天色の言祝ぎ(あまいろのことほぎ)

天色の言祝ぎ(あまいろのことほぎ)

0 5399 文字 読了目安: 約11分
文字サイズ:

第一章 星螢の夜

江戸の夜空は、墨を流した和紙のようにどこまでも暗かった。その闇を唯一照らすのは、屋根の連なりを銀色に縁取る月明かりと、家々の窓から漏れる頼りない灯火だけだ。俺、清十郎(せいじゅうろう)は、その夜闇を見上げては、いつも父のことを思い出していた。花火師だった父、清兵衛(せいべえ)は、この漆黒の空を色とりどりの花で埋め尽くす名人だった。しかし、その父は三年前、工房の不慮の事故で、自らが作り出した炎に巻かれて死んだ。

父が死んで以来、俺は工房を継ぎ、一人で火薬を練り、玉を込めてきた。だが、俺の作る花火は、父のそれには遠く及ばない。父の花火には魂が宿っていると人々は言った。夜空に一瞬だけ咲き、人の心に永遠の記憶を刻む、そんな花を咲かせていた。

ある蒸し暑い夏の夜のことだった。閉店の支度をしていた俺の工房の戸を、とん、とん、と控えめに叩く者がいた。戸を開けると、そこに立っていたのは、深編笠を目深に被り、素顔の見えない浪人風の男だった。油の匂いと火薬の微かな香りが漂う工房に、男は静かに入ってきた。

「玉屋清十郎殿で相違ないか」

低いが、芯のある声だった。俺が頷くと、男は懐から小さな布包みを取り出し、作業台の上に置いた。金子にしては重すぎる。

「これを。……今宵、子の刻(ねのこく)に、隅田川の向こう岸、柳島の方角へ、『星螢(ほしぼたる)』を一つ、打ち上げていただきたい」

その名を聞いた瞬間、俺の背筋を冷たいものが走った。『星螢』。それは、父が晩年に試作していたという、幻の花火の名だった。父の日記に、その名といくつかの不可解な調合の記述が残されているだけ。完成したという記録はない。

「なぜその名を……。あれは未完の花火のはずだ」

「亡き清兵衛殿と、我らの主との約束でござる。必ずや、今宵」

男はそれ以上何も語らず、深々と一礼すると、再び夜の闇に消えていった。

残された作業台の上には、ずしりと重い金子と、父の代からの謎が横たわっていた。なぜ、見ず知らずの浪人が父との約束を? そして『星螢』とは、一体どんな花火なのだ?

父の日記を引っ張り出す。そこには、通常の火薬の調合とは明らかに異なる記述があった。「星屑の涙、七分。夜光る蟲の腹、三分。瞬きの間に消え、記憶にのみ残る光……」。詩のような、謎めいた言葉の羅列。

だが、俺には分かっていた。これは暗号だ。父は子供の頃の俺に、植物や鉱物の隠語を教えてくれていた。「星屑の涙」は硝石、「夜光る蟲の腹」は硫黄の一種。そして、配合の比率。俺は、父との遊びを思い出しながら、慎重に火薬を練り始めた。父は、俺に何を伝えたかったのか。この花火に、どんな意味を込めたのか。

子の刻。俺は一人、小舟で川を渡り、約束の場所へ向かった。湿った夜気が肌にまとわりつく。打ち上げ筒を据え、父の遺した花火玉を静かに装填する。導火線に火を移すと、しゅるしゅると命を燃やす音が響いた。

ヒュルルル……!

一筋の光が闇を切り裂き、天高く昇っていく。そして、頂点で、ぱん、と乾いた音を立てて弾けた。

それは、派手な大輪の花ではなかった。夜空に、金色の小さな光の点が、まるで螢の群れのように、ゆっくりと、明滅しながら広がり、そしてふっと消えた。ただそれだけ。しかし、その光の配置は、偶然にしてはあまりに規則的だった。北斗七星を逆さにしたような、不思議な模様を描いていた。

美しく、儚く、そして何かを問いかけるような光。俺は、父が遺した謎の、その入り口に立ったことを、まだ知らなかった。

第二章 燻る火種

『星螢』を打ち上げた翌日から、俺の周りは静かに、しかし確実に変わり始めた。

まず、見慣れない顔の同心が、工房の周りをうろつくようになった。客を装って入ってきては、火薬の仕入れ先や最近の仕事について、探るように尋ねてくる。俺は当たり障りのない応対をしたが、背中には常に値踏みするような視線が突き刺さっていた。

ある日、父の代から付き合いのある呉服問屋の旦那が、珍しく工房を訪ねてきた。

「清十郎さん、近頃、妙な仕事は受けておらんかね」

旦那は茶をすすりながら、遠回しに切り出した。

「腕のいい職人には、いろんな話が舞い込んでくるもんだろうがね……。火は、暖を取ることもできりゃ、家を焼き払うこともできる。どう使うかは、持ち手次第だ。あんたの親父さんは、それをよく分かっていたよ」

その言葉は、忠告のようにも、脅しのようにも聞こえた。

俺は、父の遺品を改めて漁ることにした。日記、設計図、帳簿。その中に、一枚だけ、和紙に挟まれた古い書付を見つけた。それは、父の筆跡で書かれた、数名の名前と場所の羅列だった。呉服問屋の旦那の名もあった。そして、その最後に、こう記されていた。

『大輪は、天の号令。されど、火は人の心を照らすためにこそあれ』

天の号令。その言葉が、俺の胸に重くのしかかる。父は、ただの花火師ではなかったのかもしれない。何か、大きな計画に関わっていたのではないか。そして、あの『星螢』は、その計画の始まりを告げる合図だったのではないか。

父の死は、本当に事故だったのか。疑念が、燻る火種のように心の中でじりじりと熱を帯びていく。

数日後、再びあの浪人が現れた。今度は夜ではなく、人通りの絶えた昼下がりに、裏口から入ってきた。

「見事な『星螢』であった。さすがは清兵衛殿の御子息」

浪人は編笠を取り、初めて素顔を見せた。日に焼け、厳しく引き締まった顔。しかし、その瞳の奥には、深い憂いのようなものが湛えられていた。

「我らは、この腐った世を正すために、志を同じくする者。幕府の重税と圧政に苦しむ民を救うため、近く事を起こす。亡き清兵衛殿は、我らが計画の要であった。氏の作る花火こそ、江戸市中に散らばる我ら同志への、唯一の伝達手段なのだ」

浪人は語った。花火の種類、色、開く高さ、音の数。それらすべてが、複雑な暗号になっているという。父は、夜空を盤面に見立て、光と音で情報を伝える、恐るべき技術を編み出していたのだ。

「決行の日は近い。最後にして最大の号令、『天翔(あまかけ)る龍』を打ち上げてほしい。それが、一斉蜂起の合図となる」

『天翔る龍』。日記にその名があった。父が生涯をかけて完成を目指した、最高傑作。龍が天に昇る様を、花火で描くという、途方もないものだ。

「父は……、なぜこの計画に?」

「清兵衛殿もまた、この世の理不尽に心を痛めておられた。力なき者が、ただ黙って奪われるのを見過ごせぬ、と。貴殿にも、父君の遺志を継いでいただきたい」

父の正義感の強さは、俺が一番よく知っている。困っている者を見れば、損得抜きで手を差し伸べる人だった。父がこの計画に加わったのは、想像に難くない。

そして、父の死。もし、この計画が幕府に漏れていたとしたら……。父は口封じのために消されたのかもしれない。

浪人が帰った後、俺は工房の奥で、父が遺した『天翔る龍』の設計図を広げた。複雑怪奇な図面と、びっしりと書き込まれた調合の指示。これを完成させれば、父の無念を晴らせるかもしれない。俺の胸の中で、復讐の炎が静かに燃え上がった。

第三章 裏切りの花

決行の日まで、あと三日。俺は工房に籠り、寝食を忘れて『天翔る龍』の製作に没頭した。父が遺した設計図は、寸分の狂いもなく完璧に見えた。火薬を練り、玉に込める。一つ一つの工程に、父の魂と対話するような、不思議な感覚があった。俺は父を超える。そして、父を死に追いやった者たちに、この花火で報いるのだ。

その夜、俺の工房を訪れたのは、意外な人物だった。夜陰に紛れてやってきたのは、あの呉服問屋の旦那だった。店の者も連れず、ただ一人で。

「清十郎さん。おめえさん、とんでもねえことに足を突っ込もうとしてるんじゃねえか」

旦那の顔は、いつもの人の好さそうな笑顔ではなく、苦渋に満ちていた。

「あんたの親父さん、清兵衛さんのことを話しに来た」

旦那は静かに語り始めた。彼もまた、計画の初期の仲間だったという。しかし、彼は途中で抜けた。そして、父もまた、計画から抜けようとしていたのだ、と。

「最初は、我々も純粋だった。だが、いつしか手段が目的になっちまった。計画の首謀者である、あの浪人……橘様は、民のためと言いながら、多くの血が流れることを厭わないお方だ。蜂起が成功したところで、待っているのは新たな混乱と、さらなる犠牲者だけだ」

父はそれに気づいたのだという。

「清兵衛さんは言ってた。『俺たちのやることは、世直しなんかじゃねえ。ただの私闘だ。俺は、人の命を奪うための花火は作れねえ』と。だから、彼は最後の号令である『天翔る龍』の完成を拒んだ。それで……」

旦那は言葉を詰まらせた。

「……それで、橘様たちに、裏切り者として始末されたんだ。事故に見せかけてな」

雷に打たれたような衝撃だった。父は、計画に反対して殺された? 俺が信じてきた父の遺志は、復讐の炎は、すべて偽りだったというのか。

「じゃあ、この設計図は……」

俺は震える手で、父の遺した図面を指さした。

「ああ。それは、橘様たちを欺くための、偽物だ。わざと不完全に作ってある。そのまま打ち上げても、龍の形にはならねえ。ただの歪な光の塊になるだけだ。清兵衛さんは、土壇場で計画を失敗させるつもりだったんだよ。だが、その前に命を奪われた」

俺は全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。頭が真っ白になった。父は、正義のために死んだのではなかった。正義を振りかざす者たちの狂気を止めようとして、殺されたのだ。俺は、父を殺した者たちのために、父の技術を使おうとしていた。なんという愚かさだ。

旦那は、俺の足元に小さな桐の箱を置いた。

「これは、清兵衛さんから預かっていたものだ。『万が一のことがあったら、息子に渡してくれ』と。本当の設計図かもしれねえ」

旦那が去った後、俺は恐る恐る箱を開けた。中には、一枚の和紙が入っていた。そこには、設計図ではなく、ただ一首の歌が記されていた。

『天翔ける 龍の猛きを 鎮めんと 白き鳩となりて 闇夜を舞え』

そして、その下に、これまで見たこともない、全く異なる火薬の調合が数行。

それは、蜂起の号令ではなかった。父が俺に遺した、本当の想い。破壊ではなく、鎮魂と平和への祈り。涙が、ぼろぼろと頬を伝って、工房の床に染みを作った。

第四章 白鳩の夜明け

決行の夜。空気は張り詰め、江戸の町は嵐の前の静けさに包まれていた。俺は約束の場所である高台に、完成した『天翔る龍』の巨大な打ち上げ筒を据えていた。背後には、橘と数人の同志たちが、固唾を飲んでその時を待っている。

俺の心は、定まっていた。復讐でもなく、盲従でもない。俺自身の意志で、花火師として、そして父・清兵衛の息子として、成すべきことを成す。

子の刻。橘が厳かに頷いた。

「頼む、清十郎殿。我らの夜明けを告げる、天の号令を」

俺は静かに頷き返し、導火線に火を灯した。じりじりと燃え進む火花が、俺の最後の迷いを焼き尽くしていくようだった。

ゴォッという地響きと共に、巨大な光の塊が夜空へと吸い込まれていく。誰もが息を止めて、天を見上げた。橘の目は、来るべき勝利を確信してらんらんと輝いている。

そして、光は天頂で、轟音と共に炸裂した。

しかし、そこに現れたのは、猛々しい龍の姿ではなかった。

夜空いっぱいに広がったのは、何百、何千という、純白の光の点だった。一つ一つが、まるで生きているかのように、ゆっくりと羽ばたきながら、夜空を舞い始めたのだ。それは、巨大な白い鳩の群れが、一斉に平和の空へ飛び立っていくような、荘厳で、あまりにも美しい光景だった。

火薬に混ぜ込んだ特殊な金属片が、燃え尽きる寸前に形を変え、風を受けて滑空する。父が最後に書き遺した、奇跡の調合。それは戦の合図ではなく、誰も傷つけない、ただただ平和を願う光の詩だった。

「な……! なんだこれは! 龍は、龍はどうした!」

橘が絶叫する。同志たちが呆然と空を見上げる。江戸のあちこちで、この合図を待っていた者たちも、天に舞う無数の白い鳩を見て、武器を手に取ることの意味を見失ったに違いない。

遠くから、役人たちの鬨(とき)の声が聞こえ始めた。計画は、すでに露見していたのだろう。だが、不思議と恐怖はなかった。俺は、夜空を埋め尽くす父の、そして俺の鳩たちを見上げていた。

この光景を見た人々は、今宵のことを忘れないだろう。戦の合図が、いかにして平和への祈りに変わったかを。火が、武器ではなく、人の心を照らす光になり得ることを。

役人たちがこの高台になだれ込んでくるだろう。俺は捕らえられ、罪人として裁かれるのかもしれない。だが、後悔はなかった。俺は父の想いを継ぎ、そして、自分自身の花火を打ち上げたのだから。

夜空に舞う最後の光の鳩が、ふっと夜の闇に溶けていく。まるで、役目を終えた父の魂が、安らかに天に昇っていくようだった。俺は、晴れやかな気持ちで、夜明け前の澄んだ空気を深く吸い込んだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る