残椿抄(ざんちんしょう)

残椿抄(ざんちんしょう)

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***第一章 灰色の世界と赤き椿***

勘三郎の世界から、色が失われて久しい。かつて、将来を嘱望された浮世絵師の卵であった彼にとって、それは死刑宣告にも等しかった。きっかけは、工房を襲った火事。煙に巻かれ、九死に一生を得たものの、目覚めた彼の網膜は、鮮やかな現世の色彩を捉える力を永遠に失っていた。以来、世界は濃淡の異なる墨で描かれた一枚の水墨画と化した。賑やかな江戸の町も、行き交う人々の着物の柄も、空の青さも、ただの濃淡、陰影の戯れに過ぎない。

絶望の果てに絵筆を折り、今では神田の裏通りでしがない寺子屋の師匠として糊口をしのぐ日々。子供たちの屈託のない声だけが、モノクロームの世界で唯一、温かみを持つものだった。

その日も、勘三郎は退屈と諦念が入り混じった溜息を吐きながら、寺子屋からの帰り道を歩いていた。降り始めた春の雨が、路面を濡らし、あらゆる物の輪郭を滲ませていく。灰色のアスファルトに、灰色の水たまり。灰色の空から落ちてくる、灰色の雫。世界はどこまでも単調で、無感動だった。

その時だ。

視界の隅に、ちりりと火花が散ったような、鋭い感覚が走った。思わず足を止め、目を凝らす。雑踏の中、雨に濡れた石畳の上に、それはあった。ぽつんと、一つ。

「……赤?」

声が漏れた。何年ぶりに口にした言葉だろうか。それは紛れもなく「赤」だった。血のように鮮烈で、燃えるような生命力を宿した、ただ一点の赤。他のすべてが色を失った世界で、その一点だけが、狂おしいほどに自らの色を主張していた。

吸い寄せられるように近づくと、それは一輪の椿の花だった。誰かが落としたものだろうか。勘三郎は、震える指でそっとそれを拾い上げた。手のひらの上で、雨粒を弾く花弁の赤は、まるで溶けた紅玉のようだ。なぜ、これだけが見える? 混乱する頭で辺りを見回すと、人波の中に、すっと消えていく女の後ろ姿があった。安物の番傘を傾け、白茶の着物を着た、どこにでもいる町娘。しかし、彼女が去ったその場所に、この椿は落ちていたのだ。

その瞬間から、勘三郎の灰色の世界に、小さな、しかし決定的な亀裂が入った。彼は、その女の姿と、掌中の鮮烈な赤を、生涯忘れることはないだろうと確信した。それは、退屈な日常を覆す、謎めいた予兆だった。

***第二章 音の色彩、偽りの盲目***

あの不可解な出来事から数日後、勘三郎は再びその女に出会った。場所は、柳橋のたもと。夕暮れの光が川面に鈍い銀色の反射を作る中、女は橋の欄干に寄りかかり、三味線を抱えていた。彼女の傍らには、客からの銭を受け入れるための小さな椀が置かれている。盲目の女奏者、瞽女(ごぜ)だった。

「お絹、と申します」

勘三郎が声をかけると、女は顔を上げずにそう名乗った。その声は、澄んでいながら、どこか寂しげな響きを持っていた。彼女の瞳は固く閉じられていたが、その長い睫毛が微かに震えている。

彼女が撥を握り、糸を弾いた瞬間、勘三郎は息を呑んだ。音色が、空間を満たしていく。それは単なる音ではなかった。ある音は鋭く、ある音は柔らかく、またある音は深く沈み込む。勘三郎は、目を閉じた。すると、モノクロの世界に、不思議な感覚が芽生える。哀切を帯びた旋律は藍色に、激しくかき鳴らされる音は金色に、そして、ふと途切れる間の静寂は、深い闇の色に感じられた。色が見えないはずの彼に、音が色彩を語りかけてくるようだった。

勘三郎は、それから毎日のように、お絹の元へ通った。彼女の奏でる音に耳を澄ませている時だけ、彼の心は灰色の檻から解き放たれる気がした。彼は彼女に、自分が色を失った絵師崩れであることを話した。お絹は、ただ静かに聞いていた。

「色は見えなくとも、旦那様には、わたくしなどには分からぬものが見えているのでしょう」
「見えているものか。ただの濃淡さ。あんたの方がよほど、豊かな世界に生きている」
「まあ。わたくしには、音と、香りと、人の心の温かさだけが頼りでございますよ」

彼女はそう言って、はかなげに微笑んだ。その仕草の端々に、勘三郎は再び、あの「赤」の気配を感じ取ることがあった。彼女が懐から取り出した小さな紅入れ。不意に袂からこぼれ落ちた、椿の柄の根付。それらは決まって、彼の目にだけ、燃えるような赤として映るのだ。他のどんな赤いもの――例えば、鳥居や達磨、あるいは人の流す血でさえ――灰色にしか見えないというのに。

お絹への想いが募るほど、謎は深まった。彼女はなぜ、盲目でありながら、これほどまでに世界の機微を感じ取れるのか。そして、なぜ彼女の周りにあるものだけが、勘三-郎に「赤」を見せるのか。彼は、お絹が時折、背後に人の気配を感じたかのように、びくりと身体を震わせることに気づいていた。彼女は何かから逃げている。その嫋やかな佇まいの奥に、底知れぬ秘密が隠されていることを、勘三郎は感じずにはいられなかった。

***第三章 背負う赤、暴かれる真実***

転機は、突然訪れた。ある夜、お絹が住むという裏店の長屋が、にわかに騒がしくなった。不審な浪人風の男たちが、彼女の部屋に押し入ろうとしているという。知らせを聞いた勘三郎は、いてもたってもいられず、雨の中を駆けつけた。

戸を蹴破らんとする男たち。勘三郎は、ありったけの声で叫び、近隣の者たちの注意を引いた。その隙に、長屋の裏手から逃げ出す人影があった。お絹だ。しかし、その動きは、とても盲目の人間とは思えぬほど素早かった。

勘三郎は後を追った。人気のない社の境内で、彼女に追いつく。月明かりが、雨に濡れた彼女の顔を白く照らしていた。そして、勘三郎は見てしまった。怯え、必死に逃げてきたはずのお絹の瞳が、固く閉じられてなどいなかった。その目は、はっきりと開かれ、勘三郎の姿を捉えていたのだ。

「……あんた、目が見えるのか」

絞り出すような勘三郎の問いに、お絹は観念したように、はらりと涙をこぼした。
「お許しくださいまし。偽っておりました」

彼女の告白は、勘三郎の想像を遥かに超えるものだった。お絹は、さる大藩の藩主の隠し子だった。彼女の母は、低い身分の出であったため、その存在は固く秘匿されていた。しかし、藩内に起こった後継者争いの渦中で、彼女の存在が政敵に知られてしまったのだ。彼女の命を狙う刺客から逃れるため、そして自らの存在をこの世から消すために、彼女は盲目の瞽女を装い、江戸の雑踏に紛れていたのだった。

「では、あの赤は……」
「わたくしが、その血筋である証。背中に、ございます」

お絹は震える手で、濡れた着物の襟をはだけた。月光に照らされた白い肩から背中にかけて、それはあった。鮮やかな、一輪の椿の入れ墨。
「これは、我が家に伝わる秘伝の顔料で彫られたもの。特殊な光の下でなければ、ただの痣のようにしか見えませぬ。ですが……」

勘三郎は悟った。あの日、彼が火事で視覚を失った時、彼は単に色を失ったのではなかった。彼の目は、この世のほとんどの色を拒絶する代わりに、この特殊な顔料が放つ、特定の波長の光だけを「赤」として捉えるように変質してしまったのだ。彼がお絹の奏でる音に色を感じたのは、彼女の存在そのものが、彼にとって唯一の色彩だったからに他ならない。

お絹は、色が見えないという勘三郎の言葉を信じ、心を許した。彼ならば、自分の秘密に気づくことはないだろうと。しかし、皮肉にも、彼だけが彼女の秘密を見抜くことができる唯一の人間だった。
信頼は、欺瞞の上に成り立っていた。彼の世界を彩った奇跡は、彼女の背負った悲しい宿命の現れだった。勘三郎の価値観は、根底から覆された。灰色の世界が、再び彼を飲み込もうとしていた。

***第四章 心で描く、唯一の色***

追手は執拗だった。勘三郎は、お絹を連れて、自身が生まれ育った古い画材蔵へと逃げ込んだ。そこは、あの火事以来、誰も足を踏み入れない、彼の忌まわしい記憶が眠る場所だった。

蔵の中は、墨と古い紙の匂いが満ちていた。外の喧騒が嘘のように静かだ。二人の荒い息遣いだけが響く。やがて、蔵の戸が乱暴に叩かれた。追手が来たのだ。

「わたくしのせいで、あなた様まで……」お絹が絶望に声を震わせる。
勘三郎は、彼女の前に静かに立った。彼の目には、恐怖に歪むお絹の顔も、迫りくる男たちの姿も、ただの濃淡としてしか映らない。しかし、彼の心は、かつてないほど澄み渡っていた。

「あんたは、俺に色をくれた。偽りだろうが何だろうが、俺の世界に、あんたという色が灯ったんだ。それだけで、十分だ」

彼は、壁際に立てかけてあった古い画仙紙を手に取ると、硯で墨をすった。そして、一本の蝋燭に火を灯す。
追手が戸を蹴破ってなだれ込んできた。薄暗い蔵の中、揺らめく蝋燭の光だけが頼りだ。勘三郎は、男たちには目もくれず、目の前のお絹だけを見つめた。

蝋燭の光が、彼女の着物の合わせ目から、背中の入れ墨を微かに照らし出す。その瞬間、闇の中に、一条の赤い軌跡が浮かび上がった。お絹が息を呑み、身を動かす。すると、赤い軌跡もまた、それに合わせて揺らめく。
これだ。これが、俺の武器だ。

「お絹、動け! 俺の言う通りに!」
勘三郎は叫んだ。彼は、男たちの姿を見ていない。ただ、お絹の動きによって生じる「赤」の残像だけを追っていた。
「右へ三歩! そこだ、屈め!」
お絹が動くと、赤い光が閃く。それを追って振り下ろされた刃が、空を切る。勘三郎の指示は、まるで未来を予見しているかのように正確だった。色を失ったことで研ぎ澄まされた彼の空間認識能力と、彼にしか見えない赤い光が、暗闇の中で完璧な連携を生み出していた。

彼は、墨を含ませた太い筆を、追手の顔めがけて投げつけた。目潰しを食らった男が怯んだ隙に、勘三郎はお絹の手を引いて蔵の裏口から飛び出した。夜の闇に紛れ、二人は走り続けた。

夜明け前、船着き場で二人は足を止めた。お絹は、西へ向かう船に乗らねばならない。もう、江戸にはいられない。
「いつか……いつか、もし世が泰平になり、わたくしが何者でもなくなったなら。その時は、貴方に、この世のすべての色の名を教えて差し上げたい」
お絹はそう言うと、勘三郎の手に、あの椿の柄の根付を握らせた。それは、勘三郎の目には、やはり鮮やかな赤色に見えた。

彼女を乗せた船が、朝靄の中へと消えていく。その姿が灰色の風景に溶けて見えなくなるまで、勘三郎は、ただじっと立ち尽くしていた。

数年の月日が流れた。神田の裏通りに、風変わりな絵を描く男がいると、評判が立った。男の名は、勘三郎。彼の描く浮世絵は、大胆な墨の濃淡と、そして、ただ一点、燃えるような椿の赤だけで構成されていた。
彼の目には、今も世界は灰色にしか映らない。お絹が教えてくれた、空の青も、若葉の緑も、彼は知らないままだ。
しかし、彼の心には、確かな色彩が宿っていた。それは、お絹が残していった、たった一つの赤。そして、彼女が言葉と音で教えてくれた、目には見えない世界の豊かさだった。
勘三郎は、絵筆を握る。失われたもの嘆くのではなく、与えられた唯一の光を、心で描くために。彼の描く赤い椿は、見る者の胸に、切なくも温かい、名付けようのない感情を呼び起こすのだった。それは、灰色の世界で見つけた、愛と記憶の色であった。

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