第一章 空白の肖像
私立碧葉(へきよう)学園には、一つの奇妙な伝統があった。卒業生は、三年間で最も輝いていた「記憶」を一つ、学校に寄贈しなければならない。それは卒業証書を受け取るための、最後の、そして最も重要な儀式だった。
僕、水瀬蒼(みなせあおい)は、その伝統を馬鹿げていると思っていた。記憶なんて、脳が作り出す曖昧な電気信号に過ぎない。差し出すことに何の抵抗もなかった。むしろ、僕には消してしまいたい記憶の方が多い。だからこの全寮制の学園を選んだのだ。過去を断ち切り、空っぽの人間として新しい人生を始めるために。
高三の秋。湿った落ち葉が敷き詰められた中庭を抜け、僕は図書館の奥深くにある「記録閲覧室」に足を踏み入れた。埃と古いインクの匂いが鼻をつく。目的は、数十年前の卒業アルバムだった。卒業研究の資料探しという名目で忍び込んだが、本当の理由は違った。この学園の「記憶寄贈」というシステムが、過去にどのように機能してきたのか、その痕跡を探りたかったのだ。
分厚いアルバムをめくっていくと、ある異変に気づいた。どの年代にも、必ず数ページ、奇妙な空白が存在するのだ。集合写真の中の数人の顔が、まるで初めからそこにいなかったかのように白く塗りつぶされている。個人写真のページは、名前も顔写真もくり抜かれ、ただ白い人型だけが虚しく残っていた。これは単なる劣化ではない。意図的に、完璧に消された痕跡だった。
「何してるの、蒼くん?」
背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。振り返ると、そこにはクラスメイトの宮沢陽菜(みやざわひな)が立っていた。太陽を溶かし込んだような明るい笑顔で、僕の心臓のあたりを無遠慮に照らしてくる、そんな女の子だった。
「別に……。調べ物だ」
「ふぅん? それ、古い卒業アルバムでしょ。何か面白いことでも書いてあった?」
陽菜は僕の隣に屈み込み、躊躇なく空白のページを指さした。
「あ、これね。不思議だよね。先生に聞いても、昔のことでよく分からないって言うんだ」
「お前も気づいてたのか」
「もちろん! 私、この学校の七不思議の一つだと思ってるんだ。『消えた卒業生たちの肖像』ってね!」
陽菜は屈託なく笑う。僕が抱いた薄気味悪い感覚など、彼女の前では些細なことのように思えた。彼女は僕とは正反対だった。記憶を慈しみ、日々の些細な出来事を宝物のように語る。そんな陽菜と関わることは、僕の計画を狂わせるだけだと、頭では分かっていた。だが、彼女の笑顔を見ていると、僕の心に張り巡らせた氷の壁が、少しだけ溶けていくのを感じずにはいられなかった。この時、僕たちの運命が、この空白のアルバムを起点に、予想もつかない方向へ回り始めることになるとは、まだ知る由もなかった。
第二章 色づく時間
陽菜は、僕の孤独な世界に、鮮やかな色彩を持って現れた。それまでモノクロだった学園生活が、彼女と話すたびに、少しずつ色づいていくのを感じた。昼休みには、手作りだという歪な形のおにぎりを「一個あげる」と押し付けてきたり、放課後には「屋上からの夕焼けが絶景なんだよ!」と僕の腕を引いて連れて行ったりした。
最初は戸惑い、煩わしいとさえ思った。他人と深く関わることは、新たな執着を生むだけだ。しかし、夕日に染まる空を二人で眺めながら、陽菜がぽつりと呟いた言葉が、僕の心を揺さぶった。
「私ね、記憶って、写真みたいなものだと思うんだ。嬉しいことも、悲しいことも、全部心のアルバムにしまっておくの。時々見返して、ああ、こんなこともあったなって。そうやって、今の私ができてるんだって思うから」
彼女の横顔が、茜色の光に縁取られて輝いていた。その瞳は、過去も未来も、全てを愛おしむように真っ直ぐ前を見つめている。忘れることばかり考えていた僕にとって、それは衝撃的な価値観だった。
文化祭の準備が始まると、僕たちはさらに多くの時間を共にした。クラスの出し物は、手作りのプラネタリウムに決まった。僕は黙々と背景の黒い幕を作る作業に没頭していたが、陽菜は持ち前の明るさでクラスをまとめ、星の配置を考え、楽しそうにペンキを飛び散らせていた。
ある夜、作業が長引き、僕と陽菜だけが教室に残った。ペンキの匂いが充満する中、床に広げた巨大な黒い布に、僕たちは白い絵の具で星を散りばめていた。
「蒼くんはさ、卒業したら、どの記憶を寄贈するか決めてる?」
不意の質問に、僕は筆を止めた。
「……別に、どれでもいい」
「そっか。私はね、まだ迷ってるんだ。だって、全部大切で、一番なんて選べないよ」
陽菜はそう言って、僕の頬に白いペンキが付いているのを指さして笑った。彼女がハンカチで拭ってくれた時、その指先の温かさと、シャンプーの甘い香りに、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。この瞬間。今、この何でもない時間が、僕にとってかけがえのない宝物になっていく。
失ってもいい記憶なんて、もうどこにもない。陽菜との思い出が増えるたびに、僕の心は豊かになる一方で、卒業というタイムリミットへの恐怖が募っていった。もし、この文化祭の夜の記憶を寄贈したら? 陽菜の笑顔も、指先の温もりも、この胸の高鳴りも、全て失ってしまうのだろうか。それは、過去を捨てることよりも、ずっと恐ろしいことのように思えた。
第三章 記憶の代償
文化祭は大成功に終わり、季節は冬へと移ろいだ。卒業が現実味を帯びてくるにつれ、僕はあの空白の卒業アルバムの謎に再び取り憑かれるようになった。陽菜との記憶を守りたい。その一心で、僕は学園の禁忌に触れる覚悟を決めた。
深夜、司書教諭の目を盗んで「記録閲覧室」の奥にある施錠された書庫に侵入した。そこには、歴代の「寄贈された記憶」に関する記録ファイルが眠っていた。埃をかぶったファイルを一つ手に取り、震える指でページをめくる。そこに記されていたのは、僕の想像を絶する、残酷な真実だった。
この学園の「記憶寄贈」は、単に思い出を差し出す儀式ではなかった。寄贈された記憶は、特殊な技術によって生徒の脳から完全に抽出・消去される。そして、最も重要な点は、その記憶に強く関連する人物や感情、人間関係までもが、連鎖的に摩耗、あるいは消滅するということだった。
空白の卒業アルバムの正体は、それだったのだ。彼らは「最も輝いていた記憶」――例えば、親友と過ごした日々や、恋人と愛を育んだ時間――を寄贈した。その結果、彼らの心から親友や恋人の存在そのものが希薄になり、人間関係がリセットされた状態で社会に送り出されていたのだ。学園は、純粋で強力な「幸福の記憶」を収集し、何らかの目的に利用しているらしい。これは、未来ある若者の魂を対価にした、恐ろしいシステムだった。
愕然としている僕の目に、あるファイルが飛び込んできた。それは、宮沢陽菜の入学時提出書類の控えだった。そこには、彼女の入学動機が記されていた。
『二年前に、交通事故で両親を亡くしました。以来、私は深い悲しみと罪悪感から抜け出せずにいます。この碧葉学園で、両親との記憶を上回るほどの、最高に幸せな記憶を作り、それを卒業時に寄贈することで、過去の痛みから解放されたいと願っています』
全身の血が凍りつくのを感じた。陽菜がいつもあんなに明るく、懸命に思い出を作ろうとしていたのは、全てこのためだったのか。僕と過ごした時間も、彼女にとっては辛い過去を忘れるための「代用品」に過ぎなかったのか。いや、違う。そう信じたい。しかし、僕との記憶が彼女にとって「最高の記憶」になればなるほど、彼女はそれを差し出し、僕の事を忘れてしまう。どちらに転んでも、僕たちの関係は消え去る運命なのだ。
書庫の冷たい床に座り込み、僕は声を殺して泣いた。陽菜がくれた色彩は、残酷な真実を知った今、全てが褪せて、絶望の色にしか見えなかった。
第四章 僕らが選んだ未来
卒業式の日、空は突き抜けるように青かった。講堂に集まった生徒たちの顔は、希望と一抹の寂しさに満ちている。僕の隣に座る陽菜は、どこか吹っ切れたような、穏やかな表情をしていた。
式が終わり、生徒たちは一人ずつ「記憶寄贈室」へと呼ばれる。自分の番を待つ間、僕の心は千々に乱れていた。陽菜との記憶を差し出せば、僕は彼女を忘れる。陽菜が僕との記憶を差し出せば、彼女は僕を忘れる。どちらも耐えられない。
ついに、陽菜の名前が呼ばれた。彼女は立ち上がり、僕の方を振り返って、小さく、しかしはっきりと微笑んだ。その瞳には、涙が薄く滲んでいた。
「蒼くん。三年間、本当にありがとう。すごく、楽しかった」
その言葉が、彼女の最後の別れの挨拶のように聞こえた。彼女が部屋に入っていくのを見送りながら、僕は自分の無力さに打ちひしがれていた。
そして、僕の番が来た。重い足取りで部屋に入ると、そこには白い椅子と、頭部に装着するヘッドギアのような機械が一つあるだけだった。係員の教師が、事務的な口調で告げる。
「寄贈する記憶を、心の中で強く思い描いてください。最も鮮明で、感情が昂ぶる記憶が自動的に選択されます」
僕は目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、陽菜との数々の思い出だ。夕焼けの屋上、ペンキの匂いがした教室、文化祭のプラネタリウムで見た満天の星。どれもが愛おしく、失いたくない。このままでは、この中のどれかが選ばれてしまう。
その時、僕は心の奥底に沈めていた、もう一つの記憶に手を伸ばした。それは、この学園に来る前の、孤独で、灰色だった日々の記憶だ。誰とも話さず、心を閉ざし、ただ時間が過ぎるのを待っていた、空っぽの僕の記憶。忘れたいと、消してしまいたいとずっと思っていた記憶。
しかし、陽菜と出会って、僕は変わった。あの孤独があったからこそ、陽菜の温かさが身に染みた。あの灰色の日々があったからこそ、彼女がくれた色彩がこんなにも鮮やかに見えたのだ。この記憶は、僕の「始まり」の記憶であり、僕の成長の証そのものだ。失うには、あまりにも惜しい。だが――。
僕は決意した。陽菜との未来を守るために。
「決めました」
僕が目を開けると、機械が静かに作動を始めた。頭の中に冷たい何かが流れ込み、僕の一部がゆっくりと剥がされていくような奇妙な感覚。やがて、全てが終わった。
部屋を出ると、校門の前で陽菜が待っていた。僕の顔を見ると、彼女は不安そうな表情で駆け寄ってきた。
「蒼くん……? 私ね、結局、選べなかった。両親との記憶も、あなたとの記憶も、どっちも今の私だから。だから私、何も差し出さずに……」
「僕もだ」
僕は嘘をついた。でも、これは僕が選んだ真実だった。
「僕も、何も差し出さなかった。全部、持っていくことにしたよ」
「本当…?」
陽菜の目に、みるみるうちに涙が溢れ出す。僕は彼女をそっと抱きしめた。
僕が差し出したのは、「孤独だった過去の記憶」だ。それは、陽菜との記憶に比べれば輝きは劣るかもしれないが、僕の内面を根底から変えた、強烈な感情を伴う記憶だった。システムはそれを「最も感情が昂ぶる記憶」の一つとして受理した。
その代償として、僕の中から孤独を知っていた感覚が、ごっそりと抜け落ちていた。なぜ自分が他人を避けていたのか、なぜこの学園に来たのか、その動機が曖昧になっている。まるで、生まれつき太陽の下を歩いてきた人間であるかのように、心に影がない。僕は、僕の一部を失ったのだ。
それでも、後悔はなかった。腕の中には、陽菜の温もりがある。僕が守りたかった記憶は、確かにここにある。
僕たちは二人、互いの記憶を抱えたまま、碧葉学園の校門をくぐった。失われたものと、得られたもの。そのどちらもが、これからの僕たちを作っていくのだろう。空はどこまでも青く、僕たちの未来を祝福しているようだった。記憶とは何か。人を人たらしめるものは何か。その答えの出ない問いを胸に、僕たちは新しい一歩を踏み出した。