命なのだと、響は固く信じていた。彼の部屋の窓から見える都会の夜景は、無数の嘘が放つ重力で、歪んでいるように見えた。

***第二章 羽根の正義***

響の記事は、ネット上で瞬く間に拡散された。「言葉の重さで真実を測るライター」。そんなキャッチーな評判が立ち、彼のブログは熱狂的な支持者で溢れかえった。彼の元には、企業の内部告発や、社会の不正に関する情報が次々と舞い込むようになる。
彼は、自分に寄せられる賞賛の言葉が、綿毛のように軽く、心地よいことに気づいていた。人々からの期待、感謝。それらは響の心を満たし、彼の正義感をさらに燃え上がらせた。彼は自分の能力が、この淀んだ社会を浄化するための天啓であるとさえ思うようになっていた。
そんな中、彼はある小さなNPO法人の存在を知る。代表を務めるのは、五十嵐千佳(いがらし ちか)という初老の女性。社会からこぼれ落ちた若者たちに、食事と居場所を提供する活動を、長年続けているという。響は興味を惹かれ、取材を申し込んだ。
古びた木造家屋を改装したその施設は、温かいシチューの匂いと、穏やかな光に満ちていた。千佳は、皺の刻まれた顔をほころばせ、響を迎え入れた。
「ようこそ。こんな何もないところですけれど、ゆっくりしていってくださいな」
千佳の言葉は、響がこれまで感じたことがないほど、軽やかで、清らかだった。まるで春のそよ風が頬を撫でるような、温かい浮遊感。彼女が語る活動への想い、若者たちへの眼差し。その一つ一つの言葉に、一点の曇りも、偽りも感じられない。ここには本物の「善意」があると、響は確信した。
彼は千佳の活動を支援する記事を書いた。彼の筆致は、千佳の言葉が持つ「羽根のような軽さ」を、読者の心に届けることに全力を注いだ。記事は大きな反響を呼び、NPOには多くの寄付が寄せられた。
響はすっかりその施設に入り浸るようになった。嘘の重さに疲弊した彼の心は、千佳の紡ぐ言葉と、施設の温かい空気によって癒されていった。彼は自分の能力を使って、正しい人間を見つけ出し、その善行を世に広めることができたことに、深い満足感を覚えていた。
彼は、自分が世界の善と悪を正確に仕分けることのできる、選ばれた存在なのだと信じ始めていた。重い言葉を発する者どもを断罪し、軽い言葉を話す善人を称揚する。なんと明快で、正しい世界だろうか。彼の正義は、羽根のように軽く、どこまでも飛んでいけるように思えた。

***第三章 沈黙する石***

季節が巡り、施設の庭に植えられた金木犀が甘い香りを放つようになった頃、響は一人の少女と親しくなった。名前はユキ。親からのネグレクトで心に深い傷を負い、ほとんど言葉を発しない少女だった。
千佳は、そんなユキに根気強く寄り添っていた。ある日の午後、響がリビングで本を読んでいると、千佳がユキの隣に座り、優しく語りかける声が聞こえてきた。
「ユキちゃん、大丈夫よ。あなたは一人じゃない。私たちは、いつだってあなたの味方だからね」
いつものように、千佳の言葉は羽根のように軽かった。純粋な善意と愛情に満ちている。響は微笑ましくその光景を眺めていた。だが、その言葉を受け取ったユキの表情が、微かにこわばったのを、彼は見逃さなかった。少女は何も答えず、ただ膝の上で固く握りしめた拳を、さらに強く握りしめただけだった。
その数日後、響は夕食の時間になっても部屋から出てこないユキを心配して、彼女の部屋のドアをノックした。返事はない。そっとドアを開けると、ユキはベッドの隅で膝を抱え、小さな肩を震わせて泣いていた。
「どうしたんだ、ユキちゃん。何かあったのか?」
響が声をかけると、ユキは嗚咽を漏らしながら、か細い声で言った。
「……五十嵐さんの言葉が、重いの」
「え?」
響は耳を疑った。何を言っているんだ? 千佳さんの言葉は、誰よりも軽くて、誠実なはずだ。この僕の能力が、それを証明している。
「だって…」ユキは顔を上げ、涙に濡れた瞳で響を見つめた。「『味方だよ』って言われるたびに、期待に応えなきゃって思う。『愛してる』って言われるたびに、いい子でいなきゃって、苦しくなる。…優しさが、石みたいに、私の上にどんどん積もっていくの。重くて、息ができない…」
その言葉は、雷となって響の頭上を撃ち抜いた。
世界が、音を立てて反転する。
彼は悟ってしまった。言葉の重さは、発する側の意図だけで決まるものではないのだ、と。受け取る側の心の状態、その人が背負ってきた人生、その文脈によって、同じ言葉が、羽根にもなれば、石にもなる。
千佳の善意は本物だ。だが、その純粋すぎる善意が、愛されることに慣れていないユキにとっては、とてつもない重圧となっていたのだ。
全身から血の気が引いていく。ならば、自分はどうだ?
自分が「正義」の名の下に、ネットで糾弾してきた人々。彼らにとって、自分の「真実の言葉」は、どれほど重い石だったのだろう。自分が叩きのめしたCEOにも、守るべき社員や家族がいたのかもしれない。自分が「軽い」と信じて放った言葉が、誰かの人生を押し潰すほどの重りになっていたとしたら?
彼の信じてきた正義が、ガラガラと崩れ落ちていく。善と悪を仕分ける絶対的な物差しだと思っていた能力は、あまりにも一方的で、傲慢な独り善がりに過ぎなかった。彼はただ、自分にとって心地よい「軽い」言葉を集め、耳障りな「重い」言葉を排除していただけなのだ。
部屋の隅で泣きじゃくる少女の背中が、彼がこれまで見ようとしてこなかった、言葉のもう一つの真実を突きつけていた。彼は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

***第四章 淡雪の温度***

あの日を境に、水野響は筆を折った。
社会の欺瞞を暴く記事を書くことも、誰かの善意を称揚することも、一切やめてしまった。自分の能力が、世界の複雑さの前ではいかに無力で、危険なものであるかを骨身に染みて理解したからだ。彼はもう、言葉の重さを測ることで、何かを断罪したり、判断したりすることはできなかった。
彼はNPOを去ることも考えた。しかし、ユキのあの涙が、彼の足を引き留めた。逃げることはできない。彼はライターとしてではなく、ただの一人の人間として、施設に残り、ボランティアを続けることにした。
彼の役割は変わった。彼は極力、言葉を発しないようになった。ただ、そこにいること。草むしりをし、壊れた椅子を直し、誰かが話したがっていれば、黙って耳を傾ける。言葉の送り手ではなく、受け手に徹することにしたのだ。
最初は、施設の誰もが戸惑っていた。以前の饒舌で自信に満ちた響を知っているからだ。だが、彼の静かな存在感は、次第に施設の風景に溶け込んでいった。彼は、言葉を発しない代わりに、人々の発する言葉の「本当の重み」を、ただ静かに受け止めるようになった。それは、発信者の意図だけでなく、受信者の心の揺らぎまで含んだ、複雑で、計り知れない質量だった。
ある冬の日の夕暮れ。響が施設の縁側で、冷たくなった指に息を吹きかけていると、ユキが隣にやってきて、ちょこんと座った。二人の間に、長い沈黙が流れる。雪が降り始めたのか、白いものがちらちらと舞っていた。
やがて、ユキが小さな声で、ぽつりと言った。
「……ありがとう」
響は驚いて彼女を見た。ユキは、彼が修理した古い木の人形を、大切そうに抱きしめていた。
その「ありがとう」という一言は、響の心の中に、すっと染み込んできた。それは、物理的な質量をほとんど持たなかった。まるで、手のひらに舞い降りて、すぐに溶けてしまう淡雪のように。
だが、その一瞬の接触には、確かな温もりがあった。
それは、彼がかつて追い求めた羽根のような軽さとも、恐れた鉛の重さとも違う、まったく新しい感触だった。期待も、要求も、義務も含まない、ただ純粋な感謝の気持ちだけが込められた、儚く、そして何よりも尊い「重み」。
響の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼はもう、世界を善と悪で切り分けることはないだろう。言葉の質量を測り、誰かを断罪することもない。ただ、こうして人の傍にいて、時折交わされる、淡雪のような言葉の温もりを、大切に受け止めて生きていく。
ペンを置いたことで、彼は初めて、本当の意味で人と人との間に紡がれる「物語」を理解し始めたのかもしれない。雪が静かに降り積もる庭を眺めながら、響は、この複雑で、ままならなくて、そしてどうしようもなく愛おしい世界の、ほんの小さな一片になったような気がしていた。

この物語の「別の結末」を、あなたの手で生み出してみませんか?

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