追憶の琥珀

追憶の琥珀

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路地裏に降る雨は、都会の喧騒を吸い込んで、どこか遠い海の底のような静寂を作っていた。古びた雑居ビルの最上階、錆びついた鉄扉に『記憶屋』とだけ書かれた真鍮のプレートが、頼りない蛍光灯の明滅に照らされている。

壮助は濡れたコートの襟をかき合わせ、震える指で呼び鈴を押した。チリリン、と場違いなほど軽やかな音が響く。重い扉が内側から開かれると、そこにはインクと乾燥したハーブ、そして微かな焦げ臭さが混じった独特の匂いが充満していた。

「いらっしゃいませ。雨の中、ようこそお越しくださいました」

カウンターの向こうで、年齢不詳の女が微笑んでいた。白磁のような肌に、星屑を閉じ込めたような瞳。彼女はこの店、記憶の売買所の店主だ。

「……買い戻したいものがあるんだ」

壮助の声は掠れていた。七十を超えた体は、ここ数ヶ月で急激に衰えていた。医者はもう匙を投げている。残された時間は、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように少なかった。

「買い戻し、ですか。売り払った記憶を?」

女は驚く様子もなく、金縁の眼鏡の位置を直した。その仕草は、図書館の司書が返却期限の過ぎた本を処理する時のように事務的だった。

「ああ。四十年前に売った。どうしても、あれが必要なんだ」

「お客様のお名前は?」

「相沢壮助だ」

女は手元の分厚い台帳をめくり始めた。紙が擦れる音だけが、店内に響く雨音に重なる。壮助は店内の棚に目をやった。そこには無数の小瓶が並んでいる。青く輝くもの、赤黒く澱んだもの、白く濁ったもの。一つ一つが誰かの「過去」であり、誰かの「人生」の一部だ。

「ありました」

女の声に、壮助は弾かれたように視線を戻した。

「昭和五十八年、六月四日。午後二時から五時までの三時間分の記憶。分類コードは『Sランク・純愛/家族』。……間違いありませんか?」

壮助は深く頷いた。喉の奥が熱くなった。

「間違いない。妻と、当時五歳だった娘と行った、海辺の記憶だ」

あの日、空は突き抜けるように青く、波は穏やかだった。病弱だった妻が久しぶりに体調が良いと言って、娘の手を引いて波打ち際を走っていた。その笑顔。娘の歓声。日差しの暖かさ。そして、妻が振り返って自分に向けた、この世で最も美しい微笑み。

だが、その一週間後、娘が高い熱を出した。特異な感染症だった。手術には莫大な金が必要だった。しがない工場勤務の壮助に、そんな貯えはなかった。親戚中を頭を下げて回ったが、それでも足りなかった。

絶望の淵でこの店を見つけた時、壮助は迷わなかった。自分の人生で最も輝かしく、最も価値のある時間を切り売りしてでも、娘の命を救いたかったのだ。店主は、その記憶の純度と幸福度の高さを評価し、手術費を賄えるだけの値をつけた。

記憶を抽出された直後、壮助の心には奇妙な空洞ができた。「海に行った」という事実は覚えている。写真も残っている。だが、その時どんな風が吹いていたのか、妻がどんな声で笑ったのか、自分の胸にどんな愛おしさが込み上げていたのか、その「質感」だけがすっぽりと抜け落ちていたのだ。

「状態は極めて良好です。琥珀色に熟成されていますね」

女は棚の奥から、親指大の小瓶を取り出した。中には蜂蜜のようにとろりとした黄金色の液体が満たされている。

「いくらだ」

壮助は財布を取り出そうとした。だが、女は首を横に振った。

「お金ではお売りできません。一度買い取った記憶は、それと同等か、それ以上の価値を持つ『未来』とでなければ交換できない決まりですので」

「未来……?」

「はい。お客様の残りの寿命、あるいは今後得られるはずの可能性。それらを対価としていただきます」

壮助は自嘲気味に笑った。

「俺の残りの寿命なんて、たかが知れている。病気でボロボロの体だ。そんなものに価値があるのか?」

「ええ、ありますとも」

女は小瓶を光にかざしながら、うっとりとした表情で言った。

「死を目前にした人間が、最期にどうしても取り戻したいと願う執着。その魂の輝きは、どんな健康な若者の漫然とした十年よりも価値があるのです」

壮助は黙ってコートのポケットから一枚の写真を取り出した。色褪せた、海辺の家族写真だ。妻はもういない。娘はあの手術のおかげで助かり、今は遠い街で幸せな家庭を築いている。孫も生まれたと手紙が来た。それで十分だった。

自分は一人、アパートの一室で死を待つ身だ。だが、どうしても怖かった。あの日の温もりを思い出せないまま、冷たい闇へ落ちていくのが。妻の笑顔の「感触」を知らないまま、妻の元へ逝くことが。

「……くれ。俺の残りの時間、全てやる」

女はにっこりと笑い、カウンターに小瓶と小さなグラスを置いた。そして、小瓶のコルクを抜いた。甘く、どこか懐かしい香りがふわりと漂った。

「商談成立です。どうぞ、飲み干してください」

壮助は震える手でグラスを掴み、一気に煽った。

刹那、世界が反転した。

雨音は消え、代わりに波の音が鼓膜を打った。潮の香りが鼻腔をくすぐる。肌を撫でる初夏の風。足裏に感じる砂の熱さ。

『あなた、早く!』

声がした。振り向くと、白いワンピースを着た妻が、麦わら帽子を押さえながら笑っていた。その隣で、小さな娘が貝殻を拾って掲げている。

『パパ、みてー! きれいな色!』

愛おしさが、津波のように押し寄せた。胸が張り裂けそうなほどの幸福感。そうだ、この感覚だ。これを俺は、ずっと探していたんだ。

壮助は駆け出した。妻と娘の元へ。伸ばした手が、妻の手に触れる。温かい。柔らかい。生きている。

「……ただいま」

現実の古びたビルの一室で、壮助は椅子に深くもたれかかり、目を閉じたまま呟いた。その口元には、穏やかで満ち足りた笑みが浮かんでいた。

店主の女は、動かなくなった壮助の手からグラスをそっと取り上げた。彼の体からは力が抜け、心臓の鼓動は止まっていたが、その表情はかつてないほど生き生きとしていた。

「おかえりなさいませ。……良い夢を」

女はカウンターの奥へ戻り、新しいラベルを一枚取り出した。そこには『相沢壮助・最期の幸福』と書き込み、空になった小瓶の隣にあった、新たな空瓶に貼り付けた。

窓の外の雨は、いつの間にか上がっていた。雲の切れ間から差し込む月光が、主のいなくなった椅子を静かに照らしていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 相沢壮助 (70代): 貧しくも家族を愛した男。過去に娘の命を救うため、自分にとって一番大切な記憶を売った。死を目前にし、その記憶を取り戻すことを最後の望みとする。
  • 記憶屋の女店主 (年齢不詳): ミステリアスな雰囲気の女性。感情を表に出さず、淡々と記憶の売買を行う。冷徹に見えるが、顧客の「想い」の価値を誰よりも理解している。

【考察】

  • 記憶の価値: 物語は「記憶」を単なる情報ではなく、人生の質感や感情そのものとして描いている。壮助にとっての記憶は、金銭的価値を超えた魂の救済であった。
  • 自己犠牲と救済: 若き日の壮助は「娘の未来」のために過去を売り、老いた壮助は「過去の幸福」のために未来(余命)を売った。この対比は、親の愛の深さと、人生の最期に人が何を求めるかという問いを投げかけている。
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