忘却の庭師

忘却の庭師

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初恋の香りはバニラ、裏切りの匂いは焦げたゴム。その違いを鼻先だけで嗅ぎ分けられるなんて、呪い以外の何物でもない。

私は眉間の皺を指で伸ばしながら、カウンターに置かれた『喜び』の小瓶を手に取った。中身は黄金色の液体。蓋を開ければ、焼きたてのパンのような甘い香りが鼻孔をくすぐる。

「はい、これ。一週間分の『幸福感』ね。代金は振り込みで」

客の青年は、麻薬中毒者のように震える手で小瓶をひったくると、逃げるように店を出て行った。

ここは『記憶の花屋』。

人間の脳から抽出された記憶を、特殊な溶液で培養し、花として結晶化させる店だ。逆に、花の蜜を吸えば、その記憶を追体験できる。

私はエララ。生まれつき、他人の感情を『匂い』として感じる共感覚を持っている。

私の仕事は単純だ。辛い記憶を売りたい奴から買い取り、幸せになりたい奴に売る。感情のブローカー。それだけのことだった。

カラン、とドアベルが鳴る。

湿った風と共に、一人の老人が入ってきた。

第一章 灰色の注文

その老人は、奇妙なほど『無臭』だった。

喜びの甘さも、怒りの焦げ臭さも、悲しみの雨の匂いもしない。まるで、心が空っぽの抜け殻のようだ。

「いらっしゃい。何を売りたいの? それとも買いたい?」

私は事務的に尋ねる。老人は古びたコートのポケットを探り、一枚のメモ用紙をカウンターに置いた。

震える文字で、日付と場所だけが記されている。

「この日の記憶を、買い戻したいのです」

しわがれた声だった。私は端末を叩き、データベースを検索する。日付は二十年前。

「……あるわね。でも、これは『特級指定』よ。相当ひどい記憶だわ」

モニターには『絶望』を示すドクロマークが点滅している。通常、人は嫌な記憶を消したくて売る。それをわざわざ買い戻す物好きはいない。

「中身を確認する? 試香紙(ムエット)につけてあげるけど」

「いいえ、結構です。それは私が手放した、最も大切な痛みですから」

老人は穏やかに微笑んだ。その笑顔に、微かに鉄の匂いが混じった気がした。

第二章 棘のある結晶

記憶の培養には時間がかかる。

私は倉庫の奥から、埃を被った培養タンクを引き出した。ID番号『Z-909』。

タンクの栓を抜き、培養液を『開花槽』に注ぐ。液体はどす黒く、泥のように重い。

「うわ、くさっ」

鼻をつまむ。腐った沼の底のような悪臭。これが『絶望』の正体だ。培養液に促進剤を垂らすと、瞬く間に茎が伸び、蕾が膨らんでいく。

普通、幸福な記憶は薔薇や向日葵のような派手な花になる。しかし、この記憶の花は違った。

咲いたのは、青黒い薊(アザミ)だった。

鋭い棘がびっしりと生え、見るからに触れる者を拒絶している。

「完成したわよ」

私は厚手の手袋をして、薊を鉢に移した。

老人はカウンター越しに、その花を愛おしそうに見つめている。

「これが……」

「警告しておくけど、この蜜を舐めたらショック死するかもしれないわよ。それくらいの濃度だわ」

「構いません。私がこれを失ったことで、誰かが救われたのですから」

老人の言葉に、私は違和感を覚えた。

記憶を売れば、その対価として金が入る。誰かが救われる? 金のために売ったのではないのか?

「お代は?」

「代金は結構です。……というか、既に頂いています」

老人は首を振った。

「二十年前、私はこの記憶と引き換えに、ある少女の手術代を工面しました。彼女は難病で、生きるためには高額な治療が必要だった」

私の心臓が、早鐘を打った。

二十年前。私が孤児院で死にかけていた時期と重なる。

原因不明の熱病。奇跡的に匿名の寄付があって手術を受けられたと、院長から聞いたことがある。

まさか。

「あんた、名前は?」

「名乗るほどの者ではありません。ただ、その少女が今、元気に花屋を営んでいると聞いて、安心しました」

老人は私の目をまっすぐに見た。

その瞬間、無臭だった彼から、強烈な香りが漂ってきた。

それは、日向のような、干した布団のような、どこか懐かしい『安らぎ』の香り。

第三章 碧色の真実

「待って、この記憶……まさか」

私は制止を振り切り、禁忌を犯した。手袋を外し、素手で薊の棘に触れる。

指先に痛みが走ると同時に、鮮烈な映像が脳内に流れ込んでくる。

――病室のベッド。小さな手が、大きな手を握っている。

『おじいちゃん、痛いよ』

幼い私の声だ。

『大丈夫だ、エララ。私が助けてやる』

若い頃の老人が泣いている。

彼は自分の持つ全ての財産を売り払い、それでも足りず、最後に自分自身の『最も愛した記憶』を売ったのだ。

その記憶とは、『妻と娘(私の母)を事故で失った日の絶望』ではなく、『彼らと過ごした最後の日々の、胸が張り裂けるほどの愛』だった。

愛が深ければ深いほど、喪失の悲しみは価値を持つ。

彼は、私を救うために、私と母を愛した記憶そのものを売り払い、私たちのことを忘れる道を選んだのだ。

「……思い出した?」

現実に戻る。頬を涙が伝っていた。

老人は、困ったように眉を下げている。

「私は、貴方のことを覚えていません。記憶を売ってしまったから。でも、この店の噂を聞いて、どうしても確かめたかった。私が守りたかったものが、ちゃんと咲いているかどうかを」

彼は薊を受け取らなかった。

「その花は、貴方が持っていてください。それは私の痛みですが、貴方にとっては愛の証拠だ」

老人は背を向け、ドアノブに手をかけた。

最終章 忘れ物

「行かないで!」

私はカウンターを飛び越えた。

バニラでもゴムでもない、ただ温かい涙の匂いが店内に充満している。

「おじいちゃん!」

その呼び名に、老人の肩がピクリと震えた。

記憶はないはずだ。私との思い出は、この薊の中にあるのだから。

けれど、身体は覚えているのかもしれない。

私は薊の花弁をむしり取り、その蜜を指につけ、老人の口元へ運んだ。

「舐めて。これは、あんたの記憶よ。返してもらうわ」

「しかし……」

「いいから!」

無理やり唇に押し付ける。

瞬間、老人の瞳孔が開き、焦点が定まる。

空っぽだった瞳に、急速に色が戻っていく。

青ざめた顔に血の気が差し、彼は崩れ落ちそうになった。

私はその体を支える。

「……エララ?」

しわがれた声が、震えていた。

「そうよ。まったく、一番大事なものを店に忘れていくなんて、耄碌(もうろく)しすぎよ」

私は泣き笑いの表情で、強く抱きしめた。

店の中には今、満開の薊が咲き乱れる幻影が見える。

その棘は痛いけれど、どんな幸福な記憶よりも、優しく、温かい香りがした。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • エララ: 感情を嗅覚で捉える共感覚者。シニカルな態度だが、それは他人の感情に振り回されないための防衛本能。自身の過去を知らずに生きてきた。
  • 老人(祖父): 過去に孫娘(エララ)の命を救うため、自身の「家族への愛の記憶」を高値で売り払った。その結果、孫娘の存在すら忘れてしまっていた。

【考察】

  • 「香り」のメタファー: 本作において香りは「感情の本質」を象徴する。嘘をついても匂いは誤魔化せない設定は、言葉よりも雄弁な真実を描写するために機能している。
  • 薊(アザミ)の意味: 花言葉は「独立」「報復」の他に「触れないで」という意味がある。老人の記憶が薊として咲いたのは、その記憶があまりにも痛切で、触れれば傷つくほどの愛だったことを示唆している。
  • 「忘却」という愛: 一般的に忘れることは悲劇だが、本作では「忘れること(記憶を売ること)」が究極の自己犠牲として描かれている。記憶を取り戻すラストは、痛みを伴う愛の受容を意味する。
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