残響の果て
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残響の果て

第一章 歪な都

宗次(そうじ)の左腕には、一輪の彼岸花が墨絵で描かれていた。生まれつきの痣ではない。彼の命が尽きる時、この花は満開となる。今はまだ、数枚の花弁がほころび始めたばかりだ。彼は自らの終わりを、その目で常に確かめながら生きていた。

だが、他者の終わりは、耳で聴いた。

「……またか」

往来にしゃがみ込むと、宗次は目を閉じた。耳に届くのは、人々の草履が土を擦る音、店の呼び込み、子供の笑い声。その全てに混じり、微かな不協和音が響いている。ひび割れた鈴のような、か細く、しかし確かな死の音。音の源は、道の向かいで鞠をつく少女だった。

宗次が生きるこの都は、病んでいた。人は、その本性に巣食う悪意や業が深まるほどに、姿を歪ませ、やがては無機質な「モノ」へと成り果てる。人々はそれを「具現化の病」と呼び、恐れた。強欲な両替商は錆びついた天秤に、嫉妬深い女は持ち主のいない櫛に、権力に媚びる役人は歪な判子に。彼らはモノと化してもなお、生前の記憶を抱いたまま、その性質を無意識に反復し続ける。路地裏には、誰にも使われることのない算盤が転がり、カタカタと虚しく珠を弾いていた。

鞠つきの少女は、まだ人の形を保っている。だが、彼女から聴こえる音は、近い未来の変貌を告げていた。宗次が眉を顰めると、少女の足が止まる。彼女が見つめる先、大きな蔵の前には、異様に分厚い鉄の扉があった。いや、あれは扉ではない。ひとりの男が変貌した「金庫」だ。少女の父親なのだろう。金庫は重々しい沈黙を保ち、ただそこに在るだけだった。

少女が金庫にそっと触れる。その指先から、ひび割れた鈴の音が一層強く宗次の耳に届いた。まるで、壊れかけた魂が共鳴しているかのようだった。

第二章 死音の調べ

日が経つにつれ、少女から聴こえる死の音は、その輪郭をはっきりとさせていった。最初は微かな鈴の音だったものが、今や薄い玻璃(はり)に罅(ひび)が入るような、鋭い音へと変わっている。

宗次はあえて名も聞かず、ただ遠巻きに少女を見守っていた。彼女の名は小夜(さよ)というらしい。近所の者たちが、金庫になった父親を指差し、哀れむようにそう呼んでいた。

ある夕暮れ、宗次は都の衛士の一団が、変貌したモノを荷車に載せて運んでいくのを目撃した。秤、判子、井戸の釣瓶(つるべ)。それらは「資材」として扱われ、都の中心に聳える「安寧の塔」へと運ばれていく。衛士たちの顔は、まるで能面のように無表情で、彼ら自身からも、乾いた木が軋むような変貌の予兆が聴こえた。

この病は、天災などではない。

明確な意志が介在している。

宗次は確信した。衛士たちが去った後、小夜が駆けてきた。荷車が残した轍(わだち)を、彼女は泣きそうな顔で見つめている。

「お父さんも、連れていかれるの?」

か細い声が、宗次の背に突き刺さる。彼は答えなかった。いや、答えられなかった。ただ、彼女から聴こえる玻璃の罅割れる音が、またひとつ増えたのを感じていた。

このままでは、少女も「資材」になる。

何かの部品として、あの塔へ運ばれる。

宗次は、腰に差した錆びかけの刀の柄を、強く握りしめた。彼の腕で、彼岸花の花弁が一枚、また濃く色づいた気がした。

第三章 記帳の在処

都には古くからの言い伝えがあった。万物の「業」を記録し、時にそれを書き換える力を持つという、一冊の書物。かつてこの国を救った賢者が遺したとされる「記帳(きちょう)」の伝説だ。真の持ち主にしか、その文字は読めぬという。

「安寧の塔にある。病を操る連中の、一番深い場所に」

宗次は酒場の隅で、情報を買った。噂は酒と共に澱み、真偽の境は曖昧だったが、他に手掛かりはない。変貌の果てに「壊れた徳利」と化した男が、虚ろに同じ言葉を繰り返している。その行動すら、誰かの意志によって定められているかのようだった。

塔へ向かう道は、異様というほかなかった。噂話に明け暮れた老婆たちは、道端の「古井戸」と化し、ゴポゴポと意味のない泡を立てている。他人の不幸を肴に酒を飲んでいた男たちは「ひび割れた盃」となり、乾いた風にカラカラと鳴った。

彼らは、生きている。記憶も、ある。だが、自らがモノになったことには気づかない。ただ、その性質に従い、無意味な反復を続ける。そして宗次は気づいてしまった。古井戸は不都合な真実を飲み込み、ひび割れた盃は人々の不満を蒸発させる。彼らの無意識の行動が、この歪な都の「秩序」を奇妙な形で維持しているのだ。まるで、巨大な機械を動かす、無数の歯車のように。

塔が近づくにつれ、空気が重くなる。死の音が、そこかしこで共鳴し、ひとつの巨大な呻きとなって宗次に襲いかかった。

第四章 理想郷の真実

安寧の塔の最上階は、がらんどうだった。中央に置かれた石の台座の上に、古びた一冊の書物が鎮座している。それが「記帳」だと、宗次は直感で理解した。彼が近づくと、腕の彼岸花が熱を帯び、呼応するように淡い光を放つ。

『来たか、継承者よ』

声が響いた。物理的な音ではない。直接、脳の内に語りかけてくる思念だった。声の主は、この都を築いたとされる、かつての英雄。彼の亡骸は既に塵と化し、その思念だけが、この塔、いや、この都のシステムそのものに同化していた。

『人々はあまりに愚かで、その欲望と悪意は、いずれ国を滅ぼす。故に私は、彼らの魂から「業」を分離し、浄化するシステムを創った。これぞ、真の理想郷』

具現化の病は、病ではなかった。英雄が作り出した救済システム。人々から分離された「業」が形を成し、人をモノへと変える。そして変貌した者は、システムを維持するための部品となるのだ。

『お前が継承者だ。その腕の痣は、記帳を扱う資格の証。さあ、記帳を手に取り、この理想郷を未来永劫、維持するのだ』

英雄の思念が、甘美に囁く。だがその瞬間、宗次の耳を凄まじい音が貫いた。

パリンッ、と。

世界そのものが砕けるような、甲高い音。

「小夜!」

宗次は塔の窓から身を乗り出した。遥か下、都の広場で、小夜の体が淡い光に包まれていた。彼女の純粋な魂が、暴走しかけたシステムの安定を保つための、新たな「楔(くさび)」として取り込まれようとしていた。彼女はモノではない。システムの核そのものになろうとしていたのだ。

第五章 決意の墨

宗次はためらわず、石の台座から「記帳」を掴み取った。ずしりと重い。古びた羊皮紙の表紙をめくると、そこには意味をなさない染みのような文字が蠢いていた。だが、宗次が視線を注ぐと、文字は意味を持ち始める。人々の名、その人生、そして彼らが犯した業の全てが、奔流となって彼の意識に流れ込んできた。

『やめろ! システムを乱すな!』

英雄の思念が怒号を上げる。

記帳を書き換えれば、システムは止められる。だが、英雄の言葉が宗次の脳裏に蘇る。システムを止めれば、人々から分離された「業」の記憶がどうなる? 人々は、悪意も善意も、喜びも悲しみも、その人生を構成する全ての記憶を失うだろう。それは救いなのか?

宗次は自らの左腕に目を落とした。彼岸花は、もう八分咲きといったところか。残された時間は少ない。

小夜の、あの小さな手が金庫に触れていた姿を思い出す。父親を想う、ただそれだけの純粋な心が、システムの部品にされようとしている。記憶を失っても、それでも。

「……それでいい」

宗次は呟いた。彼は記帳の空白の頁を開き、筆の代わりに、自らの右手の指を置いた。

「俺の命が、最後の墨だ」

覚悟を決めると、左腕の彼岸花が燃えるように輝き始めた。花弁がはらりと一枚散り、それは黒い墨の雫となって、宗次の右手の指先へと滴り落ちる。熱い。命が削られていく灼けるような痛みの中、宗次は記帳に最後の一文を書き記し始めた。

第六章 残響の果て

「全ての業を、我一人が引き受ける」

命の墨で綴られたその一文が、記帳に染み込んだ瞬間、世界は音を失った。

次いで、純白の光が塔の頂から溢れ出し、都の隅々までを洗い流していく。宗次の左腕で、彼岸花が猛烈な勢いで散っていく。花弁が一枚散るごとに、彼の体は透き通っていくようだった。

光が収まった時、都の景色は一変していた。道端に転がっていた算盤は人の良い商人に、壁と同化していた天秤は実直な老人に、そして古井戸だった場所には、腰の曲がった老婆たちが、きょとんとした顔で立ち尽くしている。彼らの目には、生まれたての赤子のような、無垢な光だけが宿っていた。

広場では、小夜が、人の姿を取り戻した父親の胸に顔を埋めている。だが、二人に父娘の記憶はない。ただ、そこにある温もりを確かめ合うように、静かに寄り添っているだけだった。

誰も、何も覚えていない。

悪意も、悲しみも、そして、誰かが自分たちを救ったことも。

宗次は、ふらつく足で塔を降り、人々の輪からそっと離れた。路地裏の壁に背を預け、ゆっくりと座り込む。左腕の墨絵は跡形もなく消え、彼の体は陽炎のように揺らめいていた。彼の存在そのものが、世界から消え去ろうとしている。

その時、ふと、小夜がこちらを振り向いた。

少女は不思議そうに首を傾げた。その瞳に、一瞬だけ何かが宿ったように見えたが、すぐに父親の方へと向き直ってしまう。

それで、よかった。

宗次は、薄れゆく意識の中で、満足げに微笑んだ。

やがて、彼の姿は完全に消え、そこには誰もいなくなった。

世界から、彼の生きた証である「音」は、もう二度と響くことはない。ただ、理由の分からない涙を一筋だけ流した少女の記憶の片隅に、何かとても切ない残響が、微かに、本当に微かに、宿っただけだった。


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