空白のクロノグラフ
第一章 虹の街とひび割れた時間
街は常に、七色の光で溢れていた。人々は互いの頭上に浮かぶ『虹色のオーラ』を見つめ、そこに映し出される人生で最も輝かしい瞬間を値踏みするように生きている。世界的指揮者がタクトを振るった伝説の演奏会、宇宙飛行士が初めて地球を眺めた感動、あるいは、ただ愛する人にプロポーズが受け入れられた夜。それらは個人の記憶であると同時に、衆目に晒された評価の証だった。
僕、水島 海(みずしま かい)の頭上には、高校時代の美術コンクールで最優秀賞を受賞した瞬間の、控えめだが透明な虹が揺らめいている。あの日の絵の具の匂いと、鳴り止まなかった拍手。それが僕の価値の全てだった。そして、呪いでもあった。
アトリエの窓から差し込む西日が、床に散らばる描き損じのスケッチを橙色に染めている。苛立ちが胸の奥で渦を巻く。真っ白なキャンバスが、僕の才能の枯渇を嘲笑っているかのようだ。手にしていたマグカップを、思わず強く握りしめた。ピシ、と微かな音を立てて、陶器に細い亀裂が走る。
「……またか」
溜め息と共に、絶望に近い感情がこみ上げた瞬間、世界が奇妙に軋んだ。マグカップの亀裂が、まるで映像を逆再生するかのようにスルスルと消えていく。カップから零れ落ちたはずのコーヒーの雫が、重力に逆らって床から浮かび上がり、一滴残らずカップの中へと吸い込まれた。
僕が強い感情を抱くたび、僕の周囲の物質的な時間だけが、こうして数秒間だけ巻き戻る。僕自身の記憶と肉体は、決して戻らない流れの中に取り残されたまま。この制御不能な能力が、僕の孤独をさらに深くしていた。
テレビのニュースキャスターが、神妙な面持ちで報じている。今世紀最高のヴァイオリニストと謳われた男、ジュリアン・アッシュのオーラが、昨夜、完全に消滅した、と。彼の最高傑作とされた『魂のソナタ』は、今や誰の記憶にも残っておらず、楽譜も録音も、まるで初めから存在しなかったかのように世界から消え去っていた。
第二章 錆びついたクロノグラフ
オーラ消滅現象。それは、ここ数年で世界を静かに蝕む奇病だった。最も輝かしいオーラを持つ者から順に、その栄光の証が消え、功績そのものが歴史から抹消されていく。人々はそれを『空白化』と呼び、恐怖した。
僕は、その原因が自分にあるのではないかと怯えていた。僕のこの忌まわしい時間逆行の力が、彼らの輝かしい時間を巻き戻し、消し去っているのではないか。その疑念は、胸の奥に冷たく沈殿していた。
ポケットの中で、ひやりとした金属の感触がする。祖父の形見である、錆びついた真鍮製の懐中時計。止まったままのそれは、僕にとって唯一の心の拠り所だった。
街角のベンチで、若い女性が泣きじゃくっていた。彼女の頭上には、かつてジュリアン・アッシュのコンサートで熱狂した瞬間のオーラが、今はノイズのように乱れて明滅している。
「思い出せない……あんなに心を揺さぶられた曲なのに……」
彼女の嗚咽が、僕の罪悪感を鋭く抉る。悲しみと、無力な自分への怒りが込み上げてきた。
その瞬間、再び世界が歪んだ。
カチリ、とポケットの中で時計が鳴る。風に舞っていた落ち葉が枝に戻り、泣いていた女性の涙が頬を遡っていく。僕は慌てて懐中時計を手に取った。
すると、鈍く曇った文字盤の上で、信じられない光景が繰り広げられていた。消えたはずのヴァイオリニスト、ジュリアン・アッシュが、満場の喝采を浴びながらステージで微笑んでいる。その映像は音もなく、まるで古いフィルムのように逆再生され、彼が舞台袖に消えていくところでプツリと途絶えた。
これは、消え去った記憶の残滓。この時計だけが、失われた時間を記憶しているのだ。
第三章 色褪せた金メダル
僕は、次に『空白化』の標的になると噂されている人物に会うことを決意した。伝説の陸上選手、長谷川 凛(はせがわ りん)。彼女のオーラは、オリンピックで金メダルを獲得した、あの栄光のゴールの瞬間。しかし、その輝きは今や風前の灯火だという。もし僕の能力が原因なら、彼女に会うことで何かが分かるかもしれない。
電車を乗り継ぎ、たどり着いたのは海辺の小さな町だった。潮の香りが鼻をくすぐり、カモメの鳴き声が空に響いている。凛は、ここで小さな花屋を営んでいた。
ガラス張りの店の奥で、彼女は土に汚れた手で、黙々と花の世話をしていた。彼女の頭上に浮かぶオーラは、確かに噂通りだった。ゴールテープを切る若き日の彼女の姿が、今にも消え入りそうに揺らめき、その虹色もほとんど白に近いほど色褪せている。
僕の視線に気づいた彼女は、柔らかく微笑んだ。
「そのオーラ、美術のコンクールかしら。素敵な色ね」
彼女の声は、海風のようにおだやかだった。
「僕のせいで、あなたのオーラが……」
言葉を続けられずにいると、凛は首を横に振った。
「見に来たのね。自分が『空白化』の原因じゃないかって、確かめに」
彼女の瞳は、全てを見透かしているようだった。
第四章 空白の祝福
凛は、僕を店の裏にある小さな庭に招き入れた。色とりどりの花が咲き乱れ、甘い香りが満ちている。彼女は屈みこんで、一輪の蕾を慈しむように撫でた。
「あの金メダルは、私の全てだった。でもね、いつからか重荷になっていたの」
彼女は静かに語り始めた。
「誰もが私に、あの栄光の瞬間を求める。でも、私はもうあの頃の私じゃない。ただ、土をいじり、この花たちが咲くのを見守る今の時間が、何より愛おしいのよ」
彼女の言葉が、僕の胸に深く突き刺さった。僕も同じだった。いつまでも過去の栄光に縛られ、新しい一枚を描けずにいる。
「だからね、これは悲劇じゃないの。解放よ」
凛は僕に向き直り、晴れやかな笑顔を見せた。
「過去の自分を手放して、新しい『空白』を受け入れる。そう決めた人間だけが、オーラを消せる。君の力は、たぶん……私たちが過去の自分に別れを告げる、その背中を少しだけ押してくれているだけ」
その言葉が、僕の中で絡まっていた糸を解きほぐしていく。衝撃と、安堵。そして、理解。
僕の感情が大きく揺さぶられた、その瞬間。
ふわり、と風が吹いた。凛の頭上に揺らめいていた最後の光が、まるでタンポポの綿毛のように空へと舞い上がり、光の粒子となって溶けて消えた。世界から、陸上選手・長谷川凛の記録が、人々の記憶が、静かに薄れていく。
彼女の表情は、穏やかで満ち足りていた。まるで、重い荷物を下ろしたかのように。
ポケットの懐中時計が、カタカタと激しく震える。文字盤には、若き日の彼女がゴールテープを切り、歓喜の涙を流す姿が逆再生で映し出され、そして消えた。
破壊ではなかった。これは、祝福だったのだ。
第五章 さよなら、僕の虹
アトリエに戻った僕は、壁に飾られた一枚の絵を見つめていた。高校時代に描いた、最優秀賞の作品。僕のオーラであり、僕の呪縛そのもの。
もう、いいんだ。
僕も、過去を手放そう。この輝かしい呪いから、自由になろう。
僕は錆びついた懐中時計を強く、強く握りしめた。これまで抑え込んできた全ての感情を、解き放つ。後悔も、嫉妬も、焦りも、そして未来への渇望も。その全てを、この一瞬に叩きつける。
「さよなら、僕の虹」
感情が爆発し、僕の能力がこれまでにない規模で暴走した。
ゴウ、と嵐のような音を立てて、アトリエの時間が激しく逆行を始める。
描きかけのキャンバスが瞬時に白紙に戻り、パレットの上の乾いた絵の具がチューブの中へと吸い込まれていく。壁の賞状はインクの染みとなり、やがてただの紙の束へと還っていく。床に散らばっていたスケッチの木炭の粉が、一本の木炭へと再構築される。
そして、僕の頭上から、あの拍手と絵の具の匂いがした輝かしい瞬間が、光の帯となって引き剥がされていくのを感じた。僕の価値の全てだった虹が、懐中時計の中に吸い込まれるように消えていく。
第六章 虹の降らない朝
翌朝、僕は生まれ変わったような静けさの中で目を覚ました。
窓の外を見ると、世界は一変していた。街を覆っていた七色の光は、どこにもない。誰もが、ただの人として、互いの素顔を見つめ合っている。戸惑い、不安、そしてどこか安堵したような表情で。
僕の最後の感情の爆発は、過去の栄光に囚われた全ての人々のオーラを消し去る、最後の引き金となったのだ。比較も、羨望も、重圧もない世界。人々はこれから、それぞれの不完全な『空白』を抱きしめて生きていく。
机の上の懐中時計を手に取る。それはもう、失われた時間を映し出すことはない。ただの、時を刻むことをやめた古い時計になっていた。
僕は、真っ白なキャンバスの前に立つ。
これから何を描くのか、まだ分からない。栄光も、評価もないこの場所で、何を生み出せるのかも。
だが、それでよかった。
無限に広がるこの『空白』こそが、僕の、そしてこの世界の、本当の始まりなのだから。
僕は静かに微笑み、新しい未来を描くための、最初の一筆を手に取った。