第一章 沈黙の工房
オイルと古紙の匂いが染みついた、狭く薄暗い部屋。
そこが、俺の城だった。
作業台に散らばる大小無数の歯車。ピンセットの先で一つをつまみ上げ、ルーペ越しに睨みつける。
「……歪んでやがる」
吐き捨てるような独り言。
俺、源治(げんじ)は、さびついた真鍮の部品を布で荒々しく拭った。
俺には、特異な才能がある。
物に触れると、その持ち主の「記憶」や「感情」がノイズのように指先から流れ込んでくるのだ。
便利なようでいて、実際は厄介極まりない。
悲しみ、怒り、後悔。
修理を依頼される品なんてものは、大抵が壊れた過去の象徴だ。
重たい情念を受け流しながら、俺はただ黙々と直す。
カラン、コロン。
ドアベルが鳴った。
重たい金属音。客だ。
「……いらっしゃい」
顔も上げずに言う。
入ってきたのは、若い女だった。
どこかおどおどとした足取り。
手には、塗装の剥げた小さなオルゴールを抱えている。
「あの、修理をお願いしたくて……」
消え入りそうな声。
俺は作業台のライトを少しずらし、彼女を睨むように見上げた。
「置いてきな。直るかどうかは、俺が決める」
愛想のかけらもない対応。
だが、女は安堵したように息を吐き、カウンターにそれを置いた。
「お願いします。これは……父の大切なものなんです」
俺はオルゴールに手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、ズキリと頭痛が走った。
(……悔しい、忘れたくない、すまない……)
流れ込んでくるのは、強烈な焦燥感。
そして、深い愛情。
俺は眉をひそめ、手を引っ込めた。
「……重症だな」
「え?」
「いや、こっちの話だ。預かる。一週間後に来な」
女は何度も頭を下げて出て行った。
残されたのは、静寂と、情念の塊のようなオルゴール。
「ったく、面倒な仕事を持ってきやがって」
俺は悪態をつきながら、震える手で工具を握り直した。
第二章 錆びついた旋律
作業は難航した。
蓋を開けると、中の機構はひどく摩耗していた。
ゼンマイは切れかけ、シリンダーのピンは数本折れている。
「これじゃあ、歌えねえよな」
ピンセットで微細な部品を摘む。
カチ、カチ、と金属が触れ合う音だけが響く。
集中すればするほど、あの「声」が頭の中に響いてくる。
――ミサキ、誕生日おめでとう。
――パパはね、これしか直せないけど。
――いつか、思い出してくれればいい。
(……うるせえな)
俺は額の汗を拭った。
持ち主の男の記憶。
不器用で、頑固で、家族とうまくいかずに孤立した男。
今の俺と大差ないじゃないか。
だからこそ、腹が立つ。
「ほら、そこ、噛み合わせが甘い」
独り言が増える。
指先の感覚が、時々ふっと遠くなる。
最近、どうも調子が悪い。
視界が白く霞むことがあるし、今さっき置いたはずのドライバーが見当たらないこともある。
「……老いぼれたか」
自嘲気味に笑い、俺は最後の調整に入った。
切れたゼンマイを繋ぎ直し、油を差す。
一番重要なのは、このシリンダーの回転速度だ。
速すぎれば情緒がない。遅すぎれば間延びする。
持ち主の心臓の鼓動に合わせるんだ。
あの男の、娘を想う不器用な鼓動に。
深夜の工房。
俺は取り憑かれたように手を動かし続けた。
この仕事を終えなければ、俺自身が壊れてしまいそうな予感がしたからだ。
カチリ。
小さな音がして、最後の歯車が定位置に収まった。
「……出来た」
深いため息をつく。
完成したオルゴールは、薄汚れたままだったが、中身は新品同様に蘇っていた。
俺はそれを掌で包み込む。
もう、ノイズは聞こえない。
あるのは、静かで温かい充足感だけだった。
第三章 刻(とき)の魔法
約束の一週間後。
あの女がやってきた。
「出来てるよ」
俺はカウンター越しにオルゴールを差し出した。
女は震える手でそれを受け取る。
「……直ったんですか?」
「ああ。音色は保証する」
女はゆっくりと底のネジを巻き、蓋を開けた。
ポロン、ポロン……。
流れ出したのは『大きな古時計』。
素朴で、どこか哀愁を帯びたメロディが、狭い工房を満たしていく。
女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ああ、この音……」
彼女は泣き崩れるようにしゃがみ込んだ。
俺はその姿を見て、ふと奇妙な感覚に襲われた。
工房の風景が、揺らいでいる。
薄暗い壁が、白く発光し始めている。
オイルの匂いが消え、代わりに消毒液のツンとした匂いが鼻をつく。
「……お父さん」
女が顔を上げ、俺を見た。
え?
俺は眉をひそめる。
「客に向かってお父さんとは、どういう了見だ」
そう言おうとした。
だが、口から出たのは別の言葉だった。
「……ミサキ、か?」
世界が反転する。
俺の手にあるのは、精密ドライバーではない。
プラスチックのスプーンだ。
目の前にあるのは、作業台ではない。
白いベッドの上に置かれた、病院食のトレイ。
そして、カウンターの向こうにいたはずの客は、ベッドの脇でパイプ椅子に座り、涙を拭っている俺の娘だった。
彼女の手には、あのオルゴール。
「お父さん……やっと、私のことが分かったの?」
ミサキが泣き笑いのような顔で俺を見る。
俺は呆然と周囲を見渡した。
ここは、病室だ。
俺は認知症を患い、ここに入院していたのか。
あの工房は?
あの修理の日々は?
すべては、俺の混濁した意識が見せた幻影。
いや、違う。
俺は視線を落とす。
ミサキの手にあるオルゴールは、確かに動いている。
あの美しい音色を奏でている。
俺は幻の中で、必死に記憶の断片を繋ぎ合わせていたのだ。
壊れかけた脳の歯車を、必死に噛み合わせようとしていたのだ。
「……直ったんだな」
俺は掠れた声で呟いた。
それがオルゴールのことなのか、俺の記憶のことなのか、自分でも分からなかった。
「うん……直ったよ。ありがとう、お父さん」
ミサキが俺の手を握る。
その温かさだけは、どんな幻よりも鮮明で、リアルだった。
俺は握り返す。
力が入らない老いた手で、精一杯に。
メロディが止まる。
静寂が戻ってくる。
だが、もう孤独な静寂ではなかった。
俺はゆっくりと目を閉じた。
次に目覚めた時、また工房に戻っているかもしれない。
それでも構わない。
俺は何度でも修理するだろう。
この手の温もりを、思い出すために。